長岡亮介のよもやま話88「外国語教育」

 今日は最近の外国語教育に関して、やたらに元気よく言われる言葉の持つ背景に、少し迫ってみたいと思います。最近の日本の英語教育では、「そんな言い方はもうアメリカではしない」というような類の議論が実に盛んです。私が読んでちょっとびっくりした、論文と言っていいのでしょうか、一応そのような学術的な文章を寄せたものに書かれたもののようですが、私はその一部分だけを見て判断しているわけですから、かなり偏った意見でありますけれども、何か根本的に間違っているという気がするんです。根本的に間違っているのはどういうことかっていうと、一つの事例を極端に大きく解釈して、一般論として、それを使っているということです。

 現在のこれまでの英語教育を批判するのに、例えば、“Do you have a watch? ”という英語を聞いて、“Yes,I do”とか“No,I don’t”というような答えをする。これを日本の英語教育が教えてきた。一般動詞とかBe動詞の違いとかそういうような「文法的な違い」に関連して、そういう言い方をしてきた。私の時代には助動詞というものの使いかたなんかについても、そのようなもので訓練を受けたと思います。ところが、そんなことは英語では使わないという議論があるんですね。「今時計持っている?」って聞いたら、時計持っているかどうかを聞いてんじゃなくて、「今何時?」っていうことを聞いている。そういうことだから、It’s ten twentyとか、もっと正式に言えば、twenty past tenとかっていう、そういう答えをしなければいけない。こういう決まりきった英語教育を出して、意味を持った英語教育をしなければいけないという意見のようなんです。

 私は、それはそれとして理解できないことはないのですけれど、そのようなことは、「実際にはアメリカやイギリスでは使っていないから」というようなことを根拠にするんだとすれば、実に馬鹿げたことではないかと思います。日常生活において何が一番頻繁に出てくるか。frequencyそれを語学教育の根本に据えるということそのものが、発想がおかしいと思うんですね。そんなことを言えば、数学だって、「1+1が2である。」こんなことやる大人はいません。「1+1が2である」ということは、しかしながら数の計算の出発点であって、これがわかるということの方が奇跡的だと私は思っているんですね。ですから、「1+1=2」ということをしっかりと学習する小学校一年生の勉強というのは、いかにしてそのような奇跡が起こるのかっていうことを考えると、小学校の先生たちのご尽力は大変なもんであるなと私は思うのですが。「1+1が2である、こんなことは数学では大切でない。そんなものは数学では二度と出てこない。だからそれをやる必要はないんだ」という議論を展開している人がいるとすれば、これは全く馬鹿げたことで、議論の材料としてあげることさえ恥ずかしいことではないでしょうか。

 同様に、私は英語教育に関連して、英語ではMy name is Nagaokaっていう言い方、これはしない。I’m Nagaokaこういうふうに言うんだ。こういう意見を聞いたことがあります。確かに私も外国に行ったときに、My name isってそういうふうな言い方をしたことはほとんどありません。実際に初めて会った人と挨拶するときに、How do you do?の後は、もう本当に簡単にRyosuke、私の名前、ファーストネームですけど、それだけですね。向こうも自分のファーストネームを言う。場合によってはファミリーネームを呼んで、でも、ファーストネームで呼んでくれっていうようなことを付け足す。これは一般的だと思います。でも、もし、スピーチで、I’m Ryosukeって言ったら、しらけてしまうんではないでしょうか。一般的なインテリジェントな聴衆、一般的な人々、しかし知的な人々を前にして、やはり私が最初に初対面で挨拶するときには、自己紹介からスタートするとして、そのときには、My name isという言い方をするのがいいと思うんです。それを、そんなことは日常的には使わないから、という理由で排除するっていうのは、実に馬鹿げたことで、今の英語教育が言ってみれば、私に言わせれば、ファーストフードレストランで使われるような日常的な会話、それができることを学校教育の目標としている。全くおかしいことだと思うんです。私は学校教育で教えることは、ファストフードレストランで使える英語をマスターすることではなくて、ファーストフードレストランに行って、そこの場にふさわしくない知的な会話をして、ファーストフードレストランの店員から、なんだこいつはっていうふうに思われることの方が大切じゃないか、と思うのですが、どうもそういうことが根本的なことがわかっていないと思うんですね。

