長岡亮介のよもやま話95「わかっているつもり」

 前回は、「わかるということが、実は思っているほど簡単でないこと。わかるためには、自分自身がわかろうと努力すること。そして、その努力は自分が変わるということを、必要としている」ということについて、お話いたしました。ところで、私達は、普段、わかっているつもりでいて、いかにわかっていないかということ。それについて、今日はつまらないお話を提供したいと思います。

 最近は日本でも非常に極端な降水、つまり雨、大雨が多くて、自然災害が多発しています。多くの人が、「水の力はすごい」って、そう言うんですね。確かに、水が圧倒的な量で、山から流れてきたり、あるいは海から押し寄せてきたり、その力は私達の想像を絶する。そういうものでありますが、水にそのような力があるのでしょうか。ちょっと考えてみればわかるのですが、水そのものが、大きなエネルギーを持っているというわけではない。水は、山に大気から水滴として降りますね。そして、それが溜まって、やがて小さな川ができ、あるいは地下水ができ、それが大河に繋がる。そういうものでありますが、なぜ水はそのように流れるのか。簡単ですね。それは地球の重力によるわけです。水の持っている質量と地球の質量、それが引き合うことによって、水がいわば下に下る。水を最終目的地は海ということになりますが、その海に向かう巨大な力、それは、大地の力と言うべきなんですね。水の力ではない。津波は、どうなるか。津波もそうです。津波は、大地が大きな変動、水底の地形に大きな変動が起き、その大地の変動の影響を水が波として受けて、それを私達が住んでいる世界に届ける。そういう行為に過ぎませんから、実は、津波のエネルギーというのも、地震のエネルギーあるいは大地のエネルギー、地球の持つ圧倒的な質量、これのエネルギーなんだと。力というものをエネルギーっていうふうに言い換えるのは、これは素朴な言い方で、力とエネルギーというのは、当然次元が違う量だということを、高等学校以上の理科を勉強した人だったらば、よく知っていると思いますが、人間は日常生活ではしばしば、エネルギーと力という言葉を混同して使いますね。その混同にはそれなりに意味があるんだと思いますけれども、一応ここではあまり甚だしい混同は避けるように、お話をしていきたいと思います。つまり、「水の力」というふうに言うけれども、それは正しくは、「大地の力」、あるいは「地球の力」と言わなければいけないということです。

 最近、外国では、山火事が多いですね。昨年は特に、オーストラリアでひどかったわけですが、そういう山火事の姿を見ると、「火の力」はすごいと言うんですけど、火が力を持っているのか。全てを焼き尽くす。そういう「火の力」って、私達はそれにひれ伏すような気持ちを持つくらい恐れていますけれども、火が力を持っているかっていうと、そうではない。大地が育った植物が、水が枯れて、植物自身が乾燥して、そこに雷のような巨大なエネルギーがあって、そこで発火する。一度発火した力が、その火がまさに燎原を広がる火のごとく広がっていくわけです。それが山火事というものの恐ろしさであります。全てを焼き尽くす。そういう「火の力」、ものすごいですね。でも火自身の力というよりは、それは大地の植物という生命体の中に残された、植物の光合成で作った、植物の言ってみれば燃える栄養、でんぷんみたいなものを主成分とする、あるいはセルロースのような食べられないものを主成分とするものでありますが、熱して火にしたときに持っているエネルギー、これはまさにエネルギーでありますが、それは巨大なものがあるわけです。

 普段は、生きている生物は、そんなに簡単には思えません。しかし、カラカラに枯れてしまうと、それは純粋な燃料のようなものに変わるわけですね。燃料の持っているエネルギーっていうのは、巨大であるわけです。そしてそのエネルギーは、太陽からの熱によって作られたものであるわけですね。地球には、大地の上に多くの植物が繁茂し、生きていますけど、その生きている植物のエネルギー、それはどこから来ているのか。それは太陽からであります。私達が古代より水を恐れ、火を恐れる。そういう文化を持ってきましたけれども、それは言ってみれば、原始宗教のようなものでありまして、本来、私達は本当に恐れなければいけないのは、地球とか、太陽とか、そういう天体の持っている巨大さでありますね。私達は、日常的に普段考えているときに、地球の巨大さとか、太陽の巨大さということに、あまり思いをはせないのではないでしょうか。そういうふうに、自分の身の回りのスケールでしか物事を考えないと、私達はともすると非常に短期的な結論に飛びついてしまいましではないか、と私は危惧いたします。

