長岡亮介のよもやま話93「人間の持つ素晴らしさ」

 前回は、私達人間が持っている否定的な側面、みっともない側面、できたらそうでありたくない、そういう側面を人間は持っているんだということを、認めなければいけない。少なくとも、それを無視して完全に顔を背けるということはまずいだろう、というお話をいたしました。人間の持っている醜い側面は、前回お話の中心であった「恨み」、それが最も典型的なものでありますけれども、それをもう少し軽い形で表現した「妬み」とか、「嫉み」、「ヤキモチ」、そういう人間の感情も、ある意味で「恨み」というような大きなものに発達していく、そういう種になるものですね。人間が持っている「嫉妬」という感情は、決して「大人になっていろいろなことがわかってくると、体に身についてくる」ということではなくて、実は赤ちゃんの頃からそうなんですね。ある意味で、赤ちゃんは生まれたときから、生存競争にさらされていますから、その生存競争の中で、少しでも快適に過ごすために、他のものを排除してでも、自分の快適な環境を用意したい。

 そういうふうに思うのは、実は人間だけではなくて、動物はもちろんのこと、植物なんかでさえそうなんですね。植物を見ていると、よくみんな気楽に癒されるとか、緑が素晴らしいとかっていうふうに言うんですが、その植物の緑の本質は葉緑体というところにあるんだと思いますが、その葉緑体というのは植物の生命源、エネルギーを生み出す源でありまして、その葉緑体をフルに活用するために、植物も生まれたその瞬間から、熾烈な競争にさらされている。人間から見るとちょっとはしたないじゃないかと思うくらい、自分の利益のために、他の植物の生育を犠牲にする。そういうようなところもあります。植物もみんな本当に必死に生きているんだなと思って。感動します。

 その必死に生きるというときに、ときに自分の都合を優先するというのが、生存競争というものを不思議な原理ですね。そしてそれを不思議というふうに言ったのは、生存競争自身は、生存競争というものが公理として、これが大前提になるならば、その自明の結果として、その生存競争のための熾烈な戦いであることは不思議でないのですけれど、人間に関して言えば、そういう生存競争が人間の全てであるかというと、決してそうではない。「人間は自分が利益を得るために、人の利益を犠牲にしても良い」と主張する人はいますけれども、本当にそのように考えて、そのように行動することがその人の幸せに繋がっているのかということを考えると、必ずしもそうでないということを発見いたします。人間は、本当に不思議なことに、通俗的な言い方をすれば、1人では生きていけない。社会的な繋がりの中で、自分の儚い人生にそれでも自分なりの生きがいを見つけて、生きていく。そういう存在なんですね。これは、他の生物、他の動物とか植物何かとちょっと違うところのように思います。

 人間は、嫉妬のような感情があり、それは自分の生存を守るためだと、最初にお話ししましたけれども、私達はやがて、「自分の生存を守るために、他者の生存も守らなければいけない」という人間でなければわからないような論理に目覚めていくわけです。これがすごく不思議なことですね。それは人に教えられて、道徳として植え付けられるというものではなく、自分の心の内に眠っている。そして、ある時に何らかのことをきっかけとして、その眠っていたものが呼び覚まされる。私達は、妬みや嫉みや嫉妬、そういう中で生きてきた自分、それが恥ずかしくなり、そういうものから自由になった自分がどれほど幸せであるかということを、感ずることができるようになる。これはほとんど奇跡と言うべきことでありますけれども、実は、ありえない奇跡と思われていることが、ごく日常的な生活の周りに頻繁に生起している。このことは本当に不思議なことだと言わざるをえない、と私は思っています。

 ある時には自分の生命さえ人のために犠牲にするということが、その人にとっての最高の幸せと結合することがあるということ。これは、人間の持っている素晴らしい可能性ですね。もちろん、そういう可能性に私達が毎日毎日出会っている、あるいは毎日毎日それを実践しているというわけではないと思います。普段は結構世知辛く、あるいはせこい生き方を自ら進んでやっている。そういう面もありますけど、実は人間にはそれだけでない可能性が眠っている、ということについてお話いたしました。

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