長岡亮介のよもやま話137「円熟の境」

 年を取って体のいろいろなところが、若い頃と違って自由が利かなくなってくると、年を取ったんだなと自覚せざるを得ない。そういう局面が増えてまいりますが、そういうときに芸術などの世界で、年を取ってからもうすごく活躍していらっしゃる方を見ると、本当に感動します。例えば、楽曲お。世界では、若い人の活躍が華々しい面がありますが、どちらかというとそれはフィギュアスケートのようないわば高度な技を競っているという感じで、芸術しての深み感ずることがあまりない。要するに、決められたルーティンをそつなくこなしてるという感じが強くあるのですけれど、他方で、アルヘリッチであるとか、イツァーク・パールマンであるとか、ミッシャ・マイスキーであるとか、そして私が尊敬してやまないグレン・グールドであるとか、そういった本当の今も生きる巨匠と言っていい、年取った方々が若い頃の演奏とはまた違った力強さというか、深みというか、言葉で表現することは難しいのですが、その人の人生の年輪を感じさせるような深い演奏を披露してくれるのを見聞きすると、見聞きというのは最近はYouTubeなどでその演奏を見ることが簡単にできるようになったということが大きいのですが、心が突き動かされる。それほど感動いたします。

 若い人の活躍もとても素晴らしいし、信じられないくらいの才能が、とんでもないところに眠っていたんだということがわかることも嬉しいことなんですが、一方で何か英才教育的なものを感じると、例えて言えばあまりよくないかもしれませんが、受験秀才のようなあるところまでは華々しいけれども、その先、なかなか進まないだろうなという不安を感じさせるような天才的な若手。それも素晴らしいんだけれど、それよりも遥かに遥かに素晴らしく、年老いた人たちが活躍しているということ。これは深い喜びです。それは、自分に対してもこの年になったからこそできることがきっとあるはずだということを、語ってくれてるような気がするからなんですね。でも、それは若い頃から本当にきちっとした修行を積んできたからこそ、年をとって円熟の境というのに達することができるのであって、私のように若い頃からちゃらんぽらんに生きてきた人間が円熟の境に達するといってもたかが知れてるということは、冷めた目で考えればわかることです。冷めた目で考えて、そのようなものは自分には縁がないものだということを諦めて、しっかりと理解しつつ、それでも自分と同世代の人が、本当に自分の芸術の力を今なお更に磨きをかけ続けているということに対して、尊敬の気持ちと同時に、やはり自分自身がそれに激励されてるとという気持ちを感じずにはいられません。

 それはどういうことかというと、その人たちが円熟の境に達したということは、彼らの努力もさることながら、やはり年齢や経験を積み重ねることが、ある一定の意味を持っているということ。技術を磨くということで言えば、例えば難曲に挑む、非常に演奏の難しい曲に関して言えば、若い頃にはできなかったいわゆる円熟の境ですね。技術的な高さではなく、芸術的な表現とか解釈において、遥かに深いものを持って、それで勝負できるということ。そのことに、やはり加齢、年をとるということに伴う、自分自身にはわからないかもしれない内的な進歩というのでしょうか、進化というのでしょうか、あるいは、もっとはっきり“老化”といった方がいいかもしれませんが、老化するということを多くの人がみんな否定的に捉え、何か老化しないための秘訣というようなつまらない情報が氾濫してる世の中ではありますけれども、決して老化は悪くないということを、そういう演奏を通じて感ずることが少なくないというお話をしたいと思いました。とにかく若手の活躍は華々しいのですが、その若手の活躍を見ていると、どちらかというとアスリートの活躍のようで、芸術の深みというのとちょっと違うような気がするんですね。アスリートの活躍ももちろんある意味で芸術の高みまで行っているということをあるのですけれども、最近の体育競技は、採点方式みたいなものになって、選手1人1人が、自分の全力を表現するというよりは、その結果が何点になったかっていうことを気にする。柔道なんかはその典型で、選手たちはわざが決まった、決まらないかって、その瞬間に自分に何点入ったかっていうことを気にする。こういうふうになってしまうと、最前線のスポーツといっても何か情けないような感じがします。

 やはり、芸術にしろスポーツにしろ、自分自身がライバルである。そういう世界において、自らを磨き続けるということの素晴らしさ。それを、多くの年老いた芸術家たちが、自らの少し下手になった演奏を通して見せてくれている。これが、私には日々いろいろ考える中で、幸せを感ずる瞬間であるということです。

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