 地球の持っているエネルギー、あるいは地球の持っている巨大さ、それがどれほどのものか。私の親しくしていただいている地球物理学というか、海洋物理学というか、その方がある時におっしゃったんですが、地球は水の惑星だ。アクエリアスという名前をつけて、地球は青かったというふうに喜んでいる人が少なくありません。確かに地球は、青い水に満ちた、非常に不思議な奇跡的な惑星であります。しかし、地球の中で水はどれくらいあるかと考えたことある人は、ほんのわずかではないかと思います。よく地表のうち、水が7割、地表が3割でこういうような小学校的な発言がありますが、これは実に馬鹿げている話でありまして、それは大地の表面に過ぎません。地球というものを考えるときには、地球を一つのボールのように考えなければいけないわけです。そしてそのボールのように考えるときに、私達の暮らしている大地とか、私達がよく目にしている海というのは、地球のごく表面にしか無いわけですね。地球の水というのは地球の表面には本当にスポイトで落とした点のようにあるという程度のものであるわけです。以前、「大気というものは、ものすごくわずかなものである。地表を本当にかさぶたのように、薄く覆っている。それが大気だ」という話をしましたけれども、でも大気はそれなりの厚みがありますね。水の方も厚みがあるというふうに思っているんですが。日本海溝1万2000mもっと深いところもあるかもしれません。海は場所によっては、プレートとプレートのぶつかるところで沈み込む、そういうところはもうすごく深いわけですね。一番高いエベレストといっても8000mクラスでありますから、海の深さっていうのは、山の高さと比べて比較にならない。しかし、そのような海を全部集めて、その水を全部1ヶ所に集める。そうするとどのくらいの量になるか。そういうことを考えたことがありますか。私も考えたことはなかったんですが、実はその海洋物理学の大先生から教えていただきました。それはなんと地球がもし立方体でできているとしたらば、地球が球体ではなくて、立方体できているとすれば、海の水・川の水全部集めても、実は立方体のサイコロの目のように水があるだけであって、私達の地球がもし立方体であったならば、その立方体のヘリの方まで水で覆われることはない。大気で覆われることもない。私達は「水の惑星、これが奇跡的だ」というふうに言っているんですけれど。実はその奇跡を産んでいるのは、地球が球体である、丸いということなんですね。私達は太陽系などで見ている星がみんなほとんど球形なので、球形などは当たり前だというふうに思うかもしれませんが、岩石でできた惑星が球体であるということは、それがいかに巨大な重力で引っ張られていて、中心部がドロドロに溶けたものであるかということ。それを示唆しているわけです。私達は地球が岩盤の上にできている。そういうふうに思っていて、その岩盤の一部が、水になっている。そういうふうに思っている。海になっていると思っているかもしれませんが、そうではなくて、ほとんどがまだ熱い流体であって、その表面に薄く岩盤の層ができている。そしてその岩盤の層の上に薄く水がある。その水が蒸発することによって、大気圏の水蒸気ができ、そこで水の循環が起こっているということ。その水の循環というのは、大洋の水に比べれば遥かに少ないものでありますが、その大洋の中で、例えば海流、日本では黒潮とか親潮とか言いますが、それが常に循環している。この循環がもたらす命の恵みというのも非常に大きいわけですが、そういう循環と、地球的ないろいろな変動、それが密接に結びついているに違いないということまで、わかってきています。でも、そのことは、今回はお話はしません。

 私が今回お話したいと思ったのは、「地球は水でできている」とか、あるいは特に水の力はすごい、川の濁流とか、海の津波でそういうのを感じると、そう言いたくなる気持ちはよくわかりますが、実は水に力があるわけではなく、水を大きく動かしているのは太陽のエネルギーであり、そしてその水を地球の上で動かしているのは、地球の引力であるということ。科学的に考えれば当たり前のことですが、その当たり前のことさえ私達の頭からしばしば抜けているということを、思い出そうではないかというお話でした。

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