長岡亮介のよもやま話103「泥縄の知恵」

 今日は、急速に変化する言語環境、というとちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、急速に現代で失われている言葉使いについて、お話したいと思います。それは、私が若い人に向かって使った言葉で、「泥縄」ということ言葉だったのですが、それが通じない。泥に汚れた縄のことではないかという、文字通りの解釈しかなかったわけです。私の時代で言えば、泥縄式というのは、若い幼稚な学生が試験のために勉強するときにしばしばそれを揶揄して言われたわけで、誰でも知っている言葉でしたけれども、それがすっかりなくなってしまったということに二つのことを感じたわけです。

 泥縄式というのは、元々泥棒を捕まえてから縄を結うこと。本来泥棒をせっかく捕まえたのですから、それをお代官様のところにあるいは警察署に届けるために、逃げないように縄で縛るというのが昔流であるわけですが、その縄がない。泥棒を捕まえて縄を結わなければいけないという、言ってみれば準備不足。そして、その場限りの必要になったときに、今まで必要であったっていうこと忘れていたこと。一旦差し置えて、それから、一生懸命拘束するための縄を結う、ということ意味していたわけですね。泥縄というのは、勉強において最低の方法でありまして、やはりいざというときのために、きちっと準備を整えるということは当たり前であり、かつ勉強というのは、いわゆる職人さんの仕事と違って、「身をもって覚える」というよりは、「論理的に体系づけられた物を順番に習得していく」という方が、能率が良いっていうことがあるわけです。

 職人技の中には、そのように体系的に論理化する、あるいは論理的に体系化するということがそもそも困難なことがあるわけで、見よう見まねで覚えるということが何より大切というふうに昔から言われてきましたけれども、一方で、学問の世界あるいは学理の世界では、体系だってきちっと勉強していくということが重視されてきました。英語で文法を表すgrammarって言葉がありますが、このgrammarって言葉も、もちろん単なる文法という意味ではなくて、知識を整理して、それを体系的に学ぶという方法。それを一般に、grammarと言っていたわけです。最近のわが国では、grammarが軽視される。そういうのが新しい英語教育の流れだ、というふうに言わんばかりの風潮でありますけれども、勉強において、grammarの大切さ、体系的な習得の大切さっていうのはいうまでもないことであるわけです。

 しかしながら、一方で、人間は赤ちゃんとして生まれてきた時から、体系的に勉強して、人間としての生き方を学んでいくかというと、そんなことはできないわけですね。赤ん坊は、日本語ももちろん英語圏に生まれた子どもたちは英語も知らないまま、とにかく「うまうま」とか「ギャーギャー」とか訳のわからん言葉を言いながら、成長していくわけです。そのプロセスは誠に不思議でありまして、私達の容易に理解できるところではないわけですが、人間が他の動物と違うところは、言語能力という非常に繊細な、そして豊富な情報を持つコミュニケーション手段を持っているということで、哺乳動物の中には、人間のようにあたかも会話をしているという場面がよく報道されますけれども、その時のコミュニケーションは動物にとって非常に必須の大切なものなんだと思いますが、人間の言語によるコミュニケーションと比べると、遥かに単純であることはいうまでもないわけです。

 私達の文化が、複雑な情報をやり取りする情報交換、あるいはコミュニケーションの上に成り立っているということは確かでありまして、しかし、人間がどうしてそのようなコミュニケーション能力を身につけるのかということは、誠に不思議という他はないわけですね。しかも大人になってからそれをマスターすることは難しくて、3歳くらいから5歳くらいまでの間に、人間は驚くべくスピードで言語を習得していくわけです。そしてその頃習得した非常に原始的な言語を、洗練された言語に昇華していく。それは小学校段階から中学生にかけてでありましょう。要するに、抽象的な言葉で表現する、そして相手に伝えるっていうことができるようになるわけです。高校生になりますと、ますますそれに磨きがかかり、大学以上に行けばさらにそれに磨きがかかる。人間はある意味で言語の習得という課題に関しては、生涯勉強が続くわけであります。しかし私自身の場合に関しても、本当の意味でのびのびとというか、すごく言語能力の進展がスピーディーだったのは大学生くらいまでで、大学生から後はどちらかというと、喋り方の基本というよりは、喋る上でのマナーであるとか、あるいはそれをやんわりと和らげる、あるいはぼんやりとさせる、不鮮明にする。そういう表面的な技を磨いてきたような気も致します。基本的な能力っていうのは大学生くらいまでに付け終わってるわけですね。

 ではそれを私達は体系的に勉強したのかっていうと、決してそうではないわけです。確かに小学校に入ってからの漢字は、山とか川とか、そういう短い漢字、短いというか画数の小さな漢字、特に象形文字というのは優れていると思いますが、そういう文字を利用して、漢字を覚えてきました。漢字の勉強というのは、小学校段階でかなり体系化されていたと言えますね。しかしながら、山とか川、上とか下、という文字を除くと、必ずしも文字の習得も全部体系的というわけではないわけです。どの漢字をどの順番に教えたらいいか。これは難しい問題で、子どもたちの持っている日々の関心、あるいは生活の仕方、それに応じて必要な文字っていうのは違うわけです。それを全国一律、学校で、小学校3年生はこれ、小学校4年生はこれというような文字を勉強する基準というのを、文部科学省というのは勝手に制定しておりますけれども、それは一種の基準であって、その基準を守らないと文字が習得できないというものでは全くない。私達は多種多様の仕方で、文字を勉強していく、その文字を勉強する順番が論理的に体系化されているというわけでは必ずしもない。画数の小さいものから画数の大きいものへ、使用頻度の大きいものから使用頻度の少ないものへという一般的なことは言えますが、どの文字をどの順で、というふうに体系化することはできない。

