長岡亮介のよもやま話96「全体主義と個人主義」

 最近、わが国の周辺の外交状況が急速に変わっている。特に安全保障という言葉をキーワードにして、そのことが語られています。中国が驚くべき経済発展の結果、その経済の一部分を軍事費に費やすだけで、巨額の軍隊の装置、装備を備えるようになってきている。同様に北朝鮮が、日本も必ずしもすぐに成功するわけではない巨大なミサイルを打ち上げることに成功している。ロシアの覇権主義については言うまでもないことであります。領土の保全というのは、いわば近代的な国家の共存を認めた第二次世界大戦後の民主主義秩序、それの基本的な理念の一つでありますが、本当に深く考えると、国というのが果たして合理的な国境であるのか。つまり境目ですね。人間を分類する類別の思想として、合理的な根拠があるのか。例えば日本人というのは、日本の国内で生まれて日本国籍を持っている人、ということですね。

 国籍には、属人主義と属地主義とがあるんだそうで、どこで生まれたというのが大事だっていうのと、どこで暮らしているというのが大事だという考え方があって、そのために二重国籍を持っているという人がいるのは、国際的に見て様々な国で、国籍の考え方が違うからですが、それは今置いておいて、そもそも国とは何か。国に対して対抗するその対照手段、コントラストなるのは何か。というと、国民、個人なんですね。個人対国家というのが一番大きな対立構図で、国家を大切にするか。国民一人一人を大切にするか。というところで、国家主義あるいは全体主義と、個人主義あるいは利己主義というのが、二つ生まれてくるわけです。私達は利己主義というのは好ましくないと思うし、そうだからといって、国家主義といって、国のために個人が犠牲にされるということの愚かさというのを、私達は骨身にしみて感じていますから、それに対する警戒心も国民一人一人は日本人は持っていると思うのですが、果たしてそういう国家主義と個人主義というふうに根本的に考えたときに、個人主義の欠点は何であり、国家主義の欠点は何であるのか。国家主義というよりは全体主義と言った方がいいと思います。

 全体主義というと日本では、その本来の意味を忘れて、ある全体主義国家というふうに言うと、個人崇拝がまかり通って、その個人崇拝のために全体を統制する。そういう嫌なイメージがすぐ出てきますが、それは本来の意味での全体主義ではなくて、個人崇拝なわけですね。そして、全体主義の名のもとに、あるいは国家の名のもとに、国民を統制するという非人間的なシステムであるわけです。20世紀は、いつの時代からか、非常に自分勝手にいわゆる西側諸国が、東側諸国に対して全体主義国家というレッテルを貼り、資本主義国家、自分たちの国家のことを資本主義と言わずに、自由主義あるいは個人主義あるいは民主主義とそういうふうに対峙するようになりましたが、どう考えてみても、全体主義の正反対は個人主義でありますね。

 民主主義は、反対は反民主主義、君主制であるとかあるいは身分制度であるとか、そういう不合理な民主主義思想に反するもの、それが民主主義の反対概念として、対置されるべきではないでしょうか。そもそも私達は、全体主義国家と民主主義国家というのを、それを対照概念としておくことに、私達自身の言語の貧困、つまり言葉に踊らされていて、言葉の中身を分析することを、その努力を怠っているという私達の毎日を突きつけられているのではないかと思います。

 ところで、「全体主義と個人主義、どちらが良いのか。」というふうに問題を立てるならば、「一人が全体のため、全体は一人のため」という全体主義的な理念と、「個人の利益を最優先する。」そういう利己主義、Selfishそれを最優先する。どちらがいいか、一概に言えませんね。全体というものは本当は見えないし、個人が暴走するときに、果たして本当に個人の暴走だけで個人の生活さえ成り立つのか、という問題もあるからです。私達の文化はある意味で、民主主義が樹立してからは、個人主義と全体主義の間で、揺れ動いてきたんだと思います。やはり、個人をてんでんバラバラに、その利益に走らせると、とんでもないことが起きる。そうだからといって全体を優先するという考え方は、それだけでは多くの問題にぶつからざるを得ない、という私達の辛い経験を通じてであります。全体主義の誤りは、しばしば全体主義というのがその指導部によって、全体の傾向が決められる。本来の意味では、民主的な選挙によって全体の意見が、議論が出尽くされて決まる、ということが民主主義のルールなのですが、そのようなことはほとんどない。いわば、例えば選挙にしても、耳に優しい言葉を連呼する。そういった人々が選挙で勝ってしまう。そういう現実がある。民主主義の持っている根本的な脆弱性があるわけですね。

 そういう中にあって、いろいろな政党が持続的な政策を訴える。そのことによって、選挙制度の持っている欠点、それを補おうとするわけですが、今の日本では、政党性というのがほとんど意味を持たないくらい、もう大衆迎合的な政党しかない。大衆迎合的でない政党はといえば、とんでもないことを言うそういう人々かしかいない。非常に厳しい状況になってきています。「全体主義というのは、民主主義の上に築く」ということの難しさがあるということですね。他方、「民主主義というのは、全体主義の反対の意味で言うときには、個人主義、個人の自由というのを、何よりも優先する」わけです。個人の自由を優先することが本当にできるか。それは、その個人一人一人が立派な人格であるということを、前提にしているわけですね。自分の利益のために、他人の不利益を顧みない。そういうような、本当に愚かな個人主義、それが跋扈したら大変なことになる。自分の利益のためには、他人を騙すことさえ顧みない。そういう人間の持っている悲しい性質、それを前面に出す人が、個人主義で全体をリードしたら、とんでもない世の中になりますね。

