長岡亮介のよもやま話100「突然変異」

 今日は、私も最近全くわからなくなっている流行語の一つである、「突然変異」を取り上げたいと思います。19世紀以来生物学の進化において、突然変異というのがキーワードになってきたと思います。世代の交代の時期に、突然変異が起こる。実は一つの世代の中においても、例えば人間であれば、人間という全体を構成している様々な機関、その様々な機関を構成している様々な細胞、そういう中に、突然変異が起こる。その突然変異は、しばしば免疫反応によって、抑制される。つまり突然変異した細胞は殺されるわけだけれども、それが殺せなくなった状態。免疫力を突然変異した細胞が打ち勝っていく状態。それが「がん」であるというような説明、通俗的な説明をよく聞きますね。19世紀に突然変異が言われたときには、突然変異を通じて、生物は進化していく。進化っていうのは、evolveという英語の動詞。それの名詞形Evolutionでありますが、進化していく。進歩していくとは言われない。進歩はprogressと普通言いますが、進歩していくわけではないが、進化していく。自ら展開していく。その進化を通じて、生存に適した「種」が、あるいは環境に適した「種」が残っていく。その結果、その環境にぴったりの生物が生まれてくるんだ、とこういうような素朴な説明がなされてきたように思います。最近の生物学者は、そのような「適者生存」のような素朴な原理を述べることはないように感じていますが、それでも生命の様々な「種」が、その「種」に有利な方向に進化していく。その「種」の生存戦略とかあるいは繁殖戦略というものがあるんだ、ということをしばしば口にしているように、私の耳には聞こえてきます。

 突然変異というのは言ってみれば、サイコロを振るような確率論的な変化でありながら、それが全体として、「種」の繁栄のためになる方向に向かって進んでいくというのは、いわば説明の中にある矛盾でありまして、ランダムに進んでいるようでいて、実はある目的性を持っているということですね。この生物の説明に、目的という概念を持ち込んだのは、古くは古代ギリシャの偉大な哲学者であるアリストテレースでありました。「原因があって、結果がある」という因果関係でもって全ての現象を説明できる、と彼は信じていたんだと思います。そして、その原因の中にあって、その最も重要な原因が、目的と言われるものでありました。そして全ての物が、それぞれの目的に向かって、動いている。全体として秩序が保たれている、という思想ですね。平たく割り切ってしまえばそういうことになると思います。

 しかしよく考えてみると、目的というのは、実に不思議な概念で、私達人間が生まれて生きているときに、どういう目的を持っているんだろう、というふうに考えると、これで昨日の話と重なるわけですが、その目的というのが、言ってみれば、物質的に豊かな生活、あるいは肉体的に快適な生活、美味しいものを食べ、涼しいところあるいは清々しい空気、美味しい水に触れて生きること。そういうのが目的である、というふうにちょっと考えると思いそうなのですが、思い直して考えてみると、そんなものは目的とは言えない。それは言ってみれば、豊かな人生を生きるための一つのスタイルであって、あるいは、ステップ、道具あるいは段階のようなものであって、生きていく目的ではないでしょう。実際そのようにして人は必ず死んでいくのであるから、その心でいくまでの束の間の間、そのように快適に過ごすということが目的であるとすれば、最後にその目的が遂げられずに、達成されることなく終わるのが人生じゃないか。そういうふうに考えると、人生はむなしいということになってしまうかと思います。

 古代の快楽主義というふうに、呼ばれているエピクロスという哲学者は、そのような人生の虚しさゆえに、実は彼は快楽が大事だと言ったんではなく、今を生きるということがとても大切だと。その瞬間瞬間の生を充実させることが大切だ。そういうふうに言ったんだと思いますが、エピクロスにしても、ルクレティウスにしてもそうだと思います。しかしながら、それも、やはり単純すぎるわけでありまして、今を充実させていけば、今という時間の集合である人生、それが充実するのか。これはまた別問題でありますね。今を大切にしなければいけないのは事実であるとしても、今を大切にすることが、いかに人生全体を充実させることに繋がるのか。これは、本当に重要な、私達一人一人に問われている重要な問題だと、そういうふうに考えます。

