長岡亮介のよもやま話81「tailor-made medicine」

 今日は少し私らしくもなく、しんみりとした話をしたいと思っています。というのも、インターネット上に私のようなものが、勝手な意見を喋るこういう記録を残すということは、少し考えてみれば誰にも明らかですが、大変恥知らずなことで、私としてはすぐにもう全部消去したいという気持ちにとらわれてしまいますが、そういう誘惑に打ち勝っても、やはりたとえどんなに少数の人であっても、このメッセージに接して自分の今日を生きる勇気を奮い立たせてくれる、そういう可能性があるのではないか。であるとすれば、その人のために、私が生きていることの証として、メッセージを残すことに意味があるのではないか。そして、そのメッセージが普遍的な妥当性、客観的な合理性を持つものでないとしても、私自身の偏見に満ちた、あるいは数学や科学に偏った、そういうものの見方を通じて導き出された結論を、あるいは結論に到達する道筋を、特にいろいろな意味で情報の氾濫しているこの世の中で翻弄されている人々に、届けたいと願うからであります。

 実際、最近インターネット上にあふれる情報の中には、本当によくぞこういう形で残してくれた、と思うような貴重な情報がたくさんたくさんあって、私は特に音楽とかオペラとか歌とか演奏とかそういうものが多いのですけれど、そういうものに触れて本当に心が揺さぶられ、魂がよみがえる。そういう気持ちを持つことがしばしばです。残念な今のような世の中の中にあっても、やはりそうじゃないものもある、ということはとても嬉しく思うことです。そうであれば、私としてももう少しきちっとした情報発信をしなければと思いつつも、文章にして残すという作業はかなり骨の折れる仕事でありますから、どうしても限られてしまう。私の場合で言えば、数式を含むような表現は、こういうメッセージには必ずしもふさわしくないと思いますので、それは文書にして残さなければと思っていますが、そうでない数式を使わなくても伝えられるものについては、こういう簡易なメディアを通してではあるけれども、私としては心を込めて皆さんに送りたいと思っているんです。原稿をきちっと書いて、その原稿を台本のように読んで、起承転結のあるお話ができればそれこそ理想的なのですが、私には残念ながらその時間的な余裕、あるいはそれを直すための肉体的な頑健さがもはや残っておりません。しかし、そういう限界の中で最も安易な形ながら、思いつき的に心の中にほとばしる思い、それを文章というか文字にして残しておきたいと思うわけです。音声を文字に起こすにあたっては、このプロジェクトを一生懸命支えてくれている同志のご協力によるわけで、私の力ではありませんが、大変ありがたいことだと思っています。

 そして、私が今日ちょっとしんみりとしているのは、私の命を何回も救ってくれた私の昔の教え子が、非常に厄介な病気にかかり、いわゆる血液のがんと言われる病気の一つですが、それもまた極めて珍しく、日本の中では初めての例だと言われるくらい珍しいそういうタイプの病気にかかり、前例が全くないという中で、血液内科の医師団が懸命な努力をして、その努力が実ってか、あるいはその努力に打ち克つ患者本人の体力によってか、かなり回復してきた、という朗報に接した。

 実は、現代的な最先端医療というものは、言葉ではとてもかっこいいのですが、最先端であるということは前例が全くないということ。数学であれば前例がない世界を開拓するということは、全ての数学者の憧れの課題ですけど、経験科学においては前例に従って判断する。しかも、できるだけ数多くの前例、例外的な前例ではなくて、膨大な数の前例を踏まえて、新しい患者の症例に対する科学的な判断を導くというのが、基本的な手法ですね。前例主義というと、官僚主義と間違えて、それは悪しき前例主義っていうふうに言ってしまいますが、実は経験科学というのは全て前例主義であるわけです。前例なくしては何も考えられない。前例がない世界に分けることが重要だ、というふうに考えるのは数学を始め、理論的な世界ですね。ここでは数学の場合、あるいは物理の場合でいえば、数学的な単純性という数学的な美の基準で、それが理論の正しさや説得力を決定する重要な要因であるわけです。それに対して医療の場合はそうではありませんね。前例に基づいて判断するということ。それが科学的であるとされているわけです。それは経験科学である以上、仕方ないことであって、経験科学というのは、ある意味で科学という名前、サイエンスという名前を使いながらも実はサイエンスというよりは技術、技術という言葉はラテン語ではアルス(ars)、英語ではアート(art)っていうふうに言うわけですね。ギリシャ語ではテクネー(technē)と言います。英語のテクニック(technique)という言葉の語源ですが、そういう技の世界、あるいは芸の世界、芸とか技が中心になる世界においては、私達は前任者からそういう芸や技を学ぶということが極めて重要であるわけです。人間の体は一人一人全部違っていて、人類だから全部同じだというふうに断定するわけにいかない。ある意味で病気というのは、全て人類初めての世界最先端の病気であるというふうに言ってもおかしくない。その病気の立ち現われというのは本当に千差万別であって、それを普通臨床医学的に、ある種の分類原理に従って粗く類別している。類別とは数学の言葉で、日常用語では分類ですね、分類しているだけです。

 医学でしきりと最近使われる「症候群」という言葉、英語のシンドロームという言葉と言いますが、結局のところ、その症状が起きている原因のメカニズム、メカニズムというと人間の身体を機械に例えているようで少し嫌ですが、医学の世界ではしばしばそれを「機序」っていうふうに訳します。確かにメカニズムという言葉の訳としてはうまい訳かと思いますが、しかしながら、機械としてみなしているというよりは、人間の体の中でいろんなものがいろんな形で働く。その働き方を詳細にわたって調べ、そして最終的に症状が出てくることの、それを原因から結果へと因果律で説明することができる。これが現代的な医療の目指している先であるというふうに思いますけれど、実は因果律というのは説明するための一つの非常に古典的な方法であって、例えば現代物理学の世界ではもはや因果律が全てではない。むしろ数学の言葉の方がよほど重要な役割を果たすわけです。医療もやがて物理学のように、数学の言葉を用いて厳密に語られるっていう時代が来るかもしれません。そして、そのときには、医療行為というのも、一人一人の患者に従ってみんな違う。そういう、英語だったらtailor-made medicineというんでしょうか、そういう一人一人によって異なる医療が行われる日が来るかもしれない。というのも、全ての人にとってあらゆる病気は最先端の病気であって、その立ち現れやその病状の変化、それは予見することさえできないものである、ということであります。

 私達は、医療が進歩すると、私達がいつまでも健康長寿でいられるとそういうふうに考えがちでありますけれども、医療は今本当に進歩してきて、いわゆるプロトコールに従った医療の手順、それが当てはまるとは限らない症例が存在するということを発見するところまで発達してきているということ。それは「私達がつい先日まで夢見ていた現代医療の発達に対する幻想が終焉した」、ということを意味すると同時に、先ほど申しましたように、医療に関して、本当に一人一人に合った治療が試みられる。そういう可能性を示唆しているという意味では、明るい希望にも見えます。「そんな難しい一人一人に合った治療、それが町のお医者さんにできるんですか」と、皆さんは質問するかもしれません。もちろんできるはずもありません。しかしながら、コンピューターの力を借りれば、コンピューターの持っている膨大な知識の中で、その患者に最も近い例というのは見つけられるとすれば、ちょっと希望が見えてくるのではないでしょうか。今は最先端の情報科学の技術と、遠く離れたところにある町の診療行為が、実は最先端の科学、あるいは最先端の技術と結合して、今まで見たこともない世界が切り開かれる可能性が存在するかもしれないということです。

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