長岡亮介のよもやま話140「ビジュアライゼーションの罠」

 今回は、やはり最近非常によく使われるようになったコンピュータ関連の用語を取り上げたいと思います。それは‟可視化”、妙な日本語でありますが、英語の動詞で言えば、visualize;visualにするという動詞を名詞にしてvisualizationというふうに言います。昔コンピュータは、視覚的な情報といっても基本的に文字だけでありまして、我々は文字を利用することによって、非常に多様な表現をすることができる高度な文化を発達させてきているわけですが、一方、文字による情報というのは、数学の記号と同じで一種の抽象が入っていますから、その抽象を理解できないと文字情報というのは、頭の上を通り過ぎていく。日本で言えば、「左の耳から入って右の耳から抜けていく。」音で言えばそういう感じですが、文字情報というのは、目で入っているようでいて、実は読んでいるけれども頭の中に入っていかない。そういう状況がありえますね。人から聞いた話、そして読んだ話、そういう情報には鮮明な記憶を残すという点で、今一歩というところがあるにはあるわけです。それに対して、目で見るということは、最も直接的に情報をキャッチする。わかりやすく言えば、目の情報っていうのは非常に大量なんですね。私達は一瞬にしてある世界を、全体をぱっと見ることができる。人間の視覚っていうのは、そういう特別の高速情報処理能力というのを持っていると思います。

 しかし一方で、目の見えない方は、そういう視覚的な情報を得ない代わりに、むしろそれを補うだけの素晴らしい力を持ってるってことを、私はたまたま先天的に視覚障害の天才的な学生を昔教えたことがあって、それで大変に驚いたことがあります。そのときの経験をお話すると、私達は目が見えるということによって、実は本当の意味で「物がわかるという能力」をむしろ減らしてるんではないかと。あるいはそういうことでハンディキャップを負ってるんではないかと思うことです。視覚障害者の人の理解する世界の奥行きというのはなかなか素晴らしいもので、話を聞けば聞くほど素晴らしいんですね。それが面白いことに、その彼から聞いた言葉でありますが、先天的に視覚障害者である者はそういう能力を身につけることができるんだけれども、後天的に例えば私のように年を取って例えば糖尿病という病気によって視覚を失う、年を取ってから視覚を失うとすごくハンディキャップがあって、要するに目で見えていたときの情報処理能力、それに頼って理解しようとするので、なかなか世界がわからない。そういう話を聞いて非常に心を打たれたことがありますが、考えてみると中学校の最初の頃、不定詞とか動名詞っていうのを習ったときにTo see is to believeあるいはSeeing is believingという表現を習いますね。日本語では、「百聞は一見にしかず」というふうに訳される。その典型的な不定詞あるいは動名詞の用法なんですが、確かに「百聞は一見にしかず。」100回聞いてるよりも、1回その場で自分で見た方がはっきりわかるということなんですが、果たしてそうなのでしょうか。私達は、視覚の持っている高速情報処理能力というものにあまりにも頼りすぎていて、そのために「見ていて、実は見ていない。」それは英語にすると、to see with eyes目でもって見るということはto see with heart心でわかる。英語にはseeという言葉には、「見える」という言葉の他に、あるいは「見る」という言葉の他に、「わかる」っていう言葉の意味がありますが、目で見てるがためにかえってわからなくなってるということがあるということを、特に現代の私達は忘れがちではないかと思うんですね。