 話を元に戻しまして、生物は、刻一刻と突然変異を繰り返している。人間が、自分自身が突然変異を繰り返しているっていう思いは、あんまりないわけでありますね。誕生から成長し、やがて老衰し、死んでいく。そういう有様しか考えていませんが、人間の組織の中では、例えば皮膚にしても骨にしても、頻繁に生まれ変わっているわけでありまして、その生まれ変わりのプロセスの中では、しばしば突然変異も起きるわけです。ちなみに私は骨粗鬆症という病気を患っていて、それがきっかけとなって、運動不足と加齢によるものでありますが、あと栄養不足といろいろと悪い、お医者さんから見れば、生活習慣が悪すぎるっていうことでありますが、一番悪かったのは歩きスマホやってたことで、それで何回も転倒したことで、圧迫骨折を起こしたわけです。そしてその圧迫骨折が悪くならないように、様々な治療をしておりまして、現段階は、半年に1回の注射。その半年に1回の注射ってのはあんまり私は好きでないのですが、人間の体は生まれ変わる。そのために骨を新しくする。新しい骨を作るために古い骨を壊す。古い骨を壊す「破骨細胞」、私達の体の中に自らの新陳代謝を促すために、自分の体の成分を破壊する。そういう機能があるんですね。その「破骨細胞」の機能を抑えて、少しでも残っている骨を残存するというのが今の治療方針で、生命としての倫理に反するのではないかと私は半分冗談交じりに思ってはいるんですけれど、そのくらい実は人間の体の中でも、入れ替わりが激しいわけですね。そういうわけですから当然そういう中で、生物の進化に相当する細胞の再生に関連して、突然変異があってもおかしくないわけです。

 ところが最近私が思うのは、COVID-19。2019年型コロナウイルス。日本では新型ウイルス、こういうふうに言われてきましたけれども、世界的にはCOVID-19。一応世界の保健機関では、SARS、コロナウイルス2型という名前がついています。急性の呼吸器障害を引き起こすウイルスの第2型だということであります。しかし、それについても、わが国では非常に細かい統計を県ごとにとって、そしてそれを棒グラフにして、その棒グラフの波を見て、第何波というのをやたら細かく分析しています。毎日の患者の数というのを1週間ごとに比べて、「1週間前よりも数が連続3日にわたって増えています」というような言い方。つまり、1週間という周期が非常に重要な役割を果たすような統計の取り方をして、波を見て、その波の中で、大きいもの小さなものというのを見て、第何波っていうふうに数えているわけですが、本当にそういうふうに「表面的に数値を数えるということに意味がない」ということは、私は昔、「統計の嘘」ということでお話いたしました。数値を集めるだけで、データが集まったっていうふうに考えてはいけない。単なる数値であって、それは意味のある情報とするためには、数値を取るところから、きちっと設計して、分類して、数値を集めなければならないということですね。

 例えば、重症化して亡くなるというタイプの人の中には、もちろん、急激に病状が悪化してという方もいらっしゃるでしょうけれども、いわゆる持病、深刻な持病、持病にもいろんな程度があると思うんです。その深刻な持病を持っておられる。あるいは家族の中にいろいろな病歴がある。様々人間一人一人が多様な情報を持って分類されなければならないわけですが、その人間に関するものを全て細かくしたら、一人一人別々ってことになってしまってデータを取る意味がない。ですから、何らかの意味で括る必要があると私は思うんですね。一つは年代で区切るっていうのは一つの方法でしょうし、既往症で括る。特に深刻な合併症状を既往歴に持っているというような患者さんで、病症がどのように進行した方というふうに調べる。あるいはその治療を試みたその治療の種類によって分類する。様々な分類原理があると思うんですが、それがものすごくたくさんあるとしても、実はそのようなものすごい数の分類の中で、意味のあるものは何であるかということを、コンピュータを使うことによって絞り出すということも、簡単にできるようになってきているわけです。いわゆるAIって言われているものは、それをコンピュータを使って自動的に行うというシステムである、と断言してもいいくらいであるわけですね。

