長岡亮介のよもやま話134「ヤマが当たる」

 前回は皆さんが大変強い関心を持っている「試験」あるいは「試験の成績」について、そのことに気をかける前にまず考えなければいけない問題があるということを指摘しました。特に重要なポイントは、それは試験が皆さんにとってよくできているという大前提のもとで成り立つことであって、試験そのものがくだらないときには成績が悪くても一向に差し支えないんだということですね。よく学校の成績が良かった人が社会に出て活躍しないという話がありますが、それはある意味で学校において非常に貧困な教育しかなされていなかったということの証明でしかない、と私は考えています。もう一つ、試験に関して多くの人が誤解しているのは、記述式の試験のような採点が主観的になるものに対し、穴埋め試験あるいは選択式の問題、択一テストの問題だったら客観的な能力が図れるという一種の民間信仰でありますが、それが必ずしも正しくない。記述式でこそ本当の実力が試されるということ。そしてその記述式の試験は主観的に見えて、実はそうではないということについて、私の実体験をもとにしてお話しいたしました。

 今日はもう少し気楽な話題として、試験でいわゆる「ヤマが当たる。ヤマが当たらない」という俗語がありますね。私は生まれて初めて中学くらいで「ヤマ」っていう言葉を聞いたときに、ヤマが当たるって意味がわからなくて。「山が動く」っていう表現は中国の漢詩にもありますので、それは重要な話だと思いますし、中学の3年生くらいで知るわけですが、シェイクスピアの中には山が動くという良い表現があります。やっぱり山っていうのは重要なものなんですね。そのヤマが当たるっていうのはすごいことだということだと思ったんですが、実はなんのことはない。どんな試験問題が出るか予想がつくっていう、その予想のことを「ヤマ」と言うらしいんですね。予想が当たる、当たらないということに関して、私自身は子供の頃それを聞いたときにずいぶんせこい勉強方法があるなと、そういうふうに思いました。ヤマを狙って学習するというような勉強の仕方は、基本的に間違っている。そういうふうに私は当時何となく若気の正義感みたいなもんで、考えたものでありますが、自分が試験を出す側に立ってみるとよくわかるのですが、ある科目を担当してその科目全体についての試験問題を作るとなると、当然のことながら、そのテーマで講義した内容に関して最も良い問題を出題したいと、教員は思うわけです。そして、最も重要なことというのは、授業中手を変え品を変えあるいは話題をいろいろと変え、そして様々な表面的な話題を変えてますが、実際は主題としては一つのものの周りを巡っていることが多い。

 ですから、その授業の仕組みがよくわかる学生にとっては、その講義の中で何が大切であるかということは、わからなければいけない。それがわからなければ、講義を聞いたことにならないということになります。従って、いわば良い試験問題とは、ヤマをかけることのできる試験問題であるという定義に、私は次第に傾いていきました。つまり、学生の予想を裏切るような試験問題というのは、学生の勉強がもちろん足りてないときには話になりませんが、学生がよく勉強していてヤマが当たるんならば、それは大変結構なことであるということです。最近は、だんだんだんだんヤマを外す試験を出す。なんか先生の方が少しいじましくなって子供たちのそういうヤマをかけて当たるということを阻止しようとするということに熱心で、教育の本質を外れている。本当に教えたいことを教える、そしてそれを試すのが試験であるのに、本当に教えたいことを避けて、わざと重箱の隅をつつくような知識、それはひょっとすると間違ってるかもしれないのにそれを堂々と試験問題にする先生が出てきている。このことは、大変残念なことであります。

 ヤマが当たるということは、学生がよく勉強しているということの証明である。ヤマを当てさせるような試験問題、そして事業展開をするような教師でなければ、本当の教師とは言えないんではないかということです。もちろんこれには例外があって、数学の試験のように、言ってみれば、その場での創造的な思考をとるという試験も世の中にはあります。そういうときには、ヤマと言ってもかけようがないわけですね。どんな問題がきても、それを横綱のようにしっかりと受け止めて、それをなぎ倒す力が求められるわけでありまして、多くの難しい試験というのは、そのようなものであると思います。ヤマをかけようがないという問題ですね。そのヤマをかけようがないという本格的な試験問題というのが世の中には存在しますが、小さな試験ではヤマをかけやすいということもよくあることだということ。これを皆さんよく覚えておいてください。特に学校の間、高等学校以下の試験問題というのは、所詮そのようなものであることが多いと言えますね。高等学校までで勉強を全て終えてしまう人、つまり大学に行っても何も吸収できない人というのは、結局のところ、試験を受けたといっても、ヤマをかけて当たったといういわば受動的な勉強で人生を終えてしまっている気の毒な人であると思います。最近は大学でさえ、学生に単位を取らせるためにわざわざやさしい問題を出し、いやわざわざ学生が予想して解くことのできる問題ですます。こういう大学が多分過半数を占めています。残念ながら高等教育といっても、今のわが国の現状は、高等教育の名に本当に値するものにはなっていないという現実も、私達は忘れてはいけないと考えます。

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