長岡亮介のよもやま話98「『形』というものの持つ意味」

 皆さんは、「形式」という言葉を聞くと、何を思いますか。「フォーム」日本語ではその形という言葉から式という言葉をつけて、「フォーム」を「形式」、「フォーマル」を「形式的」、そういうふうに言葉を使っていますね。なかなかいい訳であると思いますが、形にのっとっているということ。形というのは、ある意味で、実質の反対でありまして、実質を伴っていない形だけのものというのを、わが国では、「形式的」と言って、やや軽蔑する軽侮の念を持って語ることが多いですね。それは実質が伴ってない形だけのものであるということです。

 では「形式というのは何のためなのか」と考えたことはありますか。私自身は子供の頃、形式的なことが大変に嫌いで、形だけのものを、何か誰かの都合でもってそれを強制されているという気分に陥ることが多かったのですが、だから実質的なことが一番大切だと、そういうふうに信じ込んでいたんですが、年を取ってくると、「形」というのもある一定の意味を持っていると思うようになりました。「一定程度の意味を持っている」という意味は、「形」というものに意味がないわけではなく、それが「ある意味を持つような場面が存在する」ということです。例えば、茶道の世界では、いわゆるお点前、お茶を入れるときの作法、それに非常に詳しい決まりがあります。「その決まりの一つ一つがどのような意味を持っているかということを考えること」を通じて、「お茶を入れるということはそもそも何か」ということを考えさせようとした。これが茶道の開祖、始めた人、利休の精神ではなかったかと思います。利休は、茶道の形が大事だと考えたんではなく、形を通して、自分の茶の湯の精神、それを伝えようとしたんだと思うんです。逆に言うと、「利休の心」というものが、形以外のもので、きちっと残るということを、利休はあまり楽観して考えられなかったんじゃないでしょうか。そこで、彼は「形」というものにこだわることを通じて、「形」で残せばその「形」を通じて精神が伝わる。あるいは伝わりうる。もっと弱く言えば、その「形」を通して自分の心を次世代に何らかの形で残すことができる。そういうふうに考えたのではないかと思うのです。

 どんなことでも、実は形というのは意外に大切なもので、本物の実質的な精神、これを維持することは意外に難しい。私自身はそれが子供の頃難しいことだと思っていなかったんですね。例えば、「正しいとか正しくない」ということ、それを友達の間で共有すること、それは難しいことではない。「誠意と不正」、それを共有することは難しいことじゃない。そういうふうに考えてきました。子供の頃だけではなく、大人になってからも、そうであったということを認めざるを得ません。私の時代、20世紀の末は、いろいろと混乱した時代ではありましたけれども、その時代の中にあって、私自身は20世紀の中ごろに生まれたわけでありますが、その大混乱の中にあっても、何かしら20世紀的な理想主義というものがまだ生きているというふうに信じ込んでいた、そういう世代であります。そのような理想主義が、言ってみれば、壊滅的な打撃を被るという局面がこんなにも早く来るということは、予想だにしていなかったんですが、そういう現実を理解する。あるいは理解せざるを得ないという局面に追い詰められたときに、私は子供の頃、考えてきた「実質が大事であって、形なんかはどうでもいい」という考え方は、やはりちょっと傲慢であったなと思うわけです。つまり、「話せばわかる」というか、「ちゃんと合理的に考えれば結論が出るんだ」という考え方は、やはり甘かったと言わざるを得ないということです。

 そういう意味で、「形」というものの持つ意味というものを、考えざるを得ないというところに、私は置かれておるわけですが、何か日本でいると、「形」があまりにも優先しすぎていると思うことが少なくありません。もう少し実質的なものを大切にしようというふうに私は思うのですが、日本は形に硬直して、それにへばりついて生きようとする。そういう傾向があるような気がします。特に春は入学式、あるいは卒業式のシーズンですが、入学式や卒業式というのは、本当にめったにないことですから、それを大切にしたい気持ちはよくわかる。小学校の入学式は、6年間これから続く小学校の中で1回しかないわけですから、卒業式も同様です。しかし、中学や高校になると、たった3年間の間で入学式、卒業式がある。なんか慌ただしいですよね。大学に関してもそうです。たった4年間で入学式、卒業式やるのか。日本の大学制度っていうのは、ある意味で短すぎる。ある意味で長すぎる。中途半端な期間だと思います。

 しかし、もっと中途半端なものに対しても、決団式とか、あるいは解散式これをやる組織がありますね。これが行政ですが、本当に馬鹿馬鹿しいことだと思います。例えば、非常事態が起きて、その非常事態に向けて、公務員を派遣する。当然、派遣する公務員のためのお金というのを用意するというロジスティックスの話もありますけれども、そういうときに結団式っていうのをやる。そして恭しく送り出す。そして終わって帰ってくると、解団式、あるいは解散式というのを恭しくやる。それが、例えば、海外で半年以上にもわたって厳しい瓦礫と戦うというような場面、あるいは戦闘に遭遇するかもしれないという場面であれば、そういう荘厳さに人が求めるものもわからないではありませんが、例えばコロナウイルスのワクチンを接種する接種団の組織するための結団式。それが一段落したあと終わりの解散式。こんなのをやっているとすれば、馬鹿馬鹿しいと思いますよね。おそらく、そんな馬鹿馬鹿しいことはやってないに違いないと思いたいのですが、おそらくどっかでそういうことが行われているに違いないと思います。行政というのは、人々の暮らしに密着したところですから、それが中心であって、それで終わる。それ以外のものは何もないというくらい重要なものは、人々の暮らしに寄り添うということですね。寄り添うというと、流行語表現で何か曖昧で、良くないんですが、その人たちの世話をするということです。その世話をするっていうことが中心であって、その世話をする集団に結団式何かをやったらおかしいですよね。そういうような馬鹿馬鹿しさはないと信じたいのですが、何か漏れ聞くところ、そういうのに似たものが依然として続いているようで、悲しいものを感じます。

 日本がもう少しグローバルな世界で、きちっと戦っていくことができるためには、決して「経済的なもうけを出す、そういうビジネスを日本において起こす」ということではなく、世界の人々と同じように考える。日本の古き良き時代の伝統だっていうふうにこだわる人がいるかもしれませんが、古き良き時代の伝統といったからといって、その古き良き時代、どれくらい長くまで遡ることができるのか、私は極めて怪しい。ごく戦後のこの時期に生まれたもので、そのルーツは戦前の軍国主義的な日本の中にある様々な組織であったのではないか、と想像しています。そうであるだけに、私達がこの変な伝統から早く自由になることが大切であると考えている次第です。

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