 ですから、本当は第何波・第何波という言い方をする前に、そもそもそのようなデータの取り方に素朴すぎるものがあるのではないか、ということを反省すべきだと、私自身は思うのですけれども、お医者さんの立場から見れば、人々の治療に邁進すること、それが第一で、医療的な統計をとるということは二の次だということなのでしょう。しかし、アメリカなんかでは、費用に関しては国民自身が非常にドライで、いろんな新しい薬、新しい治療の治験に、能動的に参加するという文化がありますね。日本はそういうところは非常にいい弱点を持っているんではないかと思います。みんなが、私さえ助かれば良い、わたしさえ長生きすればいい、ということしか考えていないということです。本当の意味で、「私達はみんな死ぬんだ」という悲しい運命を持っている共同体なんだっていう連帯感が、乏しいんじゃないかと思うのですけれど。

 さて、突然変異の話です。今、コロナウイルスがもはやそんなに怖いものではないとは言われ、重症化患者が減っているというんですが、それは「コロナウイルスの突然変異株が、危険性を持つようなものでないものに変異を遂げた」という説明に、結局はなるのだと思いますが、もしそのように、コロナウイルスが人間に対してひどい最悪をもたらすものでないものに、つまり安全なものに変異したとすれば、そのコロナウイルスにとって、コロナウイルスを生物と言っていいかどうかわかりませんけれども、仮に生命体というようないかがわしい言い方をしたとしましょう。それがその遺伝子しか持ってない非常に原始生命であるとしても、突然変異があるわけですから、それを生物学的な意味で、生命体の概念を広げて考えるっていうことの方が科学的であるというふうに思いますので、そのような定義を拡大するっていう立場を私はとりたいと思いますが、そのようなものとしてコロナウイルスの生存戦略というのを考えたときに、それが本当に合理的なのか。昔、コロナウイルスが、COVID-19が世界中で猛威を振るったときに、私の知人の免疫あるいはウイルス研究者が一同に言っていたのは、「あまりにも賢い。今までのウイルスと違って、ともかくやたらに賢い。」そのやたらに賢いというのは何かというと、「患者を重症化させることなしに、自らを増やすっていうことができる。たまに重症化するという患者を作るけれども、多くは重症化して本人も気づかないまま他人に移っていく。そういう巧みな戦略を持っている。」そういう話でありました。

 それが、コロナウイルスが、突然変異で進化した結果、どのようになったというのでしょうか。私は、アルファ株、ベータ株、デルタ株とか、果てはオミクロン株と出てきて、ギリシャ語の文字が言えなくなってから、いろいろな細かい分類をしだして、結局、今フォローできないくらいまでの複雑さを示しているんだと思いますが、今までオミクロン株と、ずっと叫んできた人たちは、今の現状に対して、もっと明確な言葉で喋らなければいけないんだと私は思うのです。私自身が思うのは、「それは生命あるいは生物、あるいは「種」の進化が突然変異によって、その「種」の生存にふさわしい方向に進化していくんだ」という素朴進化論的な説明が未だに残っているわけですけれども、その説明の持っている一種の限界に、私達が直面してきてるということなのではないか、と少し大げさに考えているんですね。そういう大げさに考えることによって、私達がこうむったこの災厄について私達が全く新しい知見を得るということに、これを役立てることができるという、そういう局面に達してるんではないかと、あえて肯定的に考えてみたいと私は考えているのです。

 生物は進化するのではなく、生物は突然変異を繰り返す。そして突然変異を繰り返した結果、それがその「種」にとって、「種」って言い方はかなり上位の生命体にしか当てはまらないのかもしれませんが、言ってみればSARSコロナウイルス2型であっても、そういうウイルスにとっても、それが有利な方向に動いているとは限らないということ。いわば、地球全体の生命系っていうシステム、その全体のロジックの中で、生命が進化をしてるってということで、個々の生物の「種」の進化が、その生物に有利であるからであるという説明は、そもそもかなり短絡的な思想なのではないか、とそういうふうに思います。例えばかつて保護色というような言い方が盛んになされていました。保護色ってもう極めて優れた生物の生存戦略に見えます。しかし、動物界の中には、あるいは昆虫界の中には、あるいは本当に鳥類の中には、とても保護色と思えないようなケバケバしいもの。魚なんかにもいますね。その保護色という言い方が、いかに人間の浅知恵の結果であるのかっていうこと。人間が、愚かな人間が納得しやすい単純な説明のシステムでしかなかったということ。こんなことまで含めて、コロナウイルスのこんにちの落ち着き具合は、私達に何を次に考えなければならないのかという問題を提起してるんではないか、と考える次第です。

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