長岡亮介のよもやま話138「学校の勉強」

 私自身はずっと教育の周辺で生きてきましたので、それが何に役に立つかという問題について考えたことがなかったのですが、今の学校の周辺を私の目で観察すると、「果たして何のために学校に行くのか」という問いを、この年になって初めて発するようになりました。というのは、私が子どもの頃はもちろん学校に行くのは楽しくて楽しくて仕方がない。毎日が学校に行くということを中心として回っているということに対して、幸せこそ感ずれ、それが理不尽なことだというふうに考えたことは1回もありませんでした。小学校6年間の間で、途中一時期つまらない時期がありました。それは担任の先生の問題だと思いますが、私自身はそういう個人的な問題というよりは、学校がつまらない代わりにもっと楽しいことが見つかったということで過ごしておりました。小学校6年生の時に転校しまして、そこで生まれて初めて受験勉強というのをやる周辺の友達に囲まれたわけです。びっくりしました。私の意味のわからない言葉を自由自在に操っている。と、当時は見えたわけですね。今から見れば、何もわからないで本当に機械的に丸暗記種を強いられている。そういう子どもたちの姿であったんですが、私は自分自身がそんなことをしなければならないとも思わないし、したこともありませんでしたから、何をやるのかということが全くわかりませんでした。私は私の親友となる友人に、算数のイロハなどについて勉強するわけでありますが、それでもそこで習った算数の基本的なテクニックも考えてみれば当たり前じゃないかと思うようなものばかりだと思います。いわゆる時計山というのが難しくて、12分の11ではあるんだとか何とかってそういうふうな技術的なことで習ったときには本当に何を言っているのかよくわかりませんでしたけど、時計の長針と短針の進む速さの比を考えれば当たり前のことだと、いうふうに考えました。当時私は回転角速度なんて概念を理解したわけではありませんけれども、回転角速度ではなく回転速度ですね。回転速度より回転角速度って言った方が本当は正確なんですが、小学校の子どもの立場で言えば回転速度だったと思います。そういう意味の非常に素朴な理解で算数のいろんな技法のテクニック、その背景にある数理についてはそれなりにわかったつもりで、特によくわかんなかったのは、社会科とか理科の暗記事項でありました。

 中学に入って、数学という言葉になり英語、理科、社会と学んだんですが、私が一番理不尽に思ったのは理科でありまして、特に化学でありますが、物質が小さな原子でできている。原子が集まって、分子というのを作っている。分子というのは物質の最小単位だ。そういう言い方であったわけですが、その最小単位を想像することがそもそもできなかったということもさることながら、いわゆる化学記号っていうんですか、元素記号と言うんですか、それには本当に参りました。全く意味がわかんなかったんですね。水素って水の素と書く。水の元素である。それがHだというんですね。何でHなのか。水っていうのは、当時習い始めた英語だとWaterって言うわけです。全然関係ない。その水素というのは、hydrogenっていう言葉の頭文字だって言うことを知るんですが、hydrogenという言葉の中には、水っていう概念が全然入ってない。それが実に不可解でした。そして、次に習うのは塩酸というやつなんですが、塩酸というのはとても劇的な効果を持つ強い酸で、胃酸もそれできているということを学びましたが、その塩酸というのは、HClだというんですね。これもう全く理解できなかったんです。なぜかっていうとHっていうのは水素だと習ってる。酸素はOと習っている。塩素は、これ難しい英語に由来するんですがChlorine CLだということです。“塩酸が”という言葉を中には、塩という言葉はかろうじて入ってますが、酸という言葉、塩酸の酸はOxygen酸素、だから塩酸という言葉の中にその構成要素である塩と酸、それと化学式HClは対応していないわけです。これには本当に参りました。そして、そういう感覚と言われるものが、科学と言いながら、全然科学的でないとつくづく感じました。

