長岡亮介のよもやま話91「五感(続き)」

 前回、「物を見るとか、聞くとか、匂いを嗅ぐとか、味を味わうとか、あるいは、はたまた物事を理解するということが、神経系の非常に複雑なシステムによってなされている」というような説明で、わかった気になってしまうことの過ちについてお話しいたしました。繰り返すと、「脳で考える。耳を使って聞く。目を使ってみる。」こういう道具としての感覚器官の重要性はいうまでもありませんが、私達が「音を聞き、物を見、あるいは匂いを嗅ぎ、味を味わう。そして物事を理解する。あるいは認識する」という行為は、そのような感覚器官の単なる結果ではないということです。

 それを最もわかりやすくする例として、「見る」という言葉を取り上げたいと思うんですが、私達は目を開いていれば、視力が普通の人であれば、風景が見える。誰でも同じような風景が見えている。そういうふうに思いがちですね。あるいは、視野を限って顕微鏡で見る。顕微鏡の中の視界ってのは非常に限られていますから、誰でも同じように見えるはずだ。そういうふうに、思うのではないでしょうか。典型的なのは、X線あるいは、CT、MRI、といった画像。体の内部まで見えるそういう画像を見れば、誰でもがそこに同じように病理的な部分を発見し、そしてそれに対する警鐘が鳴らせる。そういうふうに、思っているのではないかと思うのですが、私から見ると、「見る」ということの中には、極めて高い能動性があって、そこにそれがあると思うからこそ見えてくるということ。その人間の持つ能動的な能力。それはある意味で、名医の条件というふうに言ってもいいわけですが、平凡な風景の中に重要な兆候を決して見過ごさない。そういう特別に訓練した人だけが身につけている能力、それがあるのではないかということです。

 わかりやすい例を一つ挙げたいのですが、前にお話したように、私は「赤色色弱」といういわば身体的な障害を持っておりまして、そのために、緑の中に本当に緑の中に真っ赤な実をつけているというような植物の風景を見ると、多くの人が何て美しい光景だというふうに感動する。それほど鮮やかな色の対比。その中にその赤い実がなっているっていうことがわからないんですね。赤のことはわかっていないのかっていうとそんなことはない。私は深紅の美しさというのを知っています。そして、新緑の緑の美しさもよくわかっています。そしてその違いもわかっている。なのに、新緑の中に真っ赤な実がついている。それがわからないんですね。ところが面白いことに、ほらここに赤い実がついているじゃない、そういうふうに言われて、その赤い実がそこになっているということがわかる。今度はその実が真っ赤で綺麗に熟れているということがわかってくる。自分で本当に不思議なことなんですが、形がわかることによって色もわかってくる。逆にそこに赤い実があるということを理解しないで、漫然と見ると、緑の中に赤が入り混じっていて、それが際立った特徴に見えないんですね。ですから、見過ごしてしまう。

 私は、赤色色弱ということで赤と緑の区別がつきづらいというだけなのですが、おそらく、多くの人は、物事を見ていると言っても、本当に表層を見ているだけで、それが見えている気持ちになっているだけで、事柄の本質を見ていないのではないか。それくらい私達が物を見るということは、能動的なでありまして、だからこそ本当に見て、それを同定することができると、「わかる」という意味になるわけですね。“Oh I see”という英語のよくある表現がありますが、それは決して平凡な、単に私が見えているっていうことではなくて、それがわかったということの表現だと思うんですね。見えることとわかることというのが同じであるっていうふうに、英語の“Seeing is believing”とかそういう言葉がありますけれど、そのような「百聞は一見に如かず」という表現は、かなり平凡というか、言葉の本質をまだまだ見抜いていない。なんというか、通俗的なレベルの認識のことについて喋っているだけ。そういう印象があります。