 ですから、今の世の中では、個人主義を制御する全体主義的な規制、それをバランスよく取るということが、一般に行われているわけです。それは先進国であればどこでもそうだと言ってもいいのですが、日本の場合には、個人に対する規制があまりにも厳しくて、日本の全体主義的な性格は、中国や旧ソ連、今のロシア以上に全体主義的ではないかとさえ、私は常々感じています。例えば、わかりやすい話で言えば学校ですが、日本では学校というのは、政府によって認可されなければなりません。その政府の認可を巡って、前々政権のときに実に破廉恥な事件が明るみに出て、全く気の毒な行政の末端の人が自らの命を絶つ、という悲劇がありました。そのことが、記憶の彼方に忘れ去られようとしています。とんでもないことですよね。行政が学校の認可に関して、極めて強い権限を行使する。そしてその行政が、政治に対して忖度するということ。そのことがいかにひどい結末を生むかということを、私達はそこで見ているわけですが、本来の意味で言えば、学校のような設立を自由字気ままに任せると、とんでもない学校が出かねないわけですね。そういう学校が出現することを阻止するために、「ある程度以上のきちっとした基礎を持っている。そういうところだけを学校として認めましょう」というのは、間違っていないと思います。

 しかしながら、そのときに、認可の基準がそのようにいい加減になされているとしたら、その認可の方式は正しいでしょうか。あるいは教員、医師、弁護士、最近では介護士から按摩さんからいろんなものに国家資格というものができています。国家資格を取っているということは、require a minimum 必要最小限を抑えているということですが、必要最小限を押さえれば、この変化の激しい知識が爆発的に増大する時代に、何十年も前に取った国家資格というのがずっと有効である、というのはおかしいのではないでしょうか。そしてまた、その国家資格によって、そのような資格を持つ人の人数を制限するというのは、「過当競争が生まれ、それによってサービスの低下が起こる」ということを防ぐための重要な知恵だと思います。アメリカのように司法制度が発達しすぎているというか普及しすぎていて、弁護士や検事、検察、それがいくらでもいるというような世の中になると、「本当の意味での裁判というのは難しくなってくる」という話は、前回、「猫を電子レンジで乾かしてはいけない」というような法律がアメリカで制定されるという馬鹿げた帰結、これは本当か嘘かわかりませんが、そういう馬鹿げた話があり、それがPL法といって、今でも大きな影響を残しているわけです。

 そういうふうに、増やし過ぎる弁護士が生む弊害というのがあると同時に、日本においては、ある意味で歯科医が増えすぎています。そして、医者が増えすぎるのも時間の問題です。しかしながら、それを制御する行政は、常に後手後手でありまして、減少が表に現れてから、急に絞るということをするわけですね。あれだけ多くの私立歯科大、歯医者さんの学校を設立しておきながら、今さら歯科医師を急速に絞ろうとして、そしてレベルの低い歯科医師のための学校では卒業生を絞る。せっかく歯科医として頑張ろうと思って努力して入った人が、卒業することさえできない。そして卒業した人の3割程度しか合格しない。そういう厳しい歯科医師試験に急遽変わってしまっているわけです。行政があまりにも後手に回っているためですね。同じことは、これから介護とか医師とかそういう問題に関しても生まれてくることは間違いありません。行政が、全体を制御するというのは大変な英知でありますが、英知ある職種には英知を持った人が付かなければならない。問題を先送りするような無責任な人間は、全体を統制する立場に立つべきでない。という当たり前の常識が、わが国では通らなくなっているという現実に、日本の皆さんも少し目覚めてほしいと私は思っています。

 私は、日本は最後の社会主義国、最後の全体主義国家であると思っています。もちろん北朝鮮のようなとんでもない国がありますけれど、日本の様々な規制の強さというのは、北朝鮮のような無茶苦茶が誰の目にも明らかなというのではなく、むちゃくちゃが目に見えない形で進行しているだけに、非常に深刻であるという事実に、気づいていただきたいということです。ずいぶん多くの分野で、ビッグバンというのが行われ、特に金融ビッグバンというのは大きく、日本の金融界は大きく再編されました。日本郵政も民営化され分割され、国鉄も分割され民営化され、それのおかげで、万年の借金体質から脱出しつつあるということはありますけれども、本当の意味で、活力ある社会というのを作るために、私達はもっともっと規制を緩めなければならない。そういう規制の緩む社会に向けて努力しなければいけないのに、最近は行政が広告宣伝会社のキャッチコピーを繰り返して、それによって政治の新しい波を作り、それに乗っかろうとしているかの様でいて、大変情けない。

 やはり、国家の百年の大計を考えて、行政を指導する。そういう政治家が育ってほしい。そしてそういう政治家を選ぶような、知的な国民であってほしいと願います。そうしないと、日本はこの間のFRB(The Federal Reserve Board)からいただいた苦言ではありませんが、本当に世界の中で、最もひどい不況をもたらす引き金となる国になりかねない。世界の安全保障を脅かす国になりかねない。そういう状況にあるということに気づいていただきたい、と願っています。

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