長岡亮介のよもやま話106「絶対を語る人々」

 最近私が気になる言葉として、言葉の使い方が間違っているというわけでは全くないのですけれど、「私達人間が、このような言葉を使うようになることが正しいのかどうか」ということを、私は感じざるを得ないという話として、最近よく耳にする「絶対に儲かります」とか、「絶対に損をさせません」とか、「絶対にしないでください」とか、何か「絶対」という言葉を、日本国民がよく使うようになったという、珍妙な現象についてです。「絶対」という言葉は英語で言うと、absoluteでありますね。絶対の反対は相対relativeということです。相対性理論というのは、物体の運動というものは、実は、「一つが動いている。それが静止している。一つが動いて、そういうふうに見ることはできない。」実は相互の相対的な位置、互いの位置、それが変化しているということを、片方が止まっていると思えば他方が動いていると見える。そういう話に過ぎない。多分これは「ガリレオの相対性原理」と言われる、非常に古典的な相対性原理でありますけども、私達は20世紀に入って、アインシュタイン自身は19世紀にその大発見をしているわけですが、リーマンという偉大な数学者の幾何学についての非常に重要な論文、それのアイディアをいわば核心を見抜き、自分の物理学に応用して、光が直進している、光が直進しているっていうことだけを光の高速直進性というんですか、その他のものを全部相対化してみるという理論を打ち立てたわけであります。

 相対主義というものの持っている本質的な重要性とは、物理学において明らかになっていますけれども、その「絶対」ということについて語ることに、一昔前の人々のように、気楽にはいかないんだっていうこと。それは近代科学において、はっきりしたわけです。近代科学は、真理の発見を続けて行っているものだから、絶対的ではないかと思う人がいるかもしれませんけど、実は反対で、近代的な科学は進めば進むほど、「相対的なもの見方がいかに重要であるか」ということを明らかにしてきた歴史であると思います。

 「絶対」というのは、私達は気楽に使うんですが、これは18世紀以前の世界観であって、有名なルイ14世が、「L’État, c’est moi」といったと言われますね。「国家って?」L’Étatというのは英語で言えばthe Stateですね。「国家って?」反問したわけです。それは官僚たちが国王に対して意見を言ったんでしょう、「国家の財政が危機的です。ですからそのお考えはおやめください。」そういうふうに進言したんだと思いますが、勇気ある進言に対して、「国家って、それは俺のことだ。」C’est moi。this is me、あるいはthis is my self、It’s myself、そういうことですね。まさに絶対王政の絶対的な権力を物語る名セリフだと思いますけど。そういう絶対王政が、フランスを初めヨーロッパ各国において、滅びていった。絶対王政に支配されていたヨーロッパ諸国は、多くのところで、いわばその絶対王政の持つ能率の良さによって、華やかな文化を誇っていたわけでありますけれども、しかし、やがて市民革命が勃発して、ヨーロッパの絶対王政の歴史は終わっていくわけです。今でも王政を敷いている国はいっぱいありますけれども、憲法によって王の権力いうのはこの範囲にとどまるというように、王の行使する力というのを大幅に狭めてやっているわけですね。それでも国王がいる方がいいのか、ということは、国王を持たない国の人々が、しばしば共和制の国において、ナポレオンのように、共和制を破壊する人が出てくるという歴史を鑑みるときに、むしろ権力を制限した王政を持っていた方が、人々の暮らしはより安定しているという歴史のレッスンがあるようにも思うわけですね。

 今のロシアをかつてのソ連と比べる人がいますけれども、とんでもない話でありまして、ソ連は立派な、「立派な」とつけていいかどうかを微妙なのですが、法治国家なわけですね。大統領として選ばれているプーチンが、自分の権力基盤を様々な法改正によって、固めているわけで、プーチンのような独裁的な権力を持っている人間でさえ、青ざめるという事件が最近起きているわけでありますけれども、実は絶対王政というのは、安定しているように見えて不安定なんだということです。「絶対的な権力は、絶対的に腐敗する」という言葉がありますが、結局のところその深い歴史的な洞察が明らかにしているように、「絶対」というのは、私達人間社会には、なかなかなじみがないというか、うまく調和しないものなのですね。

 ところが日本人は、明治憲法でさえ、絶対君主制というふうなものではなかったと思います。多くの官僚たちが、明治天皇を支える立憲君主制というものでもって、中央権力の力を、本当に絶対的と言ってもいいほど高めていたわけでありますが、その体制が脆く崩れたということは、皆さんもよく御存じの通りです。そういうふうに、歴史は動いてきているのに、「絶対しないでください。」「この病気の人、絶対これはしないでください。」「このようなお金を儲けない人、絶対にこのようなことはしないでください。」言い換えれば、「私の言葉に絶対従ってください。」そういうふうに言っているっていうことですね。このような言葉が飛び交う社会って、私は恐ろしいなって思うんです。結局のところ、自分の能力が絶対的であると思っている人が、少なくないということです。そのような自分の知識とか自分の判断能力とか、それが「絶対」であると思っている人が、国民の多数を占めるようになったならば、これは絶対王政よりも、私はよほど怖いと思うんですね。そして、それを自分の利害打算のために、他人に対して「絶対」という言葉でもって、時には恐怖を、時には射幸心を煽るようなこと。その風潮が一般化して、人々はそれに気づかなくなってきているということに、私は何か空恐ろしいものを感じるわけです。

 私は日本の行政に対して、心から賛同するものでは全くありませんので、今の税金についても、とにかく取れるところから取ろう。取れないところからは、税金を取り立てるためのコストの方がかかるからということで、取れるとから取るというのは、非常に大きな流れになっております。そういうように、思ってるくらいですから、日本で流行っている「絶対に損しない節税対策」、こんなものを売り物にしている人を聞くと、本当に情けなくなりますね。税金というのは、納めてこそ、社会の有力な構成メンバーあるいは有意な構成メンバー、存在することに意味がある、そういうふうになるものであるのに、1円でも税金を減らすことの方が重要であるという風潮が一般化しているのは、国の徴税対策が貧しいからで、本当は「人々が自分の将来のために、あるいはみんなのために自分の税金を使ってください」と、そういうふうになることは理想的なんだと思うんです。税金を1円でも減らす。こんな仕事のために現代の徴税人であるところの税理士と認定されている人々が、節税対策を売り物にして生きるという世の中も悲しいなっていうふうに思います。話はちょっと脱線しましたが、自分が儲かるためだったら「絶対」っていう言葉を乱発する。そういう風潮に対して、私はちょっと悲しく感ずるということです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました