長岡亮介のよもやま話83「マニュアル」

 今回お話ししようと思うのは「マニュアル」というものについてです。すっかり日本語として定着したマニュアルではありますが、最近では取扱説明書、略して「トリセツ」という言い方もできているようです。このような分厚いマニュアル、最近は分厚いので、製品にはつけずにインターネット上にPDFとして置かれることが多くなってきましたけれども、それが付く最初のきっかけは、いわゆるPL法、製造物責任法とかっていうふうに訳されているものらしいですが、本当か嘘か実際は私は知りませんが、電子レンジで猫を温めて毛を乾かせようとした人が、電子レンジを製造したメーカーに、「猫を電子レンジに入れて毛を乾かしてはいけないとは書いてない」という訴訟を起こして、どうやらそれで勝訴した。その訴訟に勝ったという事件があり、そんな無教養な人に対してまでメーカーは責任を負わなければいけないのか。取扱説明書の中に、「猫を決して電子レンジの中で毛を乾かしてはいけません」という一文を入れなければならないのかということで、世界中で大物議を醸した問題でありましたけれど、実に馬鹿げた話ではあります。

 しかし、最近の電気製品の中には、製品に付属している非常に簡単な解説書の中には、その大部分が各国語でそのような意味のない、責任を放棄するための断り書きを、延々と書いているものが少なくありませんね。大変に残念なことで、お金と紙の無駄遣いだと思います。「電子レンジがどうして食べ物などを温めることができるのか」ということは高等学校レベルの科学や物理の知識で簡単にわかることでありまして、基本的には電磁波によって水の水素と酸素の結合に固有の振動を与える。水がたくさん含まれている食物の中では、その中で水が揺らされますから、その摩擦熱で食べ物を中から本当の意味で中から温めるっていうことができるというわけです。ですから、水を含んでないものは電子レンジの中に入れても温まるどころか、とんでもないことになるわけです。猫は水を含んでいますから猫を温めることができるでしょうが、猫に死をもたらしてしまうことでしょう。

 そもそもマニュアルというのはなぜ必要なったか。そのことについて考えたことがありますか。実は本当に現在に近くなって、いろいろな便利な電気の道具、それが発明される。テレビ、ラジオ、あるいは電気冷蔵庫といったところは、本当に日本では戦後になって普及し始めたものであります。こんにちは、下宿で一人暮らしをしている学生さんの家にさえあるという製品であって、ごくありふれていると思いますが、その基本原理を知っている人は非常に少なくなっている。そういう基本原理をわからない人でも、製品を扱えるようにするために、マニュアルというのが作られ始めたわけです。電気コンセントに入れて、何かこういう手順を踏んでと、親切に書かれている。親切にマニュアルを書かなければいけないというのは、実は私に言わせれば、設計が悪すぎて、よく言えば機能が多すぎて、普通のユーザーにはなかなか使いこなすことができない。そのくらいまで高機能に作っている。高機能といっても、メーカーの人たちが高機能と言っているだけで、一般ユーザーから見れば、「余計なお世話」という機能が多いと思うんですが、その多くの機能が小さなメニューの中にいろいろと階層構造的に入れられているために、自分が欲しい機能をどうやって発見したらいいのか。それを設計した人以外にはわからなくなっている。これは電気製品に限らず、コンピュータのソフトウェア、アプリケーションソフトウェアと言われるものも多くがそうです。マニュアルを読まない限り、そのソフトウェアを設計した人の用意している機能を使いこなすことができない。

 しかしながら私に言わせると、その一つのアプリケーションソフトウェアの中に、勝手に「便利だと人が思ってくるであろうと想像している機能」を、設計者が勝手に実装しているだけで、そんな機能は必要ないというふうに私が思うものは、ものすごくたくさんあります。電気製品でさえそうですから、ソフトウェアにいたってはほとんどがそうであるとさえ言えるくらい、今のアプリケーションソフトウェアは複雑です。そのために多くのマニュアルが出て、そして単にマニュアルでは足りないので、「マニュアルのためのマニュアル」「マニュアルの解説書」、そんなものが書店にあふれるように出ている。それを読むことによってソフトウェアが使えるようになるということなんですが、よく考えてみると、本当にそのソフトウェアで必要な機能にだけ限定してくれれば、1ページか2ページ進むようなものであるわけですね。実際には本当に自分にとって必要ないこと、それもたくさんたくさん理解しなければ先に進めない。そういうものになっていると思います。

