長岡亮介のよもやま話122「特別枠」

 今日はいわゆる「特別枠」についてお話したいと思います。ご存知のように、アメリカの大学では、長い人種差別の歴史がありましたので、黒人の学生に対して、大学が黒人の特別入学枠というのを設けているところがあります。長い人種差別の歴史の中で、黒人が良質な高等教育を受ける機会を失ってきた。そういうことに鑑みて、現在の学力だけで白人と黒人が同列に競争するのは、ある意味で「ハンディキャップを考慮しない競争だから不公平である」という考え方が背景にあるわけですね。ハンディキャップを負ってきた人に対して、良い高等教育の環境を与えることによって、従来のハンディキャップそれを乗り越える機会にしてほしいという健全な民主主義に向かうアメリカの姿勢。それを表したものだと思います。同じような特別枠は、営利企業あるいは公共団体、村や町の役所など。それに入社するとき、あるいは入職するときにも、我が国でありますが、身体障害者特別枠という制度です。身体に障害を負った人というのは、従来の生産性という観点から見ると、障害を負ってない人と比べると、明らかに生産性が低いという傾向があるわけです。これはあくまでも傾向でありまして、身体髪膚全部健全であっても生産性の低い人ってのはゴロゴロいるわけですが、しかしながら、身体に障害を負っているために、本来その人の持っている能力を発揮することが十分にできないでいる。そのために、例えば一般の人々と同じように、入社試験あるいは入職試験というのを実施すると、身体の障害がハンディキャップになって、いわば公平に成績をつけると、それが公平な競争になっていないという側面がある。そこで、半ば強引なんですが、「会社員の

 こういうことを言うと、インターネットで炎上するというふうに心配する人がいるのですが、本当のことをきちっと考えるということは、今や言論の自由というか、情報発信の自由というか、誰でも好き勝手なことを情報発信できるってそういう時代にいなっているがゆえに、実はとても大切な問題ではないかと思います。そういう問題を避けて、炎上を避ける、リスクを回避するのが、賢い生き方というふうに思われていますけれども、私は必ずしもそれに賛成ではありません。やはり、きちっと踏まえなければいけないことは踏まえなければいけないとして、あえて次の話題を取り上げたいと思います。それは、人種差別、あるいは身体障害者差別に対する対策として特別枠というのが設けられてるんですが、それと同じような精神で、女性特別枠というのが設けられています。いろいろな試験において、女性であれば、その枠に応募することができる。女性が男性に対して、あるいは男女混合の一般に対して、女性枠で試験を受けると、少し有利に取り計らうという制度ですね。これも、日本のように長い女性差別の歴史を考慮すると、特に高等教育に関しては、女性はそれを受けるということをずっと差別されてきたわけですから、必要な措置ではないかと思いますが、現代のように、女性差別が少なくとも表面からは、社会の表面からはなくなって、女性の方が威勢よく発言する、あるいは女性の方が男らしい。こういうような状況になってきたときに、やはり女性特別枠というのを維持することは、ある意味で、逆差別という表現にピッタリ当てはまることではないかと、私は考えるんですね。

 女性は今や、女性特別枠を設けなくても、十分男性に伍してやっていくことができる。そういう時代になっているということです。ただし、そういう日本においても、女性差別が実は男性からなされているんではなくて、女性自身によって女性差別がなされているという現実も見なければいけないと思います。それは、女性みずからが、私達は女だからというふうに自分の成長の可能性に道を閉ざしてしまう。そういう傾向が日本には未だに残っているということです。どういうことかといいますと、自然科学系、特に成果を急いで出さなければいけないという分野ではなく、理論的な非常に難しい分野で、いつ成果が出るとも限らないという科学の最も先端的な分野、例えば天文学の中でも特に難しい理論天文学の世界。そういう分野においては国際的には、女性の方が研究者の数においても研究者の質においてもかなり上ではないかと、私は感じているのです。それは、女性がすぐに成果を出さなくてもずっと頑張り続けることができる、という女性ならではの特権と資質を十分に生かしていることの結果であると、私は思うのです。そして、「女性はそのような本当に理論的な科学、すぐに結果を出すとかすぐにお金にするというような、目先の利益にとらわれない仕事をコツコツとやるという才能に恵まれてるんだ。あるいはそういう環境に恵まれている」といってもいいのではないかと思うのですが、残念ながら我が国では、女性がそのような自然科学の先端分野に進出するということは、例外的にしかありません。

 例外的な分野の数少ない一つが、医療系でありましょう。医療系の先端科学においては、女性の活躍がありますし、医療系全く正反対かもしれませんが、芸術系の分野、演奏の世界、バイオリンとかピアノとか、ハーブとか、そういう演奏の世界においては、女性が今大活躍していますね。最近では指揮者のような男性がほとんどを占めるそういう分野においても、女性たちの活躍が目立ってきています。そういうふうに女性の社会進出が著しい分野もあるのですが、残念ながら日本では、自然科学系の研究者の世界に女性が進出していくということは、稀です。その理由はただ一つ。中等教育、つまり中学や高等学校の段階で、女性が数学を放棄してしまっているということ。自分は女性だから数学ができなくてもいい。そういうふうに思ってしまっていることに、その大きな原因があると私は思うんです。日本の数学教育が若い才能のある女性を魅了するほど魅力的でないということが、その大きな原因だと思いますが、つまり中学高等学校レベルで才能のある女性が自ら自習して数学の才能に目覚めるという機会が、日本ではあまり与えられてないということが、非常に問題だと思います。

 しかし、もし女性たちが中学や高等学校から数学的な精神に目覚めていれば、大学以上高等教育において、女性が男性以上に活躍しているという世界の潮流と、日本は同期できるんだと、私は確信しています。その意味で、女性特別枠入試というのをやる必要は本当はないと思います。長い女性差別の歴史それを踏まえても、今ならば、女性は男性と十分に伍してやっていくことができると、私は確信しているということです。同じように、芸術科においても、女性特別枠を設ける必要がないことは、今や当たり前でありまして、演奏世界ではソリストの世界に限定するならば、むしろ女性の方が多いくらいといっても良い状況ではないかと思います。日本では、演奏家の世界で、身障者特別枠というのがあるかのような風潮がどうしても人々の間に強く根付いているのは、やはり身障者に対しても失礼なことではないかと、私は考えています。

 特別枠というのは、私達の過去の歴史の過ちを詫びて、それを反省して、その過去に犯した過ちを取り戻すということはできないとしても、せめてその贖いとして未来に向けての対策を打たなければいけないという趣旨である、と私は考えているのですが、いかがでしょうか。そういう意味で、特別枠が重要な意味を果たす分野と、そういう特別枠があってはならない分野。それを私達はきちっと見極める必要があるということです。やはり個人の努力や才能をきちっと評価する公正さがとても大切なのですが、学問や芸術の世界では、その専門家でないとその評価を正しく行うことができないために、我が国では、専門家でない人が専門的な領域について評価を下すという、あってはならない傲慢さがまかり通っているような気がして、インターネットの負の側面をそこに私は見るような気がいたします。

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