長岡亮介のよもやま話124「数を理解する」

 今回は、前回の話とよく似た話題で全然別の角度からそれに切り込むという趣旨で、お話をしたいと思っています。前回は、私達が言葉を通じてコミュニケーションするという当たり前のことが、人間のを聴覚とか、あるいは大脳の作用を利用してなされているという、いわば道具と言われる装置について、私達がそれを使い込んでるという理解の限界というか、浅薄さについて、お話したわけでありますけれども、今度は私達自身が言語というのを使っているときに、いかに私達がそれを大変に深く、利用しているかということをお話したいと思います。あまり難しいことは、この朝のお話にはふさわしくないと思いますので、頭が寝ぼけている今だからこそ言える、わかりやすいお話をしたいと思います。

 私達は日常的に、例えば3個のリンゴとか、5本のバナナとか、スーパーマーケットなどで買い物をするときに、普段に利用しています。それ自身は、高級な数学的な能力ということもできますが、ここで不思議なことは、私達がそれを抽象化して、今や現代人であっても、n個のリンゴとか、m個のみかんというふうに、それを語ることができるようになってるということです。例えば、リンゴやみかんを個数で数えるというのは、日本語では自然かもしれません。バナナは本数で数えるというのが、自然かもしれません。でも皆さんは、個数と本数の違いについて考えたことがあるでしょうか。

 私は昔、いろいろなものに対して、個数を数えるときに、その個数を数える言葉が違うということを小学生の頃に習って、非常に不思議な思いをいたしました。犬は1匹2匹と数えるが、ゾウやキリンは1頭2頭と数える。鳥は1羽2羽と数える。これは日本文化の非常に重要な伝統の一つだと思いますが、その数学的な根拠を考えると、極めて怪しいですね。何をもって「個」と数え、何をもって「羽」と数えるか。それは結局のところ私達が、「リンゴというものを個数と数えるもの。鶏というものを羽という個数で数えるもの」として識別しているということの結果に過ぎないわけです。もしリンゴと鶏の中間的な存在に出会ったならば、私達はそれに当惑するわけですね。当惑する以外にないわけです。私達は、私達の日本語をすごくわかりやすく使っているつもりでいますけれども、その日本語を使う前提として、私達はいわば日本語のルールというものを、その日本語の使用に先立って知ってないといけない、という矛盾をはらんでいるっていうことに気づくわけです。私達は、犬は1匹2匹と数えながら、それを1個2個とは数えない。「それはなぜか」という問いについては、言われてみるまでは、きっと多くの人が気づかないでいることだと思います。

 私がお話したいのは、ここで「数学的な認識」ということなのですが、個数という考え方には、1個2個あるいは1匹2匹、1頭2頭、1羽2羽というような単位をつけるということが、そもそもナンセンスだということがありまして、日本語は数学をやる上であまり適していない。私達は全てのものの個数を同じように数えるというところに、実は一種の数学的な抽象化が行われていて、個数というのを、「羽」とか「個」とか区別するときに、私達はものの個数を数えるときには場面場面に応じて、言い換えれば数えようとするものの種類によって区別しなければいけない、ということを学んでいるということです。

 ここで、いろいろな私達にとって外的な存在を、馬とか犬とか猿とかというふうに分類するという、人間の知的な能動作用が効いているということ自身は重要なことなんですが、では、馬は1頭2頭3頭というふうに数えるときに、馬はみんな同じものとして数えるのかというと、サラブレッドで天皇賞のような大きなレースで優勝する馬と、そういうレースに出ることすらできない馬とは、馬として全く違うわけですね。にもかからず、それを馬という概念でひとくくりにすることができるのかと言われると、私達多くは、怯まざるを得ないと思うんです。つまり私達の日常的に行っている認識は、かなり原始的なレベルで遠い遠い先祖から受け継いできたもので、その受け継いできたものの論理的な理解をしようとすると、そこに厚い壁があるということに気づくということです。

 私達は、数学的な認識というのとは少し違う、日本人的な認識をものの個数に対してしている、世界の中で珍しい国民の一つだと思うんです。そのような考え方を一気に抽象化するというのが、数学の立場でありまして、日本人はもしかしたら数学に向いてないかもしれないというふうに私が時々思うのは、ものの個数を数えるというときに、日本人には1人2人3人あるいは1個2個3個、1頭2頭3頭、1羽2羽3羽というような区別をするということ。その区別を抽象化するところに数学があるわけですが、英語なんかでは、私の知る限りはそのような区別はほとんど少なくとも現在はない。そのことを考えると、日本語で考えている限り数学的な思考の高みに登ろうとするとハンディキャップがあるということ。逆に言うと日本の小学生は、そのハンディキャップを乗り越えながら、数学的な世界を理解しているということ。これはものすごいことだと私は思うんですね。ものすごいことだということを理解しないことが、数学のわからないやつが馬鹿だというふうな非常に卑俗なナンセンスな意見を生む元になっているような印象を持ちます。日本人一般の国民が数を理解するということの中に、実は私達が長年の文化を超えて、それを抽象化するという行為を全ての人が行っているということに、私はまず感銘を受けるべきではないかと考えるのですが、いかがでしょうか.。

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