長岡亮介のよもやま話113「教員の過重勤務」

 皆さんは事情に詳しいかどうかわかりませんが、今いわゆる学校文科省の認定するところの、あるいは指定するところの正規の学校において、小学校・中学校・高等学校、どのレベルにおいても、教員の過重勤務という実態がずっと続いています。これは、今問題になってることではなくて、もうずっとそうなんです。本当にひどいもんだと思うくらい、いわゆる勤務時間以外の残業っていうのが多い。なぜそんなふうになるのか。普通の人はちょっと理解できないと思うんですね。子どもたちが多いから、先生が大変だとか。最近の子どもたちは言うことを聞かないから先生は大変だとか、言う人がいます。しかし、それは根本的に間違ってると思うんですね。私が小学校の頃は1クラスが50人以上でした。中学校も高等学校もそうだったと思います。

 今考えると、小学校の風景を見ると、閑散としていて、これはまるで外国の公立学校、人気のない公立学校の風景を見るようで、同じ日本であったとは思えないくらい、大きな変化をしています。学級を構成する生徒の数がすごく少ないんですね。すごく少ないと先生の目が行き届きやすくなる。だから、授業も能率よくなり、先生たちの勤務も軽くなると言われるのですが、とんでもありません。むしろ、圧倒的に数の少ない子どもたちに対する、先生たちのケア、指導、心のケアとかよく言いますけど、本当に世話焼き、それに追い回されている。その子どもの世話が先生たちの中心になっているならば、それはそれで、わかりもします。しかしながら、今の学校の先生たちの忙しさ、その大半を占めているのは、授業以外の仕事ですね。一番馬鹿馬鹿しいのは課外活動の付き添いとか、監督とか、そういうものです。課外活動自身がくだらないのではありません。課外活動をやるんだったならば、それは先生たちの仕事ではなく、課外活動やりたい子どもたちが自分たちでチームを作って、親たちが応援してやればいいことで、学校でやる必要は全くないと私は思います。私が子どもの頃、そんな課外活動はありませんでした。今の学校の先生は、土日まで課外活動に駆り出されると聞きます。しかし、もし先生たちが土日まで駆り出されて仕事をする時間がないんだったら、子どもたちは土日まで奪われて、遊ぶ時間も勉強する時間もなくなってしまいますよね。実に馬鹿げたことではないかと私は思います。

 さらに、学校の先生、特に小学校や中学校の先生を苦しめているのは、成績評価やら、クラス通信やら、保護者への説明責任を果たすための準備の仕事。例えば成績を一つつけるのにも「観点別評価」とかというのがあって、関心・意欲・態度そして理解内容というような多くの尺度。それから、毎時間どのように子どもたちが反応したかということを、詳細に記録して、先生によっては何回手を挙げたか手を挙げた回数まで、いわゆる私の頃はエンマ帳と言いましたが、先生の生徒に対する指導簿、今はもっともっと本当に遥かに複雑になってるんだと思いますが、そのようなものに記録して、そしてそういうものを全て合計して点数をつける。その点数をつける際に、手を挙げた回数それぞれについて、みんな1人1人について、毎時間つけるっていうんですよ。馬鹿げてると思いませんか。こんなような学級活動の評価、これが教員に義務化されている。それも国の制度として義務化されている。そんな話を私は聞いたことが、日本以外ではありません。もちろん、成績だけで評価してよいものかということはあります。

 けれども、それを言うんだったら、もっと根本的に「先生が子どもたちの成績を評価するということは意味があるのか」、というところからスタートしなければいけないと思うんですね。そもそも「成績とは何か」という問題が問われないまま、成績をつけるために、学力だけではなく他の、授業に参加する態度についても、あるいはその子どもたちがその科目に持っている、あるいは示した関心や意欲、そういうものについても評価すべきであるというのですけれど、人間が人間に対して行う評価なんて所詮くだらないわけでありまして、それは企業においても人事考課というのはしばしば行われるはずですが、そのときに、人事部の評価を担当する人が優秀でなかったら、その評価はどうしようもないものになってしまうわけですね。日本の戦後の残った大企業と言われるもの、財閥系企業と言われる大企業において行われている人事評価というのは、しばしば人事の担当者のお眼鏡にかなうという形でしかないので、本当に優秀な人が会社に最後まで残らないということは昔から言われてきました。しかし、他方私が知っている経済界の人は、「人事が会社の命である。なぜならば、その人事によって会社の運命が変わるんだから。だから、人事っていうのは、厳正中立公正に行っている。」そういうふうにおっしゃいます。そのように会社の経営者が努力しているということは確かでしょう。しかし私は、経済界の方が努力の必要性を訴えれば訴えるほど、実態がなかなかその理想には近づいていないという現実を、裏に見るような気がするわけです。その結果として結局ごますり男、無責任男、口先だけの男、とそういう今は男性だけを例にとってしまいましたが、対応する女性も存在するかもしれません、そういう仕事をしているふりだけをするのが上手な人が出世していくというような構造が、日本の社会の中には未だにあるようですね。そういうようなところで、外資系の企業、あるいは新しくできたばかりのベンチャー企業で、能率よく仕事が実行されるという現実があるんだと思います。

