長岡亮介のよもやま話118「教養を身につける」

 若い人と話をしていて、かなりの頻度で質問されることに、「教養って何ですか」という質問があります。またより具体的に「教養を身につけるには何をしたらいいんでしょう」という、非常に誠実な正直なそして率直な質問を受けることもあります。しかし、確かに教養って何ですかと言われてみると、教養とはかくかくしかじかであるというような定義を与えることは、大変に難しいと言わざるを得ないことを発見いたします。「教養とは何か」ということはわからなくても、教養があるとか、教養がないということは、わかると言えると思うのです。

 例えば、皆さんに最も身近なものとして、音楽を例にとると、音楽について、その善し悪しを理解する。そのためには、音楽的な教養というのは、どうしても必要不可欠ですね。私は、実は音楽的な教養が非常に乏しいので、かつて、「自動演奏のピアノ」というのが発明され、大変高い値段で売られ始めたときに、ぜひいつかこのピアノを買ってみたいと思いました。そのピアノを買えば、その頃はフロッピーディスクケットでありますけども、そこに入ってる通りの演奏が、生に限りなく近い形で聞くことができる。日曜日毎朝ピアノの音楽で目を覚ますことができる。そういう幻想を持ったものでした。それくらい私の音楽に関する教養は乏しかったわけです。実は、演奏を生で聞くということは、楽器に直接触れるとか、楽器の音を直接聞くというのとはちょっと違い、言ってみれば、そのときの演奏者と観客の作り出す、演劇で言えば舞台空間というのでしょうか、そういう特有の時空が共有された世界で初めて成立する音楽的なコミュニケーションなのかな、と私も最近思うようになりましたけれども、当時は全くわかっておりませんでした。したがって、譜面通り楽譜を弾くということが理想的な演奏だと、そういうふうに思っていたわけです。というのも、私達素人は譜面通りに楽器を演奏する、操ることができない。そういうレベルですから、譜面通りに弾くっていうことだけで、素晴らしいことだと思っていたんですね。

 しかしながら、実は演奏は譜面通りに弾くということではない。譜面に書いてあることは、音楽のための基本情報に過ぎない。その譜面に書かれた情報を、実際の音楽として、具体化する。そのときには、ものすごく多くの工夫が必要であり、そのためには楽譜の中に込められた作曲家の気持ちを理解すること。大げさに言えば、作曲家と思想を共有すること。それが不可欠であるということが次第にわかってきました。結局、演奏の善し悪しというのは、当然技術的な善し悪しを踏まえた先にあるものでありますけれども、しかし、技術的にどれほど高くても、芸術的に高いわけではないということがあるということ。次第にわかってきたわけです。そういうことは、音楽的教養と言っていいのではないでしょうか。

 私がこのようなことを発見したのは、その昔、ショパンコンクールで、今は大変に有名なアルヘリッチ、当時は英語読みしてアルゲリッチと呼んでいましたけれども、その方が優勝したときに、その審査員の委員長をやっていたホロヴィッツという、これは20世紀の大ピアニストと言っていい方でありますけれども、そのホロヴィッツが、その審査委員を代表する批評として、アルヘリッチの演奏は、ここにいる審査員の誰よりもうまい。そういうふうに激賞したと、日本では報道されていましたけれど、不思議だなと私は思ったんです。世界一のピアニストが、新進気鋭とはいえ、若い少女の演奏に誰よりもうまいと言うことにはどういう意味があるんだろう。私はそのころ考えていたのですが、やっとわかったのは、この子は芸術的にはともかく、技術的には私達の誰より上だと。しかし、芸術的には私の方が上だということを実はホロヴィッツは言いたかったんだと思いますね。そういう全く知らない人からすれば、ごく当たり前の教養。それを身につけてる人、身につけてない人では、えらい差があるということです。教養とは何かということを定義することは難しいが、教養があるということは、そのような本物と偽物との、アルヘリッチの演奏を偽物といったら大変失礼なんですが、しかし、単なる技術上の演奏と、作曲家の心にまで分け入り、それを現代社会における意味として再解釈することができる。そういう演奏家のレベルとは、おのずと大きく違うということ。そのことがわかるということが、音楽的な教養があるということではないかと思います。生演奏が素晴らしいのは、それは生で聞く演奏自身が素晴らしいというよりは、その私達の目の前で音楽が展開されている。言ってみれば一期一会の機会。その中で交わされている音楽情報の交感、あるいはそれの盛り上がり。それが素晴らしいということなんだと思います。ですから、映画音楽でも、それを生演奏で聞くのと、映画で聞くのとでは大きな違いが生ずる。それは当たり前なのかなと思います。

