長岡亮介のよもやま話80「良し悪しを判断する」

 数回前に、日本の人々が無意識にもあるいは人によっては意識化して信じている、信じているというのは、信仰に近いような確信で思い込んでいるという命題に、「良い学校が存在する。良い学校に行けば子供たちが幸せになる。」というものがある、ということをお話ししました。しかしそのときに、「そもそも学校が良いとか悪いとかということは、何によって測られるのだろうか。」そういうことを考え、それをしっかりと考えてから発言すべきであると。単に受験ジャーナリズムの言うところの客観的なデータ、カッコ付でありますが、それに振り回されてはいけないという話をいたしましたけれども、実は今の日本では、良し悪しという非常に重要な尺度が、自分の基準に従って判断するというよりは、料理であれば、良い料理店・悪い料理店、良いお菓子・悪いお菓子、良い魚・悪い魚、良い肉・悪い肉、そして良い野菜・悪い野菜、そういうような基準もいわゆるグルメ雑誌とか言われるもの、それに取り上げられていれば良い。そういうふうに思いがちですね。私が昔、学生とどっかでちょっと食事して飲んでいこうかっていうときに、学生が携帯電話で調べて、ここは星4.5だからいいと思いますよというような、一般の大衆の意見を反映したかのようなデータ、これを示していましたけど、そのようなデータが本当に厳密な意味で公明正大にとられているかどうか、そのデータの中に偏ったものがあったときに、それに引きよせされていないかどうか、そういうことは統計においてはもう常識中の常識でありまして、そのデータに信頼性がなければデータを取るところからやり直さなければいけない。

 アメリカには国立の衛生研究所(National Institutes of Health)NIHという組織がありまして、私が昔、自分の学会で寄ったおり、サンディエゴのNIHで働いている昔の学生に会うために、NIHも訪問させてもらいました。そしてそこの偉いドクターっていうか所長のような方とお話する機会を得たのですが、そのときに、「日本からNIHには大変多くの留学生が来ている。聞くところによると日本の留学生たちは非常に難しい大学入試をパスして、大学院においてここに留学している、という話で私達も受け入れているんだけど、日本の大学生たち、元医学生と言うべきですね、は、なんであんなに出来が悪いんだ」ということを聞かれて、私も大変困りまして、「実は彼らは学力においては、一般学生よりも高い。それは入学試験の難しさに反映していて、しかるべき大学の、しかるべきでない大学はいくらでもありますけれど、特に医大ではですね、しかしながらしかるべき医大の卒業生はそれなりに学力が高かったんだと。しかし、大学における6年間の教育あるいはその後の教育を通して、日本は臨床医療に非常に力を入れざるを得ない構造を持っていて、研究者としてどうしても割く時間が、アメリカと比べて圧倒的に小さいということが一つの理由。もう一つの理由は、日本の医学生たちは、高校生で数学の勉強を終えていて、そこまではかなり高度な勉強をするのだけれど、高等学校の数学の勉強は残念ながらアメリカよりも水準は高いとはいうものの、結局問題解法に追われていて、数学的な手法、数学的な考え方、それを習得するというところまでいっている学生は大変少ない。しかも医学部に入ると、特別な大学を除いては、理学系の基本的な勉強、数学であるとか物理であるとか生物であるとか、それを勉強する機会というのは極端に制限されてしまう傾向がある。アメリカのように4年制大学を出てからメディカルスクールに行くというようなシステムとはだいぶそれが違う。そういうことが一つと、さらに数学内部に関して言えば、統計学に関する勉強が日本のカリキュラムでは欠けている。言ってみれば数学を実用的に使う、そういう分野において基礎的なリテラシーができてない面があるんだ」ということを、一生懸命弁解して、「それでも私の学生は、元は数学がとてもよくできたし、そもそも理知的な学生であるのでよろしく面倒見てやってくれ」っていうふうにお願いして、「いや、彼はなかなか優秀で見どころがある」という言葉をもらって私は喜んでサンディエゴのNIHを去ったのですけれど。アメリカでも「日本の留学生たちがなんでこんなレベルなの」というふうに驚かれたことは、私にとって「日本の教育は何なの」というふうに驚かれたような気がして、とてもショックを受けました。もう数十年前の記憶になりますけれども、鮮烈な私の人生の記録です。

 しかし、このときの話に関連してお話したいのですが、その「良い学校・悪い学校」とかっていうふうに気楽に言う人たちは、しばしばお医者さんに対しても「良い先生・悪い先生」、こんなふうに言いがちですね。皆さんが法務あるいは訴訟の経験があれば、「良い弁護士・悪い弁護士」ということを気楽に言うでありましょう。皆さんの中に、そこまで訴訟は経験してないという人は、「良い税理士・悪い税理士」とか、「良い司法書士・悪い司法書士」というかもしれません。私は昔から学生諸君には、「先生」と名前がつく人は警戒しなければいけない。教員、まず第一、大学教授も含めてでありますが、教員、そして医師ですね。それから弁護士、そして政治家。この人たちは、先生、先生って言われますが、一口に先生といっても、上から下までものすごくいっぱいある。学校の先生もそうなのだから、まして学校の先生よりももっと複雑なことをやっているかのように見える政治家とか医師のあるいは弁護士の、上と下との差はものすごく激しい。上と下という言い方をしましたけど、そういう1次元的な尺度では測ることができない。