 それくらい大人がやっても難しいことを、小学校の子どもたちを相手に、学級担任が全部行う。そんなことをさせるってことの方が間違っていますよね。成績をつけるというのは学校の先生の義務になっていますが、それが膨大な義務になっているということです。成績がいいとか悪いとかってどうってことない話で、「この頃子どもたちがよく勉強してこの子はとても成績が伸びている」というような相対的な評価。子どもたちの中での成長を見守る、そういうのを相対評価と言います。それに対して、「クラス全体の中で、どういう成績であるか」というのを、絶対評価と言ったりしてるそうですが、実に馬鹿馬鹿しい話ですね。クラス50人の中で比較したところで、そんな比較をしても、結局のところ、子どもたちを評価するときに絶対も相対もないということです。我々は、日本人全体あるいは世界の人々全員に対して、私達がどの位置にいるか。そういうことを判定するのはとっても難しいことであるのに、ましてその人が個人として伸びてきているということは、その人に対する激励としてはとても良いことであるけれども、その個人的な成績の伸びとかっていうのが、社会において意味を持つというふうに考える方がおかしいですよね。もし、「社会の中で、この人は今頑張っているんだ。その努力してる姿が気高いんだ」と言うんだったならば、まず公務員試験からやらなければいけないと思います。しかし、公務員とか、あるいは裁判官とかってなる人が、優秀でなかったら、どういうことになるでしょうか。様々な公務員の不祥事が報告されていますけれど、さすがに裁判官にはなかなかそういう話がありませんね。それなりに立派な人がついてるっていうことです。その立派な人というのは、決して「今頑張っているね。だからきっと勤務は立派なるよ」というような成績ではないはずです。

 先生たちを、成績評価の呪縛から、少しでも開放してあげること。それを追求すること。とても知的とは思えないよ保護者に、しっかりと再教育をすること。「大人になった保護者の教育こそ、実はとても大切なんだ」と、私は考えているのですが、そのような声は聞こえてきません。学校の先生の負担を減らすために、少し給料を上げようとか、あるいは残業手当というのを正規に出すようにしようとか、あるいは5時になったら必ず帰らせるように管理職の人はそれをきちっと守れるようにしようとか、そういう馬鹿げた提案ばっかりが出ているようで悲しく思います。私達は、子どもたちを育てる学校という場で働く、非常に報われづらい職業に就いている、それを自分の天職と考えている人を応援するために何ができるか、というふうに考えるべきだと思うんです。

 私自身が思うのは、学校の先生の夏休み・冬休み・春休みの長期休暇をうんと緩く運用するということです。今、私が聞くところでは、高等学校の先生なんかでさえ、夏休みというものを、お盆のように日本の一斉休暇のところを除いて取ることが難しくなっているんだそうですね。しかし私に言わせれば、夏休み2ヶ月休暇、それを学校の先生たちは学校に来なくても全然構わない。自分たちの教養を磨くための研鑽の期間である。その時間をどのように使おうと、その先生方の自由だと。そういうふうに認める度量があっても良い。そういう先生方の中に、その休暇の中で、ゴルフに明け暮れるという人がいても、少々、そういうなんていうんでしょうか、大きな目標を達成するために、小さなところで妥協しなければいけないということはいくらでもある。

 小学校の先生が、何か洗濯をしたと言って、告げ口をされる。そういう話を聞いたことがありますけれども、学校の先生だって人間なのですから、昼間洗濯して洗濯物を干していたら、夜さぞかし疲れている中で勉強してるんだろうと、思いを寄せる。そういう態度で、学校の先生に接してほしいなと思います。とにかく、駄目な先生がいるっていうところに目クジラを立てるのではなく、「先生たちが、より頑張れるような環境を用意する」ということがとても大切であると思います

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