 コンピュータのキーボードには、Escapeキーボードとかコントロールキーボードというのがありますけれども、こういうキーボードが普通のABCなどというキーボードとどういうふうに違うのか。その原理を理解していれば、本当に細かい話は全部飛ばすことができるぐらい単純なことなのに、そういう原理的なことは書かず、コントロール・シフト・ファンクションキー、この組み合わせによって何かできる、そういうふうに書いてある。しかし、それは作った人の勝手でしょ、と私は思うんです。何でユーザーが設計者の言う通りに操作しなければならないのか。その原点をみんな忘れているんじゃないでしょうか。本当は「自分に必要な機能だけに限定したソフトや、それが自分で開発することができて、自分がそれを利用してとても便利だから、他の人にもどうぞ使ってくださいっていうふうに提供する」、ということができたら素晴らしいですよね。

 実は皆さんから見ると少し縁が遠いかもしれませんが、UNIXの世界における膨大な数のツールというのは、WindowsやmacOS上の商業的なソフトウェアと比べると遥かに機能が低い小さなアプリケーションソフトウェアがたくさんあります。そのたくさんのソフトウェアの中で自分が使いたいものだけを使えばいい。というのが、UNIXが便利なことの一つの特徴づけというふうに言うことができると思いますが、そのUNIXでも最近はWindowsやmacOSに引けを取らないような複雑な機能を持った高性能ソフトウェアができています。そういう高性能のソフトウェアは、多機能ですから、その多機能がどのようにして実現されているのか、どのようにすれば使うことができるのか、という取り扱い説明書がどうしても必要ということになるわけですね。

 しかし、取扱説明書で全てがわかるわけではなく、取扱説明書というのは、「本質的なことを何もわからないまま、わかったような気にさせる」という意味で、教育の立場から見れば、一種の詐欺というか、猿真似で答えを出すことができれば、それでもって良いとする、そういう類の教育。マニュアルが自分の学習の常に、机の右にいつも置いてあるという本であるとすれば、その人は「自学自習」という最も崇高な人間的な行為が、猿真似に終始している。あるいは、猿真似で始まるっていうふうに言うべきかもしれませんね。終わりはそうじゃないかもしれませんから。でも、それは屈辱的なことではないでしょうか。マニュアルに従うということは、ソフトウェアを開発する力がない人がソフトウェアを開発してもらって、それを自分で使いこなすために必要な手順書ではありますが、自分で作ったものでないだけにマニュアルに全ての回答を求めることは決してできないし、マニュアルが分厚くなればなるほど、親切になればなるほど、本当に書いて欲しいことにたどり着くのは困難になってくるということです。

 おそらく、私は、小学校以来の学校教育とりわけ数学教育が、「問題に対する答え、正解に到達する道は一つである。そして最善の道がある」ということを、暗黙のうちに人々の頭の中に刷り込んでいるんだと思うんです。私は以前に、「数学の場合でさえ、答えは一つでない。答えが一つだというのは、答えが一つに決まるように問題をものすごく単純化して出題している」ということの結果に過ぎない、という話をいたしましたけれども、「人生においてマニュアルがある」、というふうに考える若者が増えてきていることは、日本の学校教育が、「マニュアル化することが、無条件に良いことだ。あるいはマニュアルに従うことが、最善の人生の選択を正しくする道だ。」そういうふうに人々に思い込ませている。そういうことの結果ではないかと思い、この傾向に対しては、皆さんで大きな声を上げて、反対意見を形成していってほしいと思うんです。マニュアルに従えば、最低限の失敗、大失敗を避けることはできるかもしれませんが、最高の成功をマニュアルに従って獲得するということはあり得ないと思います。マニュアルというのは所詮そのようなものだということ。これを忘れてしまったら話にならないと思いますね。取扱説明書あるいはトリセツと言われているもの。こういうものが無い社会の方が理想的であると私は考えています。

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