長岡亮介のよもやま話114「人生のステージ」(5/1TALK)

 私は今早春の信州の山の中に来て、ときを過ごしているのですが、早春というと少し肌寒い。山の中ではそういう季節で、そういうときの緑の美しさはまた格別です。若芽が芽吹く瞬間、あるいは芽吹いたばかりのときの輝きにはいつも感動いたします。ところで春はというと、私達がすぐに連想するのは、有名な清少納言の枕草子というエッセイの冒頭、

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、

すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

これが何とも言えないなということなんですけれど、私自身は、春はあけぼのというよりは、どちらかというと春の夕暮れというのは格別です。朝焼けがものすごく美しいと思うのはむしろ冬で、空がものすごく澄み切っていますから、そういうときに日の出で、闇の中に光がだんだん増えて、深い青からだんだんだんだん黄色く明るくなっていく。その有様は、何といっても素晴らしいと思います。こんな早い時間から起きているというのは、電気が普及した現代だからこそできることであって、清少納言の時代には、こういう薄暗い時間には眠っていたのでしょう。ですから、やはり冬はあけぼのというふうに言う気分にはならないのでしょうね。特に清少納言などという人は、立派な方の女官、今で言えば高級官僚として宮仕えした。言ってみれば、栄華を極めた人生を歩み始めたばかりの、負けを知らない少女でありますから、その人が自分の感性の赴くままに、言葉をとっても上手に操り、その自分の言葉尻にまた私ってうまくないっていう感じで自慢してるようでいて、かわいらしくもあります。私は子供の頃は、こういう清少納言が、生意気な同世代の女の子のように映って嫌だったんですけれども、年を取ってみるとこういう時代もあってもいいんじゃないかなと思ったりもします。

 人々はやはり成長していくわけで、生意気盛りというのもとても大切だと思います。その生意気盛りに、生意気な気持ちを持つ子供たちの角を貯めるというか、その可能性をいわば消失させてしまう、あるいは衰退させてしまうということは、絶対に避けなければいけませんね。何も知らない、若い女の子の非常に才能にあふれた女の子の、到底謙虚とはいえない世の中の風景に対する観察。これも私から見れば、やはり成長の一段階として、とても大切なものではないかと思います。人生そのままでいくと、これは困ったものだというふうに思いますが、きっと、清少納言を私は研究しておりませんから知りませんが、人生の中でいろいろとより深い体験を重ねたことでありましょう。

 およそ人生には多くのステージがあって、10代・20代・30代・40代というふうに10年区切りで区切るという区切り方、英語ではdecadeって言いますけど、「デカ」(δέκα)というギリシャ語の10という言葉から来ている言葉ですね。10年間を一つの単位として考えるという考え方は、ある意味で人間の成長と比べると、割といい線いってるなと思うんですね。ジェネレーション、世代っていうのも、30年間のことですけれども、1世代交代する。成人にして自分の赤ちゃんを産む。それまでを約30年としてそれを1ジェネレーションというふうに言うわけですが、これも人生の区切りとして良いものかもしれません。最近日本では、勇ましく人生100年時代というふうな掛け声がしきりとされてるのですが、人が30年しか生きないものを100年生きて、3倍以上充実した人生を送れるなら、それはそれで素晴らしいとそう思いますが、長生きが珍しかった私の子供時代はともかくとして、今のように長生きが平凡なことになってくると、それが本当に人々の幸せに繋がるのかどうか、時々考えさせられる場面に出会うことも少なくありません。でも、人生100年時代というふうに大雑把に考えると、10年間というのがあっという間に過ぎてしまうわけですが、その10年ごとに区切るという感覚を、今もう一回思い出してもいいんじゃないかなと思います。やはり、60代のとき、70代のときそれがだんだん年齢を取ってくると、50のとき40のとき60のとき70のとき、何年たっても同じような感じになってしまうことが多い。私もそういう自分自身を反省して、これからは75なんだから、というふうにできるだけ新しい決意を固めるように心がけてはおりますが、若い人もぜひ10年を一つの区切りとして人生を考える、ということを習慣づけ、人生100年時代というような、いい加減な言葉に引っかからないようにしてほしいと願います。

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