 論理的な体系化が容易なのは、数学のようなものでありまして、数学においては、小学校のとき私もどのように勉強したか覚えていませんが、しかしながら、それなりに体系化して、自然数、小さな自然数の足し算の後には、2桁と3桁とかという自然数の和を筆算でやる方法を勉強し、あるいはその前に引き算を勉強したのかもしれません。足し算と引き算を勉強した後には、掛け算と割り算を勉強したのだろうと思いますが、その順番は私は今は全く覚えておりません。私は、今の子どもと違って、勉強に遅れていたのか、小学校3年生の時に、九九を勉強するということ。その勉強した記憶が鮮明に残っています。世の中には九九を勉強することが難しいことだと思っている人がいまして、それは実に愚かなことでありまして、我々が10進法というのを使っているから九九でありまして、もし2進法で言うならば、九九で覚えなければいけないのは、1×1=1、たった一つ、それだけなんですね。10進法で九九っていうのは0の段というのを省いているからで、0段まで入れれば十十と言うべきなんです。100個覚えなければならないから大変。それを交換法則を利用して半分に済ますっていう、そういう子どもらしいずるさを身につければ、半分で済むわけですね。九九といってもたかが知れているわけです。それは丸暗記すればいいことです。そして数の計算において、九九が重要なのは、面倒くさいのは私達が10進法を日常的に使っているからで、コンピュータのように2進法でやるならば、1×1=1、0段を入れても0x0=0、0x1=0、1×0=0、その3つが加わるだけです。4つで済むわけです。つまり九九が難しくないということがわかることが、本当は数学で大切なんですけれども、そのような体系化をする前に、九九を勉強しますから、丸暗記という苦痛があるわけですね。これは仕方のないことではないかと私自身は考えています。

 インド人は19×19まで誦じているという話を昔聞いたときに、馬鹿なことをやっているなと私は思いましたけど、インド人の友人ができたときに、そういう話が日本であるが本当かと言ったら、地域によっては本当であるという話が返ってきました。インドもいろんな地方があって、いろいろな教育がのさばっているというか、大きな伝統となっているということなんでしょう。日本でもインド式計算術という本がずいぶん出ているということを聞くと、日本人の算数に関する基本的な素養が、やはり小学校段階から中学に行っても伸びていないという現実を、思わざるを得ません。

 しかし、私がお話したかった元の話に帰りますと、要するに論理的に体系化するということは、論理的な学問を能率よく勉強するために大変に効率の良い方法ではあるのだけれども、数学のようなものでさえ、実は初心者においては、論理的な体系性にはこだわっておれない、というところがあるわけです。小学校の勉強、あるいは言語の習得というのは、決して論理的に体系づけられたものではないわけですね。私達はそのような全く体系づけられてない能率の悪い勉強の仕方を、しかし、子どもの頃、赤ちゃんで生まれてきたときから、5・6歳になるくらいまでに何とかその基礎をマスターするわけですね。6年間くらいかかるとはいうものの、全然喋れなかったということから比べると、ずいぶん小学校に入ると生意気な口も聞くようになりますから、大した言語能力があります。しかし、小学生の日本語能力が乏しいのは、「何時何分何曜日」なんて、友達と喧嘩するときに「何時何分何曜日」というふうな言葉遣いが流通していることからも、小学生の言語能力が乏しいということは明らかですね。もし「何時何分何曜日」と言うんだったならば、「何曜日何時何分」と言わなければいけないのに、その後に「地球が何回、回ったとき」なんていうのをつけるのを、小学校6年なってもやっているということは、結局のところ言語能力も12年間かけても、その程度しかいかないということですね。それでも日常会話には困らなくなります。

 その日常会話に困らなくなるようなことを、外国語でマスターするということになれば、それは諸赤ちゃんが小学校の6年生になるまでに勉強するというプロセスを、そこで繰り返すというのは馬鹿げたことでありまして、そこでは必要なこと、論理的な順番はとりあえず置いておいて、「泥縄式にやる」というのが、致し方ないことなんですね。そうであっても、小学校の数学が多少なりとも論理的であるように、中学校の数学になったらより論理的になるように、高校になったら更にそうなるように。ちなみに、高等学校の数学が論理的な学問だと思っている人が世の中には多いんですが、大学の立場から見れば、それは小学校の算数と同じぐらいデタラメな世界であるわけですね。でも、教育においては、泥縄式であるということと、論理的体系的であるということを、それを適当にうまく混ぜてやる。落としどころを見つけて勉強していく。あるいは学習方法を確立していくという「泥縄の知恵というのがとても大切なんだ」ということ、それを改めて思いました。泥縄式というのは、泥棒を捕まえるときには良い方法ではありませんが、勉強においては、とても大切な心構えであるのではないか。そういうふうに考えた次第です。私達は泥縄式に生きているんだと。そして、毎日毎日新しい縄を結い直す。そういう生活を送っているんだということを改めて考えた次第です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました