長岡亮介のよもやま話97「億年単位のスケールと国境問題」

 今日はテレビのニュースに触発されて、考えたことについてお話したいと思います。それは、大陸の方からかなりの量でやってくる黄砂、黄砂っていうのは要するに砂漠の砂が風に巻き上げられて、重いはずなのですが、それで相対的に軽いので、海を越えて大部分は海に落ちるのでしょうけれども、海に落ちきらずに日本まで渡ってくる。日本より先にも行くんだと思います。こういう報道に接すると、日本に無いはずの砂漠の被害が日本に及ぶというふうに感じて、一種の怒りのような感情を持つ人がいるのかもしれませんけれど、私はそれが改めて地球は一つということを思い出させてくれるきっかけになるのではないか。つまり、遠くの地方で砂漠が広がると、それがとんでもなく離れた日本において、深刻な、場合によっては健康に対して害のある被害をもたらしうるという現実が、目の前にあるということですね。国境線とか、あるいは国境自然境界であるところの海とか山とか、そういうものに妨げられるということによって、その影響が及ばないということがありうるわけですけれども、実際に黄砂の場合なんかですと、簡単にやすやすと日本海を越えてくる。中国本土にも重大な影響があるのでしょうけれども、それと匹敵するとも劣らない、そういう影響が日本にあって、今年は、従来はあまり影響がなかった北海道や東北地方も、その大きな影響に巻き込まれる。偏西風というのが吹いているわけですから、私達の自由になるものでない自然の力によって、いわば被害が私達の想像を絶するところにまで広がる、ということですね。

 このように私が「想像を絶するところにまで広がる」と言ったのは、私達の想像が、いかに短いスパンでしか考えられていないかということです。私達は、せいぜい自分の人生100年の中で、その中の30年くらいをもって、自分の人生のスパンを考えているんじゃないでしょうか。長い人でも、年取った方が「私は今まで生きてこんなことはない」というふうにおっしゃるのを聞くと、60歳くらい、あるいは60年間くらいは記憶の中に鮮明に記録されているということかもしれません。しかし、人間の記憶というのは、せいぜい10の2乗年、10の2乗オーダー、100年程度なわけですね。100年程度っていうのはいかに短いかというのは、日本の短い歴史に関して言えば、平安時代なんて言っても、本当に10の3乗年、1000年さかのぼると、もうその時代になる。1000年ちょっとってことになりますけど、オーダーとしてはそんなもんなわけですね。私達は10の4乗年、1万年遡って考えるということはほとんどできないわけであります。

 しかし、10の4乗年というのは、地球の歴史の中で考えれば、本当に瞬く間、目が閉じで開くまでの間、そのくらいの時間でしかないわけですね。実際、Big Bang以来の宇宙の歴史は137億年なんていうふうに見積もられております。そしてその中で太陽系の歴史は何分の1、地球の歴史はそのまた何分の1、そういうふうに短くなりますけど、要するに億年単位であるわけですね。億年単位、10億年単位から見れば、本当に1000年なんていうのは、瞬く間でしかないわけです。このように、スケールの大きいものをスケールの短いものと比較して考えるって言ったときに、私が今お話ししたような10の累乗と、別に10でなくてもいいんですけど、累乗という考え方、数学では指数関数とか指数表現と言ったりしますが、それがとても大切な考え方で、指数・対数というと、今の高等学校では、言ってみれば数学の問題のための問題を教えることに力点が置かれていますので、指数・対数の考え方の重要性というのがあまり教育されていないのではないかと心配しますが、まさにその地球史と私達の人類史、あるいは人間の生涯の歴史、それを一緒に並べて考えるということの、普通は馬鹿馬鹿しさですね。しかし、それが馬鹿馬鹿しくないものとして、精密に論ずる方法として、指数・対数というのがあるんだっていうことをちょっとお話したいと思いました。