 音楽的教養について最近、とても面白いYouTube動画を見ました。それは、150億ドル以上もするというヴァイオリンの名器ストラディバリウスと、100ドルもしないで買える安いバイオリンとが何が違うかということを、かなり技術的に上手な演奏家が、比較して聞かせてくれている動画です。ちょっとも音楽を知らない人だったならば、そこで演奏される著名なバイオリンのフレーズを聞いて、片方がすごく深く、片方がものすごく平板な音楽であるということ。それを容易に見抜けると思います。しかし、上手な演奏家の手にかかると、100ドルもしないバイオリンでさえも、素人を十分納得させるだけの演奏はできる。それは演奏家の技量にも大きくよるところがあると思いますが、実はその間には、150億ドル以上もする物と100ドル以下で買えるものとの間に、大きな大きな差がある。そしてそれは、そのYouTuberの方が語っていた言葉を繰り返せば、結局自分が何をやりたいかということによって、100ドル以下のバイオリンでも十分できることがあるし、しかし、それではできない世界のこともあるという解説。その通りなんだと思うんです。私達は、自分が音楽を知らないと、これがストラディバリウスだといって、それを権威づけて、これがきっと名曲の元になる名楽器に違いないと、そういうふうに思い込んでしまうのですけれども、その本物と偽物との大きな違いを見破る。それが教養だっていうふうに言えば、音楽の場合については、比較的わかりやすいのではないでしょうか。

 大変残念なことに日本人は、いわゆる音楽に関しては、宗教音楽、雅楽の伝統っていうのがありまして、その雅楽に関しては聞き分ける高い水準を持っているのではないかと思います。しかしながら、西洋発の音楽に関しては、我々が持っている教養の歴史的な浅さが影響して、私達は必ずしも良い音楽と平凡な音楽との区別がつかない。そういう中にあると思います。実は、そういう西洋音楽の世界でさえ、古典音楽の素晴らしさを再発見したのは、20世紀の偉大な音楽家たちであり、例えばバッハが本当に偉大な音楽家であるということを発見する。その過程の中で、様々な素晴らしい演奏家がいたわけです。有名なのはチェリストであり、あるいはチェンバロ奏者でありますけれども、その歴史的な詳細には入りませんが、バッハですら必ずしも有名でなかった。19世紀には、前にもちょっとお話したようにオペラのようなものが、みんなにもてはやされていたわけです。しかし、それよりも少し前に素晴らしい音楽の世界が切り開かれていたこと。そしてバッハが発掘されたことを通じて、バッハの中にバッハが模範とした、それより古い作品があるというふうに研究が進み、私が若い頃はヴィヴァルディという音楽家の「四季」という、今までは通俗的な音楽の代表のようになってしまいましたが、それが朝から晩までラジオでかけられていた。そういう時代がありました。今ではヴィヴァルディも、誰でも知っている音楽になり、ヴィヴァルディの四季と並んで有名な、日本では「調和の霊感」というふうに誤訳されている音楽でさえも、実は元々の意味も含めて日本人に知られているようになりましたし、ヴィヴァルディよりももっと前に素晴らしい音楽の世界があったんだということも、今では常識となっています。このように、ヨーロッパ人にとっても、実は本物の音楽に接してそれに感動するという体験が、長い歴史の中にあったというわけでは必ずしもないんですが、それよりも遥かに貧弱な歴史しか持たない日本人にとっては、特に私のように何といっても日本の歌謡曲のような、あるいは日本のなんていうんでしょうか宴会音楽、ヤーレンソーランソーランとかそういうような音楽で育ってきた人間には、音楽の三大要素であるリズム、ハーモニー、メロディーといっても、どれもはっきり言って、若い人には全く敵わない教養でありますね。教養の貧困さというべきところであります。できたら、もう少し教養を身につけたかったなと思います。

 教養を身につけるという主題において、最も大切なことを最後に申しますと、実は、ある種の教養は、とても若いうちに鍛えないとなかなか身につかないという、教養教育の難しさです。これを聞いている若い人は、ぜひその若さを存分にその特権として利用して、教養を身につけていただきたいと思います。芸術的な教養の中では比較的、絵とか書とか彫刻とか、年を取ってからも身につく教養も少なくないということも付け加えておきたいと思います。そしてまた文学に関する教養、あるいは学問に関する教養、そういうものも実は年を取ってくると、また味わいの違う教養が身につくものであるということを述べて、比較的年配の方々に教養を身につける努力をエンカレッジしたいと思っております。

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