長岡亮介のよもやま話87「正義の味方」

 いろいろと私が日頃考えていること、思いついたことを、日記のように綴っているこのメッセージ集を、お読みくださり、あるいはお聴きくださり、大変ありがとうございます。なぜ私がありがとうと申し上げるかというと、これは私が皆さんを含め、次の世代に対して残したいメッセージであるからです。私はもちろん、世の中のことに関して、決して精通しているわけでも、その世の中のことを取り仕切っている立場にいるわけでもありません。その私が、しかし、この世の中の普通の人の一人として、今の人々の流れに対し、やはりそれはまずいのではないか、と伝えておきたい事柄、それを書き綴る代わりに、話し続けているわけです。それは私が老人性の眼病、加齢性黄斑変性という病気を患って、視力が著しく低下しているためですけれど、その私の都合に合わせて、こういう形式で、メッセージを残させていただいているわけです。

 今回お話したいと思うのは、私自身の子供のころを振り返っての反省でもありますが、「正義の味方である」ということに対して、警戒心を持つべきであるというお話です。私のこの「話し綴り」、書き綴りではないわけですから仮に「話し綴り」と言わせていただくと、「日暮し硯に向かいて、心に思いゆくよしなしごと」をお話しているわけですが、まさに「あやしうこそものぐるほしけれ」という気持ちになってきます。そういう気持ちの中で、皆さんにお伝えしたいと思うのは、「正義の味方」という言葉の持っている胡散臭さについて、批判的な精神でもって、それに立ち向かっていってほしいという願いです。私自身は子供の頃は、いわゆる「勧善懲悪もの」で、正義の味方が悪を懲らしめるというストーリーは大好きでありました。自分が正義の味方の側にいるというふうに安易に思い込んでいたという愚かさ、幼稚さを猛烈に反省しなければなりませんけれども、それが小学校に入る前の子供だったらともかく、小学校6年生になるくらいまでまだ正義の味方、勧善懲悪ものが好きだったというのは、ちょっと精神的な発達が遅かったんだと、言わざるを得ないと思うんです。

 しかしその精神発達の遅い私から見ても、今の人々は、あまりにも正義の味方に対して弱すぎるのではないか。正義の味方というものに対して、無警戒であり過ぎるのではないかと、そんな気がいたします。世の中で、正義の側に立っている振りをしている人たちは、いっぱいいるわけで。本当の正義の味方というのは、孤独な戦いを強いられるもので、決して報いられることのないであろう、必死の努力を継続している。そういう真の意味での正義を貫いている人が私の知人にもおりますが、そういう「正義を貫く」ということは、いろんな意味で周りと摩擦を引き起こし、難しいことも少なくない。そういう現代の世の中であるわけです。正義の味方であり続けるならばどれほど楽だろう、というふうに思ってしまう場面も私自身も何回も直面しています。というより、日々直面していると言うべきかもしれません。正義を貫くことが難しい、そういう世の中であるということです。そうだからといって、私が悪の立場に立つというわけではもちろんありません。

 この世の中の不合理を利用して、自分の利益を誘導する。自分はできるだけ汗を流すことなく、努力することなく、うまい結果だけにありつこうとする。そういう小賢しい人間に会うと、そういう人間のために、本当に「天誅」というふうな言葉で言ってやりたくなるような場面もあります。しかし、そういう場面で「天誅」という言葉を、私が発するかというと、発しないことも少なくありません。言っても仕方がないという面もありますが、そういう「天誅」と言ってやりたくなるような人間も、それぞれ悲しい背景を抱えていて、その人生の哀しさゆえに、そういう小賢しさに走らざるを得ない。そういう世の中であるということ。それを考えると、ついつい情けをかけてやらなければと思うわけですね。

 考えても見れば、小学生の頃から、最近ではですね、「こんなことをやっていたら、友達に負けるぞ。」「友達に対して不利になるぞ。」そういうふうなことを教育されて育っている子どもが少なくないという話ですから、そんなこと、本当に小学校の頃から経済学の原理に従って生きるようなやつっていうのは、最低最悪だと思うんですね。自分に対する「利」というものよりも、もっと大切なものがある。「自然の理り」というのは、数学とか物理が探求する分野ですが、その深い合理性というのは、人間社会の正義・不正義とかっていうものよりも遥かに深い強靭のものでありまして、そういう合理性を無視するような生き方を強制されてきている。「こんなことは考えていたら駄目だよ。損するぞ。」「そんなことは考えずに覚えればいいんだ。」というような、これは教育というよりは、言ってみれば、本当に思想教育というか、brainwashing(ブレインウォッシング)、「洗脳」というふうに言っても良いような教育だと思いますが、そういうことが堂々と行われている。そういう中で育ってきた人が、まともな人間になるはずはないですよね。子供の頃からスパイをして生きろってというふうにして育ってきた、育てられてきた子ども、それが大人になって、堂々たる人生を生きると期待する方が、無理だと思いませんか。

 私はそんなことを考えるときに、男性の中に特にそのせこい男が多いわけですが、そういうのは、せこい人間が男性の中に多いということに、既に日本社会の遅れた側面、つまり女性は競争に勝ち残らなくても生きていける。それに対して男性は厳しい生存競争に勝ち抜かなければ生きていけない。そういう現実を子供の頃から突きつけられていて、そしてその生存競争に勝ち抜くための方法として、いわば経済学的な生き方というのを身につけてしまっているのではないか、と考えたりするんです。それくらいせこい男っていうのが世の中に多い。比べると女性の方が遥かに男らしい。変な言い方ですけど、実に堂々としている。そういうふうに感ずることが多いのですが、やはり私が、男性に対して「女々しさ」を感じる。女性に対して「男らしさ」を感じるというのは、現在の倒錯した世界の象徴とも言えますが、しかし、その倒錯した世界が、ある必然性を持って導かれているという背景にも迫らなければいけないんじゃないか、というのが今日お話したいことです。つまり、正義の味方の立場から見れば、絶対許せない。「天誅」、そう言って抹殺してやりたいという気持ちになりますが、その気持ちを抑えても、その人たちにも悲しい人生の過去がある。その過去によって、このような人格が形成されてきたんだ、というふうに思えば、許してやらなければいけないかな、と思うこともある。とにかくせこい男っていうのは許せない!と、そういう思いが私にはすごく強くありますが、そのときに私が、自分自身が正義の味方になってるではないか、と思って反省することがあり、今日そのことについてお話いたしました。

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