 要するに、「日常的に交わされる会話、それが標準である」っていうふうに思っていることそのものが、まず間違っている。つまり、「標準的な日常」っていうのを一つのものとして、固定して、それが模範であるというふうな発想。そのものが間違っている。このことをわかりやすく言えば、日本語の場合は典型的でありまして、日本語の日常的に交わされる言葉は、ほとんど間違っているっていうふうに言うべきではないでしょうか。一昔前流行った「私って、そういう何とかみたいな」とか、訳のわかんない表現。「・・みたい」という言葉で、何を表現しているのか、どのような類似性を表現しているのか、意味がわからない。何でも「・・みたい」っていうのをつける。そんな日本語は、いかに流通しているとは言っても、正しい日本語ではありませんね。日本語というのは非常に特殊な言語で、語順がどうでもいいんですね。「わたし、あなたのこと好き」と言っても、「わたし好き、あなたのこと」って言っても、「あなたのこと好きよ、わたし」って言っても、全く問題ないわけです。日本語ではいわゆる助詞っていう「わたしは」とか、「あなたのことが」とかっていうのが大事で、「が」とか「は」っていうのの使い方の難しさは、日本人だったら誰でも知っているところです。片方は主語を表す格助詞、片方は区別を表す副助詞、何かそういう文法的なことを習った気がするんですが、もう私もすっかり忘れてしまいました。そんなことを忘れても日本語を使うことができる。というのは日本人に生まれて、日本語に親しんできたことの結果であって、外国人がこれを理解するのはとても難しいことだと思います。生成文法という非常に重要な言語論のキーワードがありますけれども、言ってみれば、生得的にそういう生成文法の規則を人間が体得することは、本当にすごいことですね。

 それに対して英語には助詞に相当する言葉がないわけです。ですから、英語では語順が非常に重要でありまして、これは英語に限りません。ドイツ語でもフランスでも多少あります。それが英語の方が深刻なのは、英語は格変化というのをあまりしない言葉だからなんですね。英語では代名詞こそ、例えばIとmeっていうのは違うというのはありますけど、英語だったらばYouっていうのは、主格でも目的格でもYouなんですね。乱暴な言語でありますけれども、そういうふうに単純化された言語では、本当に語順が決定的に大事なわけです。そういう語順が重要である言語について、語順はどうでもいいという言語の中に生きている日本人に英語を教えるならば、文法は欠かせないのに、「今までは中学高校6年間も英語を勉強しても喋れるようにならない。おかしいじゃないか」というような議論が平気で一般的でした。

 確かにフィリピンでは、学校に行ってもいない子どもたち、算数ができないような子どもたちでさえ英語をペラペラ喋る。そういう風景を比較すると、日本人の英語の会話ベタ、これが際立って見えることはわかりますけれど、私に言わせれば、日本人が英会話が苦手というには二つの理由があって、それは英会話に触れる機会がすごく少ない。自分で喋らなければいけないという場面に遭遇している人が少ない。それがまず第一の理由。第二の理由は、一番最初に申し上げたように、日常会話として私達が使うときに、言語を構成する単語の順序を自由にして良いといういい加減な日本語と、それを順序正しく書かなければ、文章語としては通用しないという書き言葉としての日本語の難しさの間に、日本語は最も大きな乖離がある言語の一つだと思うんです。喋れる日本人は多いですけども、書き言葉が書ける日本人は極めて少ないでしょう。最近では、テレビなどの大衆ジャーナリズムでは、そこに登場している人の日本語が書き言葉としてはとても正しいとは言えない、というレベルの言葉が飛び交っているのはとても残念に思いますけれども、やはり日本語は話し言葉がすごく簡単なんです。外国の方が日本にちょっと来て、日本語を片言喋る。そうすると日本人は素晴らしいですねっていうふうに、それを激賛する。あるいは激賞する。でも、日本語は、喋るのが楽だっていうことについては、あまりわかっていない。日本語の発音は、かなり自由があって、正しい日本語の発音と、間違った日本語の発音、多少違っていても許されるわけですね。私のように、年寄りから見ると、若い人の発音は日本語として正しくないと思うことが少なくありません。私の名前は「長岡」って言いますけど、Nagaokaっていう言葉。これは、外国人にはとても発音が難しい言葉だと思います。Nagaokaであったとしても難しいと思いますgaっていう言葉を持っている国民は決して多くはない。せいぜい多いのはNagyaokaとこういうふうに発音する人、これは多いですね。これは比較的簡単なわけです。日本語は発音も、決して一般的にはない。でも、NagyaokaでもNagaokaでも、Nagaoka Nagaoka Nagaokaそういう区別を私達は外国人に要求しなくても、意味を理解しあえる。そういう言葉の中に生きています。

 こういう日本語の特性を踏まえて、外国語を勉強しなければいけない。そのためには文法を欠かすことができないと思うのですが、アメリカでは文法なんか教えていない。そりゃそうですよね。日本だって、日本語文法を理解して、日本語を喋っている人はほとんどいない。もっとひどいのは、アメリカでは筆記体なんか使ってない。ほとんどがブロック体である。だから筆記体は教えなくていい。最近の中学生は筆記体が書けないそうです。しかし、筆記体を教えないということが、英単語をマスターする、スペリングをマスターする上でハンディキャップになるというだけではなく、例えば数学の記号でlogとかsinっていうのはあるわけですけど、cosとかtanってあるんですけど、筆記体を使わないでそれを表現することがいかに絶望的で、その人の生涯にわたって数学を理解するのはハンディキャップになる、とわかっている英語教育の人はいるのでしょうか。私は甚だ不安に思います。教育に携わる者は、全体を見渡す知性が必要であるのに、アメリカではこうだ、というようなことを標準にして語るということは、馬鹿げていると私は思います。

