長岡亮介のよもやま話130「メタバース」

 私は、このスモールトークという『よもやま話』であまり時事ネタを取り上げないのは、時事ネタを取り上げすぎると慌ただしくなる。そして、考える時間が足りないまま発信しなければならなくなるということの他に、時事ネタを収録すると、それを発表できるところまでやる処理のための時間が十分にない。そういう技術的な制約を考慮してのことなのですが、最近、流行語にメタバースって言葉があります。流行語っていうのはみんな気を引けば良いということで作られていくんだと思いますが、いくら何でもメタバースっていうのはやりすぎだという気がします。メタっていう言葉は、後でお話するように非常に重要な言葉であるし、バースっていうのは、ユニバースとかマルチバースっていうふうに言って、ある方向に向いているという意味なんですね。そういう語源を一切無視して、メタバースという言葉が使われている。一昔前はVRと言いました。バーチャルリアリティ、仮想的な現実ですね。この方はなかなか実際の様子を正確に言葉に描写している正しい表現だと私は思います。人間の視覚、特に両眼で私達は物を見るときに非常に複雑なことをやることによって、外界の存在を適格にその位置を理解する。そういう能力を身につけているわけですが、両眼があるからできるという能力はそれほど簡単ではないんですね。というのは、両目だから視差ができる。その目の角度が違う。それによって距離がわかるんだという単純な議論が一昔前はありましたけれども、実は今、単眼でも一つの目でも、奥行きがわかるというようなことは立証されておりますし、また複眼においても奥行きを感ずるメカニズムはそれほど思ったほど簡単でないわけです。そういうことを考えると、私達の視覚、目を利用した情報処理が持っている元々の脆弱性というか機能不完全性に思い当たるところがあるわけです。

 私が子供の頃は、デパートの屋上には遊園地のようなもので、買い物に忙しいお母さんたちが子供たちを安全に遊ばせる場所という位置づけだったんでありましょう、必ずそういうのがありました。その中に必ずあったのがびっくり箱でした。びっくり箱といっても、実はなんてことはない。びっくりしてるのは中に入った人だけで、中に入ると大きなブランコみたいなもの、2人掛けか3人掛けのブランコみたいなものがあるわけですね。そこでブランコはちょっと前後に揺れている。その程度のブランコなんですが、なんとそのブランコを囲んでいる家がぐるぐるぐるぐる回転する。だから中にいる人物はブランコでちょっと振られるっていうだけなのに、実は自分が360度回転するというような気分になってしまう。というので、びっくり箱。いい名前をつけたもんですね。まさに私もそのびっくり箱に入って何回もびっくりしましたし、びっくり箱から出てきてもう足元がふらついてよろけた懐かしい思い出があります。それは結局のところ私達が目だけでもって、周囲の状況というのを位置的な配置を正確に理解しようとすると、それができない。視覚情報の処理は極めて不安定であるということを利用したものであったわけです。そして、この2,30年その視覚情報の弱点を突くかのようにして、3D映画であるとかVRっていうのがずいぶん脚光を浴びてきているわけです。

 しかしそれをメタバースというのは、これはいかがなものかと私は思うのですが、いかがでしょう。というのは、VRといえばそれで済む話に過ぎないと思うんですが、メタバースっていうのは明らかにこういう造語を作ってる人たちは、ある種の言語能力を持ち、ある種の言語に関する由来に関する無知を露呈していると思うんですね。バースっていうのはユニバースとかマルチバースとか、ユニバーシティ、マルチバーシティ、いろんなことは現代でありますが、バースっていうのはある方向を向いているっていう意味なんですね。元々そういう言葉なんです。ユニは一つであり、マルチはそれがたくさんあるってことです。それに対してメタバースとは何でしょうか。あたかもユニバースの裏にあるバーチャルなユニバースということを匂わせてるんだと思いますが、メタっていうことを明らかに正しくない使い方だと思います。メタっていう言葉に関して現代では、メタ数学とかメタメタ数学とかっていう、数学においてもメタって言葉がよく使われるくらいですから、これが一般の人に普及するのはごく自然なことなんですが、元々はphysica(フィスカ)自然学という言葉に対して、metaphysica(メタフィスカ)自然学の背景にあって自然学では語り得ないものについて、自然学の基盤を支える学問として、哲学的な精密な議論を組み立てる。その学問に対して、メタフィスカという言葉を割り当てたのが、アリストテレスという哲学者だったわけです。メタフィスカという言葉は、残念ながら本当は直訳すれば自然学に対して、裏自然学というか、背景自然学というか、今ふうに訳せば超自然学と訳してもいいということにもなるかもしれませんが、超自然学ってのはあんまりいただけません。やはり、裏自然学あるいは背景自然学と訳すのがいいんじゃないかと思います。

 そういうメタフィスカがやがてラテン語を経て現代になったときに、19世紀の哲学なんかではmetaphysics(メタフィジクス)となり形而上学というふうに訳しまして、翻訳自身が難解だということもあるんですが、形而上学って、言葉を聞いただけでは、漢字が書けない人はいっぱいいると思います。しかし、とにかく形而上学っていうふうに訳され、何を言ってんだかさっぱりわからない哲学者の言明、というような意味で使われるようになってしまったわけですね。実践的な関心を持たず、言葉のための言葉を弄ぶ曲学阿世の輩というふうに非難されても仕方ないような学問、それにメタフィジクスという言葉が割り当てられてしまった。これで近代における哲学の問題がないがしろにされた。それが故にいわゆる自然科学の分野において大いなる発展があったということも確かなのですが、その大いなる自然学の発展が置き忘れたものが何であるかいうことについて、19世紀の末から20世紀にかけて、哲学者たちが大変な苦闘をして、もう一度哲学の復興・復権を志しているんだと思います。それが、昔の自然科学のように前途洋々たる未来がはっきりと約束されてるかどうかよくわかりませんけれども、そういうのがメタであって、メタというのは非常に崇高な言葉だということですね。私達は、できたら流行語が流行る前に、その流行語を作ってる人たちがどういう感覚を持ってるんだろうか。その言葉のセンスを疑う、というような知性の余裕を持つべきではないでしょうか

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