 そして同時に、私達が現代、例えば10年スパンの中で、国境線問題が非常に重要である「国の領土の保全。」これが各国に与えられている侵し難い権利であるということを声高に主張する。そういう主張が成立する上で、実は自然国境があまり意味を持たないような世界が、現在もそして過去も、非常に身近にあった国々のこと。それを私達は忘れてはいけないという、もう一つの教訓がここにあるということです。わかりやすく言えば、ヨーロッパ諸国でありますね。ヨーロッパ諸国、フランス、ベルギー、スイス、あるいはスペイン、イタリア、でその間にはそれぞれ、ちょっとした自然国境がありますけれども、アルプス山脈であるとかピレネー山脈であるとか、そういう自然国境があるところもありますけれども、ない部分もある。それが曖昧なところもあるわけですね。ドイツ、オーストリア、あるいはポーランド、とそういう第1次第2次世界大戦の主たる戦場になったところ。それは、18世紀よりオーストリア帝国とかプロイセン帝国とかとあって、国境が頻繁に入れ替わっていた地域であります。そういう地域が、紛争から免れ難かったのは、やはり国境線の問題というのが深刻であり、隣国で起こることが自国に直ちに影響を及ぼすという緊張が日々毎日続いていた、ということではないかと思うんです。自然国境で囲まれていなかったということです。本来、国境線というのは、自然国境であれば話は簡単なのですが、そうでない場合がある。たとえ自然国境があったとしても自然国境を越えて攻め入るというような、非常に力強い軍隊があったときには、自然国境でさえも無視されるということがありますね。

 そういうわけで、実は本来は、地球という非常に限られた狭い空間、狭い空間とはいっても、それは宇宙的な規模で狭いのであって、一人一人の生きている人間にとっては、その人の生涯にとっては、ごくごく限られたところなんですね。そのごくごく限られたところを、少しでも俺の分だというふうに主張する。そういう人間の浅はかな気持ち、それが実は「領土の保全問題」というものの根底にあるのではないか。もう少し領土の問題を考えるときに、私達が20世紀の初頭、国際連盟と国際連合を作ったときのようなインターナショナリズム、国際主義の持つ本当の理想主義、現代的な理想主義、その旗を、もう少しさらに理想を高く持って掲げることができるのではないか。そのためには何をなすべきなのかということを、たまには考えてもいいんではないか、と思います。

 多くの国が、「国益」、こういう非常にはしたない言葉を平気で語る。わが国もその例外でありません。しかし、国益というのは本当に国の利益、非常に明確な言葉でありながら、実は極めて不明確な、いいかえれば、国とは何か、国の利益とは何かということを、掘り下げることなしに、勝手に作られる言葉、勝手に一人歩きする言葉、そういうものに、私達はともすれば振り回されてはいないだろうか。私達が今日考えなければいけない、例えば健康問題、国境を越えて降ってくる砂によって引き起こされる病気、それは国境を越えて、感染を拡大するウイルスと言ってもいいわけでありますが、もう地球は一つであるということを、COVID-19という最悪は、私達に示してくれたんだと思います。私達は、もはや国境線では、私達の内部を守ることができない。もう国境線というもので、自分の安全を守るという発想から、抜けなければならない、ということを最近の問題は明らかにしているように思います。

 私はあまりひどくないので、あんまり言う資格はないかもしれませんが、スギ花粉症などでも非常に大きな話題になっておりますね。私の家族もそうですが、花粉症がひどい患者にとっては非常に憂鬱な季節です。私が子供の頃、私は長野育ちでしたから、まさにスギ花粉の中に囲まれて生きていたんだと思いますけれども、そのようなものが健康に害を及ぼす。それは杉がいけないのでしょうか。杉のような裸子植物、非常に原始的な植物、受粉をすることができないので、一斉に花粉を飛ばすっていう非常に野蛮な方法ですが、その方法を使ってしか繁殖できないような植物。その繁殖によって、私達の健康が大きく歪められている。その原因は杉にあるんだという考え方は、ずいぶん話を単純化しすぎているように思うんですね。スギ花粉は国境を越えては飛ばないのかもしれませんが、私はいずれにしても、山国があるからいけないんだという考え方を、もしするならば、江戸時代以前に戻って、戦国時代、信濃の国と長野が呼ばれたころ、武蔵の国の人から見れば、「信濃の国の連中はけしからん。杉ばっかり植えていて。」そういうような発想になるのかもしれません。

 その頃の自然境界、それをもとにした様々な国の戦いの歴史を総括する。つまり全国統一をするという織田信長の野望以降、権力を一点に集中させることによって、諸国の対立っていうのがなくなったというふうに言われているわけですけども、本当の意味で、「戦争のない社会というのを作る。国境のない社会をつくる」ということは、国境によって防がれていた疫病に対しても、私達がそれに対して十分防衛体制を引くという、そういう叡智を備えていないとならないということを、このところのニュースは教えてくれているような気がする次第です。

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