 「本当に見る」ということは、実は難しいことなんですね。多くの放射線のろくでもない医者が、せっかく重要なCT画像を撮りながら、その画像の中にある病変に気づかず、所見無しっていうふうにして、せっかくの情報を活用できていない、ということはよくある話でありまして、そういうことがないように、日本の厚労省も専門医の養成制度、いろいろやっていますが、結局のところ、本当に時間をかけて誠実にそこに何かあるに違いない。そういうふうに思って時間をかけてみる、という訓練を自らに課している人だけが見えるというものであって、単にある試験に合格してパスしていれば、そういう人は必ず見えというものではない。後でまたお話したいと思いますが、国家資格というのは言ってみれば、最小限の資格であって、その資格を通っている人がみんなわかるわけではない、という厳しい現実。私達は物事を本当に洞察できるようになるためには、大変な修行と努力を必要として、その努力に耐え抜いた人たちだけが、本当の意味で見ることができるのだということ。その人間の持っている能力の不思議に、私達はもっと目を向ける必要があるかと思います。

 食うや食われるかという厳しい生存競争の中に生きている動物たちは、五感を研ぎ澄まして、自分の身に迫る危険を察知するという能力に、私達よりも長けている。そういうふうに言いますが、そのように五感を研ぎ澄ましている動物でさえ、弱肉強食のロジックの中で、犠牲になるということは少なくありません。私達はどんなに感性を鋭くしていても、抜けがあるわけです。私達人間は、ある意味でバランスよく五感が発達している分だけ、かえって動物たちよりも感性が鈍っている、というところがあるでしょうね。これに関連して面白い話を一つ。私は長野で育ちましたから、リンゴは大好きです。リングにも、美味しいリンゴと美味しくないリンゴっていろいろあるんですね。外見から見てみるからに美味しそうというリンゴももちろんあります。しかしながら、外見は同じようでいても、味が違うというリンゴがあることは、長野の子どもであれば誰でも知っていることなんですが、そういう難しい選択を迫られたときに、子どもが選ぶ方法は何かご存知でしょうか。それは、虫に食われているリンゴは絶対に美味しい、ということです。虫は自分の命をかけて生存をかけて、自分の成長のために必要なリンゴに、一生懸命穴を開けて食べるわけですね。虫は決してお金を払ってリンゴを食べるわけではない。見栄を張ってリンゴを自分の上司に献上するというのではない。本当に自分の生存のために最適なリングを選ぶわけです。つまり、リンゴ選びのプロなんですね。このプロの意見というのは傾聴に値していて、私達子どもは、虫が食っているリンゴは必ず美味しい。そういうふうに言っていました。虫が食っている人は当然、芯の方まで穴が開いていて中に虫がいますから、それごと食べるというわけではありません。それを上手に割って、虫を排除して、残りをいただくわけです。それは必ず美味しいリンゴなんですね。やはりお金に騙されてない虫たちは、本当に素晴らしいリンゴの選択者であるなと思います。私達は姿、形、お金、あるいはブランドで、そういうものについ騙されてしまう。そういう野生の感性を失ってしまっている。そういうよく言えば文明化された、悪く言えば野生の感性を失った弱い種であると思います。その弱点を補うために、私達は虫の叡智を利用することさえあったという昔話を、付け加えさせていただきました。

 でも私達は、優れた五感に恵まれた、そういう動物である。それは間違いないのですが、それでもその五感を研ぎ澄まして、全ての情報をきちっと見る、ということは、大変に難しいということですね。人間である以上、見過ごしてしまうということは頻繁にあるわけです。ですからこそ、何十年にもわたる病歴情報というのを、電子的に保存して、人工知能がその異変に気付く。そして異変を医者に対して警告する、というようなシステムの登場が、待たれているということです。それでいても、本当の名医に敵うわけではありません。私達が、身の回りにいつもいるとは限りませんが、そういう素晴らしい名医に出会ったときには、その人のことを尊敬し、大切にし、その人たちがいつまでもその能力を発揮してくれるように、祈りましょう。

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