 コンピューターの能力が発達しまして、昔のように文字情報がディスプレイに表示されるというだけではなく、そこにグラフィックス・多彩な画像を含む、場合によっては3D、3次元の図形を易々と円を描き、子供たちの使ってるゲームシーンでは、スクリーンで立体的な映像をあたかもそこに人間がいるかのように、子供たちが感じて遊びに夢中になるというところがありますね。可視化、ビジュアライゼーションというのは、そういう子供たちにもわかる迫力を持ってるっていうことは確かです。しかしながら、一方で、所詮それは子供たちがわかるレベルでわかっていることだ、あるいはそのことに過ぎない可視化の限界というものも、私達は同時に考えなければいけないと思うんです。数学をやっていると、数学ではグラフというのがあります。それは、言ってみれば関数というものの振る舞いをビジュアルに理解するための方法として非常に有効な手段でありますけれども、実は現代数学では、ビジュアライズできないような関数の振る舞い、それを考えるんですね。いくら頑張ってもビジュアライズすることができない最も有名な関数の例は、ちょっとテクニカルタームが入りますが、連続な関数で、連続な関数というのはグラフが繋がってる、グラフが繋がってる関数というのは所々とんがっていても滑らかなところが必ず入ってるという意味で、どっかで微分可能だというふうに思うわけですが。実は連続な関数でしかも至るところ微分不可能なそういう関数の例っていうのが、いくらでも作れる。それを最初に作ったのは19世紀の偉大な数学者であるワイエルシュトラスという数学者なんですが、そういう言ってみれば常識では理解できない、あるいは私達の子どもの頃から生得的に備わった視覚能力では理解することのできないような煩雑な振る舞い、とんでもなく複雑な振る舞いをする関数が簡単に作ることができるということが、19世紀後半に特にドイツで、それが流行るわけであります。私達が自分の直感でもって理解するということに対して限界があるということを数学者は、本当に心を打たれるように、あるいは本当に驚かされるように、学ぶわけです。全く新しい世界が数学の世界にあるということを初めて知るわけですが、以来数学においては、視覚的な情報というのはそれだけでは信じられない。直感的な世界というのはそれだけでは信頼に足らない。論理的な証明が不可欠であるということを教訓として学んでおります。

 一方でそういう例外的な場合を除けば、視覚的に理解するということは、本当に強力な方法でありまして、特に絵を想像することが難しい3次元以上の空間の中での図形の振る舞いについて理解する上で、ビジュアライゼーションのツールというのは数学においても大活躍しています。数学においてだけではなく、特に私達の日常的にも重要な統計という分野においては、統計的な処理を少しでも視覚的に理解しようとする。そのことをよって数学的に出された結論というのは、実はどういう仕組みになっているかということを理解することができるという点も大事なんですね。だから、コンピュータを使ったビジュアライゼーション可視化というのは、とても重要なテクノロジーあるいはアプローチの仕方であると同時に、一方で、そういうビジュアライゼーションには人間の深い思索能力で迫る世界には到底及ばない。私達にとって「本当に頼りになるのは、私達の思索の力だ」ということを教えてくれてるという意味で、ビジュアライゼーションというのはとても大切だと思うんです。私達は、可視化というものの威力、それを理解すると同時に、可視化というものを持つ軽薄な限界。所詮は確かに過ぎないという側面、それを同時に理解することがとても大切であると考えています。そのことは、数学をちょっとでも知っていれば簡単にわかることですが、数学を知らないと、ビジュアライゼーションが全てだと思ってしまいます。それは違うということですね。

 しかし同時に面白いことに、数学者は、例えば高次元空間というものを考えますが、それは普通肉体の目では見ることのできない世界であります。肉体の目では見ることのできない世界であるはずなのですが、数学では何らかの意味で、論理的にそれを可視化して理解してる。あたかも、その3次元の世界の中のものを2次元の世界キャンバスに写し取るように、高次元の世界を3次元の世界に写し取って見ているというようなところもあるわけです。人間が目に見えないものを、目で見えているかのように理解しようとする能力さえ持っているということ。そのことを、実は私は先天的に視覚障害、盲人の若い学生から教えてもらいました。To see is to believe有名な表現ですが、これこそ、私達の認識に関する傲慢を語る最も典型的な言葉であると思います。私達は、「目で見ることでもって、全てのことがわかるわけではない」ということを、決して忘れてはならないと思います。皆さん、いかがですか。

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