長岡亮介のよもやま話133「数学的厳密性と子どもたち」

 今回は、数学的厳密性というよくある話題を取り上げたいと思います。数学は論理的に厳密で正しくなくてはならないと一般には思われていますし、数学者も間違った数学は間違っていると断言して、その間違いを修正することに努力するという意味で、数学は誤謬を嫌っていると言っていいかもしれません。論理的な過ちがあってはならないということで、その論理的な飛躍、あるいは論理的な漏れがないように、緻密なロジックを組み立てていくのが数学だというのは、いわば数学のあるべき姿を語るときには、よくある立場ではないかと思います。しかし、それはある意味で数学のあるべき姿という理想像を述べる際の、いわば坊さんで言えば説法のための嘘も方便というやつでありまして、それが嘘だというわけでは決してないんだけれども、数学的精神を表現するのにいいものだとは思うんだけれども、それが絶対ではないということも、ぜひわかっていただきたいと思うことです。というのも、数学では何が正解であるかということについて、まるで過激な原理主義者のように、本当に一つの正答を守るために、他の誤答を切って捨てる。そういうのが一般的になっているのですけれど、私から見れば、いわば高校以下の数学を普通、外国ではelementary mathematics初等数学というふうに言います。現代数学とちょっと違う世界ということですね。初等数学というその初等的という範囲は、時代的には新しいところで言えば16世紀17世紀に入ってからもありますが、むしろ本当に古代エジプトとか古代バビロニアあるいは古代中国という世界で行われた数学とあんまり大差ない。そういうレベルだと言っていいと思うんです。古代の数学だからレベルが低いかというと、どっこいそれがなかなか違っていまして、特に古代ギリシャの数学のレベルの高さに関しては、現代数学の立場にいる人ですら舌を巻くほど立派な数学であったわけです。そういうふうに歴史で区切るっていうふうにすると、初等数学と言われているものが、いったいいつのどういう数学なのかはっきりしない。

 初等数学は誤解を呼ぶので、学校数学という言い方にした方がいいんじゃないんですね。school mathematics学校で教える数学、学校で教える数学は数学である以上、つまり、論理的な正しさ計算の正しさが保障されていなければいけないと思われていますが、正確さ厳密さを保障するためには、それを保証の前提条件が不可欠なんですね。その前提条件とは何でしょう。それは定義と公理ですね。定義というのは概念の意味、あるいはその用法を規定するものであり、公理というのは、定義の中で与えられてる言葉の実質的なやり方を指定するものです。現代数学においては、この定義や公理というのははっきりして、学問における定義なんかと違うわけですね。学校数学における定義っていうのは、例えば、「Y=Xのように表されるものを正比例という」というような定義ですね。「のような」とかっていういいかげんな表現が入っているわけです。それは高等学校まで行っても同じですね。数列の和という概念が、定義されますけれども、数列をA1,A2,A3,A4・・・そしてそれがやがてAnと、まだ・・・こういうふうに無限に続く。「こういうのを数列という」というんですが、点点点そんなもので定義として十分でしょうか。論理的には不十分です。しかし、論理的な不十分さを乗り越えて、子どもたちが何ものかを正しく理解できているとすれば、それは素晴らしいことですし、そういう子どもたちの人間的成長を見守ってやりたいと思うんです。そのときに、やたら論理的な厳密性というような刃を振りかざして、切ってかかるという態度を私は好きになれません。おおらかにやればいい。それは子どもたちの成長段階と思えばそれでいいじゃないかと思うんです。

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