 今、若い人たちを見ていると、高等学校の勉強になっても、依然としてそのような知識だけ先取りしたものを受動的に、強制的に勉強させられてる。それが学校だという感じるようになってきました。私自身は、中学時代は本当に特に自然科学の勉強、物理にしても科学にしても、地学にしても、生物にしても、生物がかろうじてちょっと面白かったんですけど、つまらない時代を過ごしたと思ってます。だからよく若い頃に戻りたいっていう人がいるんですが、確かに若い頃に戻りたいという気持ちがありますけれども、でも、あの中学生を繰り返す気は全く起きない。あんなつらい時期はなかったと私は思うんです。私にとって高等学校の時代は、自分で進んで勉強するようになるとちゃんと自分の疑問が解かれていく。疑問が氷解してくる経験を積んで、勉強ってのは楽しいなって、そういうふうに思いましたが、若い人と話していると最近高校になっても、ずっと私の中学時代のように、あるいは当惑した小学生時代のように、勉強をただ出来上がった知識の体系を受動的に受け入れる。そういう形で強制されてる姿に感じることが少なくありません。そんな時代であるとすれば、学校なんかない方がいいってというふうに思うのは自然で、私自身ももし自分の子どもがこういう学校に行くっていうんだったらば、学校に行く代わりにお父さんと一緒に過ごしなさいと、きっと言ったと思います。私の子どもたちは幸いそういうひどい目には合わなかったようであります。

 今日本中の本当に北海道から沖縄まで、ある意味で学校が子どもたちにとって、かけがえのない遊びの場、あるいは学びの場として、価値のあるものでは必ずしもないようです。それはすごく残念なことなんですが、いわば教育の方法、こうすれば子どもたちが喜んで勉強するそういう勉強方法、あるいは最近は学び方とか学び合いなんていう奇妙な言葉も流行ってるそうですが、私は子どもたちが自ら進んで勉強するという当たり前の姿を実現するために、教育の方法があるわけではない。むしろ、何も教育で干渉しないのが良い。そういうふうに私は思っているんです。こういう感想を持ってるのは決して私だけではなくて、多くの科学者の自伝なんかを読むと、学校についての嫌な思い出がたくさん書かれていますね。アインシュタインはその典型的な人だったと思います。アインシュタインのように高校・大学までつまらなかったっていうのは、あまりにも貴族でありますけれども、今の日本のように大学がつまらないっていうふうに感じる以前に、もう高校までで、勉強というものはこういうものだっていうふうに信じ込まされている。これ一種の洗脳教育っていうふうに厳しい言葉で言ってもいいと思いますが、「勉強とは知識を覚えること。先生の言った通りに繰り返すこと。」そういうことであるというふうに徹底的に仕込まれてる。そういう印象を持たざるを得ません。持たざるを得ないというのはちょっときつ過ぎる表現で、持ってしまうことが日々あるということですね。

 子どもたちをもう少し自由にしてやりたい。子どもたちを勉強への道に開放してやりたい。強制された勉強ではなくて、本当に面白い勉強を味あわせてやりたいと思うのですが、今の学校教育の現状は、これが楽しい勉強だとか、これこそ面白い勉強だとか。これが正しい勉強だと。先生が勉強について子どもたちがわかるまで待つのではなく、子どもたちに勉強の結果を教え込む。そしてこれが最先端の勉強だと。人によっては最先端科学だったなんて言ってくれちゃう人もいるかもしれませんが、そういう教え方をしている限りは、実はそれは最も古い時代の最も古いタイプの勉強の仕方。つまり、先生の言った通り暗唱する。そういう一番つまらない勉強の仕方と変わりないと思うんですね。勉強の方法学習の方法、それは人によっていろいろだと思うんですけれども、1人1人がそれに気づく。それを学校という学びの場で、それぞれの学習者が体験的に学習する。自分で習得する。そういうことがあるといいなと思います。そうでなかったら、このあたりで1回、学校制度っていうのをやめてみたらどうかとさえ、思うことがいろいろな報道を見ていると、つい感じてしまうわけです。

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