 同様に、「正確な日本語が使えていない」ということを指摘すると、日本人が日本人同士で言葉の上でコミュニケーション上、誤解があったということが判明したときに、「日本語は難しいね」っていう言い方をする人が少なくありません。その人は日本語が難しいということを本当に理解しているんではなくて、日本語を正しく使えない自分を発見しているだけなんです。日本語は正しく使えば、決して誤解しやすい言語ではなく、とても優れた言語であると思います。私達日本語はいろいろな変遷を経て、こんにちに至っていますけれども、こんにちの綺麗な日本語をきちっと保存するというだけじゃなくて、それを使いこなしていく。そういう人々をきちっと国民の中に維持することが、私としては「世界に通用する日本人」、それを作るためにとても大切なことだと思います。そして、正しい日本語が喋れる人は正しい英語が喋れるだけじゃない。正しいフランス語も、正しいドイツ語も、正しいロシア語も、正しいウクライナ語も、正しい中国語も、正しいベトナム語も、要するにグローバルなコミュニケーションの世界において、堂々と喋っていく、と思います。

 私がこれを思うのは、私は具体的な事例として一つ知っているのは、新渡戸稲造という、お札になったほど有名な方ですが、新渡戸稲造の「武士道」という本があります。新渡戸稲造は、最初は「武士道」という本を英語で出版しているんですね。彼は外交の世界で生きた人で、日本人がいかに高い精神性を持っているかということをアピールするために、「武士道」という本を書いた。その中身を私達が読むと、日本人としての誇らしい側面をその中に見て誇らしく思いますが、本当にその誇らしい先祖がいたかどうか、あるいは、その先祖たちがそのような美意識の中で本当に生きていたかどうか。江戸時代が果たしてそのような時代であったのか。ということを批判的に考えると、新渡戸稲造先生が書いたものというのは、いささか日本を美化しすぎている。そしてしかもそれを偏った美化をしているんではないか、というふうに思うこともありますけれども、しかし、明治の初期に、堂々と外国人に対して、「日本人とはどういう国民であるか」ということを、英語で書いている。その英語が大変立派で、新渡戸先生の功績というのは、日本人の国際的なPresence、それを国際的な人々に訴えるに大きな役割を果たしたことは疑いない、と私は信じています。しかし、私は水戸部先生の本を日本語と英語と両方で読んだんですが、その中に、明らかに間違っている英語を1ヶ所見つけました。私のような、英語は特に不得意な人間であっても見つけられるような、文法ミス。これは私が単にミスをしたのかどうかということをちょっと心配だったので、東大の英語を教えている先生に、「これは間違っていると思うけれども、いかがであるか」と質問したら、「これは間違っている」というお墨付きをいただきました。新渡戸先生のような方が書く英語でさえ間違っている。それであったとしても、やはりその格式高い、格調高いと言ったらいいでしょうか、その英語の文章は、国際的な舞台において、日本人の精神、それをアピールするのに大変に影響力があったということ。そんな英語を使える日本人がいたわけではないし、新渡戸先生が描いたような武士道に生きる日本人がいたわけでは決してなかった。鹿鳴館のような屈辱的な文化中で、はしゃいでいた日本人の方が多かった、ということを私達は忘れてはいけないと思います。

 でも、正しい日本語を喋ることと同様に、正しい英語を喋ることも大切ですが、そのときに間違っていたとしても、それをきちっとした言葉で喋るということが、すごく大切であって、日本語って難しいよねというような曖昧な理解、あるいは曖昧な表現でお互いに理解し合っていると思って、団結心だけをあるいは村社会の中での仲良しクラブを持ち込むようでは、私は国際的に通用する人間にはならないんじゃないか、というふうに思います。私達は日本語の特殊性、それを理解しつつ、外国の言葉を理解し、そして理解することは容易でありませんが、そういう努力を通じて、外国の文化を理解すると同時に、実は日本文化を理解する。外国語の理解を通じて日本語を理解する。そして日本語の理解を通じて外国語の理解をする。それは容易ならぬ道でありますけれども、そういうことが本当に大切な外国語教育なのに、今時の外国語教育は、まるで京都の運転手が京都のガイドをするための英語、それを即席栽培する。そうすれば良いんだっていうふうに思っているような気がして、とても悲しく思います。日本人が外国でビジネスマンとして、あるいはアカデミシャンとして、あるいは国際ボランティアとして活躍しなければいけないという時代。日本人に求められているグローバルコミュニケーションの能力というのは、決していい加減な言葉で、ニタニタ笑ってYes Yesっていうふうに繰り返す、そういう英語ではない、と私自身は確信しています。皆さんのご経験と照らし合わせて、皆さんが反論があるならば、ぜひ反論を、批判的思索を通じて構築していただくということは、きっと皆さん自身のためにもなると私は考えています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました