長岡亮介のよもやま話125「物事がわかるということ」

 前回に引き続いて、ちょっと訳のわからん話をしようと思うのですが、私達はすぐ物事を「わかった、わかった」というふうに了解したりしますね。反対に今の若い人たちは、勉強が少し難しくなると「全然わかんない」というようなことを平気で言ったりします。わかるとか、わからないということはどういうことなんでしょうね。これをちょっと考えてみると、なかなか難しい問題であるということがわかってきます。私達が「わかる」ということは、別の言葉にすれば「腑に落ちる」というような日本語に表現がありますが、「心の底で納得する」ということだと思うんですね。ところで「心の底で納得する」っていう別の言葉に置き換えましたけど、「心の底で」という言葉も、「納得する」という言葉も意味不明といえば、意味不明なわけです。そういう曖昧な言葉でしか表現できないような世界、それがわかるということで、これを少し精密にあるいは厳密に考えようとすると、数学がとても良いヒントになると思うのです。

 例えば、小学校の頃は知らなかったような数学、Xという未知数を使って1次方程式を解くというような手法。1次方程式に関して言えば、実は小学生の勉強していた、いわゆる算数の応用問題。いろいろなのがあるわけですね。そういういろいろなものは、実は一切無駄だと、つまり1次方程式にすぎないということがわかるという瞬間が、少年時代、小学校2年生くらいまでには訪れるんだと思います。それはどうしてその瞬間が訪れるのでしょうか。普通に考えると、小学生の頃あんなに夢中に旅人算とか、流水算とか、ニュートン算とか、鶴亀算とかいろいろと個別的にやってたものは一切無駄であったということがわかる。その瞬間がやってくる。これはすごく不思議なことではないかと思うんです。私は「小学校の頃の算数が全部無駄であった」ことがわかると言いましたが、私自身は小学校のそういう勉強が無駄だっていうふうには必ずしも思いません。「子どもは子どもなりにいろいろな難しい問題を考えて、わかった気になる」ということも発達段階としては大事なことだ、と思っています。そして、その小学生的な物事のわかり方というのが、私から見ると、今からお話ししようとする「物事がわかる」ということの基本形であるんだと思うんですね。ですから、それをあんまりないがしろにしてはいけないとは思っているのです。

 中学以上になって、「子供の頃やってきた事柄が、実はもっと高い立場から見ると、こんなに単純なことだったんだということがわかる」ということは、哲学的な言葉で言えば、「認識の前進」、もっとわかりやすい通俗的な言葉で言えば、「理解の深化。」そういう言葉で表現される内容ではないかと思うんですが、私達はなぜ理解を進化させることができるのか。これはとても深い問題で、私も答えがわかりません。しかしながら、私達が物事をともすれば表層的な違いにこだわって、あれはこれ、これはこれと「場合分けして考えていたもの」が、それは「こういう観点から見れば同じものじゃないか」というふうに、理解することができるようになるっていうことは、ちょっと素晴らしいことですね。おそらく、他の動物にはできないことではないかと思うのです。人間特有の思考方法なんだと思います。

 なぜ人間にそのような特殊な能力が与えられたのか。あるいは生物学的な立場で言えば、なぜ人間がそのような能力を獲得したのかという問題は、結局のところ、人間とは何かという問題を巡る堂々巡りで、答えのない問題だと思います。ですから、そういうふうに考えても仕方がない。しかし、私は「人間にはそういう能力が現在備わっていて、その能力を磨くことで、私達はより人間的に深い認識に到達することができる」ということは、ちゃんとわかった方がいいんじゃないかな。そういうふうに思うんですね。私は「わかるんじゃないかな」というような、今風の表現をしましたけれども、私自身はこういう表現は、曖昧で嫌いです。むしろ、「そういうことがわかるのであると私は考える。」こういうふうに言いたいのですが、最近テレビを見てますと、どうしてもそういうわざと自分の主張を曖昧にして責任を逃れるような言い方が多くなってきているので、ついつい私もそういう文化の悪影響を受けてしまっているんですね。これについては十分注意しなければいけないと、私自身は反省してるところです。

 話が少し飛んでしまいましたけれど、私達が、何か物事をより深く、より本質的に理解しようとして、それを達成することができるという能力に恵まれていることは、素晴らしいことではないかと思うんです。そして、そのことが、人間の成長の喜びであり、その成長を実感することが自分の人生が完成に近づいていることの証明として、実感できる。大げさに言えば、そういう認識を通じて私達の人生がやがて次の世代に手渡されていくんだ、ということを理解してその運命を受け入れることができるようになるんじゃないか。そういうふうに、私は思うんです。私達1人1人の人間は極めて不完全で、そして利己的で不道徳でどうしようもない存在。阿弥陀如来とかキリストとか、そういう人たちが救いに来なければ、助けられない救いのない存在だと思いますけれど、そういう救いのない存在である私達が、それでも私達が自分たちが生きていた証というのを感じることができるのは、私達が物事を何がしらわかったという一種の達成感。それを感じるからじゃないかと思うんです。私達が「物事がわかる」とか「理解する」とは本当はどういうことなのかということは、すごく難しいことですけれども、しかし、「理解が前進する」ということ、あるいは「理解が進化する」ということ。それは、胸に手を当てて考えてみると、「今まで知らなかったこと、わからなかったことがわかるようになった」という喜びに繋がる経験なんだと思います。そして、それが私達の生きてる喜びなのでしょう。

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