長岡亮介のよもやま話84「病院の様変わり」

 私は今日病院に行ってきました。そこでちょっと考えたことをお話したいと思います。それは病院というと、私にとっては子供の頃から、お医者さんたちは白衣を着ていて、看護婦さんたちは看護婦さんたち特有のユニフォーム、なんていうんでしょうか、一説によると、ナイチンゲールという、「イギリスの従軍看護婦制度というのを確立する上で、統計学的なデータ解析を使った」ということで、大変に有名な人ですけれども、現代の看護師制度の生みの親と言っていいかもしれませんが、その歴史を通して作られたナースの制服というのは昔からよくありました。お医者さんたちは白衣を着て、聴診器を首から垂らし、ナースもあの特有のナースハットというのを着け、白衣のような独特のかっこいい制服を着ていました。

 お医者さんたちの白衣は特にかっこいいと思ったことは一度もないんですが、ナースの服装はよく工夫されているなと思いました。ナースの世界には、ハイアラキー、位階的な秩序があって、一種の軍隊と同じでありまして、トップからボトムまでいろんな位があり、それぞれに応じて洋服がちょっと違っていたりする。それは軍隊と全く同じですね。かつて帝国陸海軍の予備兵でさえ少年少女の憧れの的であったという時代のことを考えると、あの制服に憧れたという気持ちは、私はよくわかります。とにかく軍隊の人の着ている格好、病院のナースの着ている服装、これは人を引きつけるものがある。非常によくデザインされている。同じことは、飛行機のパイロットとか、あるいは最近ではキャビンアテンダントっていうふうに言い方が一般的ですが、昔の頃はスチュワード、スチュワーデス、そういうふうに言っていました。いずれも軍隊式の制服をキリリと着込んで、かっこよかったものです。このようにユニフォームというのは、そのユニフォームという英語が、元々ユニ・フォーム、一つの形ということで、そのユニフォーム、「一様」っていうふうに日本語で訳すこともありますが、その「一様性」に対して多くの人が同様に憧れたわけでありますね。そのくらいその一様性によってかっこよく演出していたわけです。

 今、病院はすっかり様変わりして、私が今日つくづく感心したのは、外科のドクターたちは、いかにも臨戦態勢っていう格好で、白衣なんか着ている暇がないっていう感じですね。手術着のその上に使い捨ての外套みたいなもの、ぱっと着られるようなそういう状態で、昔で言えば中年のおっさんスタイルっていうんでしょうか、ステテコパンツっていうような感じの服装になっていますね。機能的であるということを最優先している結果だと思います。内科医でもない限り、聴診器を首にぶら下げているっていう人はいませんけれども、今や医療の世界では、目に見える世界が急速に広がったこともあって、内科の存在感が減っています。昔は19世紀までは、医者っていうのは内科医が一番偉くて、外科医なんかは最低という雰囲気であったことは、「チボー家の人々」という小説、これの長編小説なかなか力作でありますが、その中にもよく出ていて面白いですけれど。ある意味で中を覗くことができない時代に、内科という、いわば外見から判断するという洞察力が試されるという分野が、重視されたことよくわかります。

 しかし、その内科医の世界でさえ、尿検査とか、血液検査とか、あるいは心電図とか、脳波の測定とか、そういうものを通じて中を覗くことができるようになってきている。今は、昔は放射線、X線レントゲンって言いましたが、そんなものだけでしたけども、CT、MRIを始めとして、さらに先端的な器具ができてきている。外科の世界もある意味で、中を覗けるようになったことによって一変したわけです。ですから、内視鏡ができる段階になってくると、聴診器が全てであった時代っていうのは懐かしく思い出されるくらいでありまして、今や、本当に人間の透視図ができるように、病変部を観察することができる。私の場合は、掛かっているのは眼科と脳神経外科なのですが、いずれも技術の進歩はものすごくて、残念ながら日本の技術というよりは海外の技術なんですけれど、眼底を、目を手術することなくその断層写真を撮る。切れ目を入れた状態で観察することができる。そういうふうになってきまして、本当に超速の進歩ですね。医療の進歩というよりは、医療周辺技術の進歩であります。

 わが国がこの分野において遅れているのは、わが国の医療関係者が他の分野の関係者と連携をとってみるということが少ない。日本はよくコーディネーターがいないっていうふうに言いますが、それぞれの専門家はいるんだけれども、専門家と専門家を繋いで、その人たちの力量を100%の力量をそれぞれ発揮してもらって、全体として300%の成果を得るという、コーディネーターがいないと言うんですね。それはある意味で、日本の医療が従来の医療の体質、それを今これだけ技術が進歩してきても、医療に携わる医療者の体質は昔と変わっていない。相変わらず患者も医者に求めているイメージが、白衣を着て聴診器をぶら下げているというイメージなんだと思うんです。そのイメージがもうえらく昔のものになっている。もちろん聴診器だけでもわかる病気をいっぱいあって、聴診器は依然として重要なツールなんですけれど、しかし、もはや聴診器は内科にとって唯一の武器というわけでは全くないわけですね。

 かつて西洋医の方々は、漢方医の人たちが脈を触って、その脈拍を調べる、脈拍を数えるのではなくて、脈のタイプによってこの人の体質は何である、というようなことを言っていました。それを見て非科学的だというふうに笑っていましたけれど、実は今の西洋医の先端的でないお医者さんたちの方がよほど非科学的であると思います。今、科学的な分野がどんどん開けている。要するにユニフォームを脱ぎ捨てて、自分たち自身が変わらなければいけないということを、実は大学病院に行ってそれを痛感してきました。大学病院でさえもう劇的に変化しつつあるということですね。病院のドクターたちもナースたちも、一昔前のような制服を着てかこつけてはいないということです。そして、ナースの間のヒエラルキーというのはおのずとあるんだと思いますけれども、しかし、それを昔のような形で表現しなくても、仕事をテキパキと進めていくということでもって、自然に備わる風格で区別されるということでしょうね。ともかく、私達患者が利口にならないと、立派なお医者さんたちもその力量を発揮できない。そういう現実があるのではないかと思いますが、大学病院などでは、患者様などというふうに言う代わりに、患者はいくらでも来るので、やはり毅然として医療にとって最も良い形を追求しているということです。

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