長岡亮介のよもやま話89「頭で考える」

 私達は、あまり事柄を理解せずに、言葉を使って表現しているということが少なくない。それは数学においてもそうである、というお話をしてみたいと思います。「数学では理解することがとても大切だ」と、私もしばしば学生諸君に言います。理解しないで、覚えていても、それは単なる「記憶」であって、いくら記憶をしても、それはコンピューターのように意味もなく、それは人間にとって意味のあることはあるのですが、計算しているに過ぎない。人間らしく考えなければいけない。「人間らしく理解しなければならない」と言いますが、「理解するとはそもそもどういうことか」ということは、あまり問うことがないですね。そのことを問おうとすると、実は難しい壁にぶつかります。

 「理解とは何か」ということを考えるよりも、「無理解とは何か」、あるいは「誤解とは何か。」つまり、否定型を通じて考えた方が、その問題にアプローチすることができるということを、示唆しています。正々堂々と理解とは何かというふうに問おうとすると、それが難しいということですね。そして、そのことを通じて、つまり、誤解とか無理解とかということ、これは比較的わかりやすい言葉で語れるので、それの否定として、理解があるんだろうというふうに考えることができるわけです。従って、誤解とは何か、無理解とは何かということについて語るときは、そのこと自身が目的ではなくて、そのことを通じて理解とは何かということを逆に明らかにするということですね。通俗的な言い方をすれば、反面教師を通して本当の教師のあるべき姿、あるいは教師の果たすべき役割というのを、浮かび上がらせて、理解することができるという間接的な方法です。こういう否定を通じて、あるいは反対を通じて、それを明らかにすることを通じて、元のものを明らかにするということは、数学的にも哲学的にも自然科学的にもいろんな意味で重要な方法の一つであると私は考えております。

 ところで、今回はその難しい問題に入る前に、理解とは何かということをあまり考えてない人が、割と気楽に使う言葉で、「しっかり頭で考えろ」と、そういうふうに言ってしまっていることです。私もそういう言葉使いを安易にしてしまうんではないかと反省することも多いのですけれど、「頭で考える」ということ、よく平気で言いますけど、頭で考えるといっても、それは金づちで釘を打つとか、あるいはマッチで火をするとか、そういうような手段とか、行為のための道具とかというものとして、「頭」というのを考えることが果たしてできるでしょうか。もちろん、首から頭が飛んだとき私達は死にますから、もはや考えることはできなくなるでしょう。まさに頭がついてないと考えることができない。それは確かです。耳で聞けとか、舌で味わえとか、鼻でニオイを嗅げとか、そういうことを言いますけれども、耳にしても鼻にしても口の舌にしても、それは一種の感覚器官であって、その感覚器官そのものが、音を聞き、あるいは味を味わい、匂いを嗅ぎ分けているというわけではない。それは言ってみれば、センサーなわけですね。そのセンサーがどのように巧妙にそのセンシング機能を果たしているかということは、様々な研究によって、次第に明らかになりつつありますけれども、本当のところは、実は何もわからない。表面的なことがわかっただけであって、実は本当にはわかっていないというのが、現実の姿ではないかと私は思っているのですが、多くの人がこのことに気づいてないのではないかと思い、その話を今日中心に取り上げてみたいと思いました。

 それは、私達が例えば最も簡単な場合として、「音を聞く。」それは鼓膜の振動がする。鼓膜の振動をツチ骨とか、キヌタ骨とか、そういうものを通じて、カタツムリ管・蝸牛管に伝えると、その蝸牛管の中の水の振動をカタツムリ管の中にある繊毛の微妙な動きを通じて、私達は音波という空気の波を感知し、それを脳に伝える。こういうような言い方ができています。しかし、それは「音を聞く」ということに対する、言ってみれば、もっとも基本的な初歩的なアプローチの部分がわかったというだけで、あえて言えば、太鼓を叩くと、そこに空気の振動が起きて音が鳴るとか、あるいはバイオリンを弾くと、弦が振動し、その振動する弦に合わせて、バイオリンという楽器装置そのものが振動し、あるいは他の弦も微妙に振動し、得も言われぬ音が出る。というようなことがわかったということであって、バイオリンの音の本質、その音によって私達が受ける感動、これがわかったことでは全然ありませんね。音を聞いた時の感動と音そのものは違うじゃないか、と問題をすり替えているというふうにおっしゃる人がいるかもしれませんが、人間音を聞くというときに、実は単なる空気振動、それを感じているだけではないんだっていうことをお話したいわけです。

 私達が、音を聞くということ。例えば雑音。心がザワザワする、そういう音を聞くという音と、心が静かになる音を聞く、慰められる音を聞く。全然違うわけですね。そのことは全然違うということを私達は知っているのに、その二つの音を、言ってみれば鼓膜の振動を脳にいかに伝えるかというメカニズム、それが理解するによって置き換えてしまった、わかった気になってしまっている。この誤りあるいは奢りに対して、私は警鐘を発したいのです。私達は確かに、頭を使って考える。耳を使って聞く。目を使って物を見る。鼻を使ってニオイを嗅ぐ。舌を使って味を知る。それは確かでありますけれども、私達が感じるところの音、感じるところの香り、感じるところの味、感じるところの美しい光景、そして、考えることの中身。これは、決して先ほどのような、物理学的な、あるいは生理学的な構造を、微細に理解すればそれでわかるわけでは決してない、ということです。「それは脳内信号の、信号の伝達、それがわかることによって解明される」というふうに楽観的に考えるのも、本質的に間違っていると、私は考えています。

 私自身が考え続けなければならないことは、私達の日常的な経験の中にさえいっぱいあって、例えば私達が二つの手、両手を、自分の右手と左手を握り合う。握り合っているときに、握り合っていることを確実に私達は感じていますが、それは握られている左手の触覚を感じているのか、握っている右手の触覚を感じているのか、非常に難しいということが直ちにわかりますね。あるいは、私達がマイクロフォンで集音した結果を聞くと、非常に不愉快で雑音ばかりが目立つのに、その雑音の中で人と人とが会話をしているときには、雑音を取り除いて、一種のノイズキャンセラーっていうのを私達自身が無自覚にしていて、雑音の中で聞きたい声を聞き分ける、ということをやっている。誠に不思議な人間の能力と言わなければなりませんが、その能力によって、どのようなメカニズムでそれがなされているか、それはイヤフォンノイズキャンセラーのようなものとは全然違うものであるわけです。私達は何物かを選択的に聞き、何物かを選択的に見ている。私達は見ようとしているから見ている。聞こうとしているから聞こえている。同様に嗅ごうとしているから嗅げる。味わおうとしているから味わえる。

 それと同じように、わかろうとしているからこそわかる。こういうふうに私達自身の持っている能動的な認識作用、これを私達は最近いろいろな科学の発達によって、かえって見えなくなってしまっているのではないか、と私は時々心配になります。私達は自分たちで見ようとしない限り見ることができないんだということ。わかろうとしない限り、わかることはないんだということ。「思い知れ」という言葉がありますけれども、思い知るということだって、本当には自ら思い知ろうと思わない限りは、思い知ることはできないんだっていうこと。そういう人間の持っている知覚、あるいは認識の持っている不思議さの前に、まず私達が驚嘆すべきだと。それを驚異的なものとして受け入れるっていうことから、私達の不思議の世界の探検が始まるんだということを強調して、お話を閉めたいと思います。

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