 例えば、私のような年寄りは、年寄りを大切にしてくれる臨床医のところに行って、「先生、今日は顔色がいいですね。ずいぶん良くなりましたね」なんて言われたりすると、嬉しくなったりする。美容院とか私の場合は理髪に行くんですが、「髪の毛が多いですね。つやもいいですね」とか言われると、悪い気はしません。そういうリップサービス、あるいは患者様とかっていうふうに言う病院ありますね。気持ち悪いですね。私は自分が辛くて行っているだけなので、お客様として扱ってほしいわけじゃないんですけど、患者様、それは病院にとっては大きな収入源となるお客様でありますから、顧客ファーストっていう立場に立てばお客様という言い方も正しいかもしれません。

 もし学校が、生徒様、保護者様って言ったらもう気持ち悪いですね。明らかにその迎合的な態度が目に見えるからです。私は、これはあくまでも原則ですよ、単純な原則として申し上げたいのですが、「良薬口に苦し」という日本の言葉がありますけれど、やはり「厳しい先生は概して良い先生である」ということですね。耳障りの良い言葉、あるいは扱いのこなれた方というのは、大体腕に自信がない。そして学識がない。最新の論文を読んでいない。そういう先生方である。概して、ですよ。例外はいっぱいあると思います。でも、皆さんが、「先生と呼ばれる職業の中に、実に多様な様々な人種がひとまとまりにしてなされている」ということで、これはぜひ知っておいて欲しいと思います。

 特に、今のように歯医者さんのように、駅前に乱立するという時代になると、本当に良いデンティストを見つけるということは、難しいことになると思います。私はせめて卒業した大学名くらいきちっとしている、そういう誠実さを持ったデンティストに、皆さんが会えるといいなっていうふうに思います。私はたまたま若い頃から偶然に東京医科歯科大学を出た歯医者さんに関わることができたおかげで、この年まで自分の歯を丈夫に、虫歯だらけであったにもかかわらず、生き存えることができ、昨年後期高齢者の仲間入りまでしましたけれども、やはりとんでもない歯医者にかかったならば、今頃もう総入れ歯もなくなって、そしてひょっとすると命もなくなっていたと思います。命が存えたところでそれ自身には意味がないと思いますが、良い医師に出会えたという経験、良い歯科医師の場合を私は例にひきましたけど、に出会えたっていうことは、やはり人生の宝です。単に受験の成績が良いということが大事なのではない。そうではなくて、しっかりと勉強しなければならない。常に勉強しなければならないと思っている先生。そして、その医師の治療が単に患者にその場で感謝されるんではなく、50年後に感謝される、そういうような治療をしなければいけないと思っているような知的な医者。その人たちは決して「患者様」とか「毎週いらしてくれてありがとうございます」そんなことは言いません。でも、「痛いけど我慢してね。これが君の将来のためになるんだから」といって、治療してくださった歯医者さんの思い出、これも私の人生にとって鮮烈です。

 同様に、私は歳をとり、また私が予備校で教えていたこともあって、実に多くの教え子たちに囲まれて、医療の面では特権的な境遇にありますが、その昔のよくできる学生たちが、やはり日本の非常にせせこましい臨床医療の世界の中で生きていながら、しかしその壁を突破しようとして頑張っているという姿を見るのは本当に素晴らしい。私が教えた学生の中で弁護士になったやつもいる。残念ながら、私が教えた学生の中で、先生と言っても政治家になった奴は1人もいない。私は、「政治家を軽蔑していたことが人生の大失敗だった」というふうに思っています。良い政治家を作るということは何より大切なことでありました。私は、立派な国民を作れば、立派な政治家ができる。自動的にそうなると思っていたんですが、そうではありませんでしたね。私は知的な医者、知的な弁護士、知的な学校の先生、知的な研究者を少しでも多く日本に排出することができれば、日本は世界の中で存在感を増した、国は小さいけれどその存在感によって世界で一定以上の役割を果たすことのできる国になっていくだろう。そういうふうに楽観しておりましたが、なかなか厚い壁がありました。

 日本は、技術立国とか、産業立国とか、科学立国とか、いろいろ立国って言葉が好きで、特に霞が関の人たちはそれが好きなんですが、日本は本当に小さな国ですね。その小さな国であるということを自覚することが大切なのに、領土は狭いが大国の一つであるというふうに思われたい。そういう傾向が私達の中にあって、そういう私達の自分に対する傲慢が、「先生」と言われる人たちの良し悪しを見抜く目を曇らせているんではないかと思います。いろいろな良い先生と悪い先生がいるんです。それを判定するのは皆さん一人一人であるということです。皆さん一人一人が正しく判断するようになれば、良い先生がきっと多く出てくる。悪い先生は次第に駆逐されていく。というふうに思うのですが、国家試験とか学会の認定とか、そういうもので資格を付与するというやり方では、今の厚労省がまさにいろいろなことを企んでいますが、結局のところ「その厚労省の政策を請け負って、そのお先棒を担ぐ広告代理店の策略にハマるだけで、私達国民が本当の意味で主人公になる民主主義国家を作ることは難しい」ということをわかってないといけないと思います。

 「良し悪し」を判断する。「美味しい、美味しくない」を判断する。「感動した、感動しない」を判断する。「素晴らしい絵だ、素晴らしい絵だとは思わない」これを判断する。これが大切です。みんながいいというから、みんなが立派だというから、みんなが有名だからというだけで、「この絵は素晴らしい」「このデッサンは素晴らしい」「この彫刻は素晴らしい」、そういうふうに言った途端に、皆さんは、良し悪しを判断しなければいけないという「民主主義の構成要因である国民一人一人に課せられた義務」を、正しく遂行することができなくなっている、ということに警戒すべきだということです。でも、そんな皆さんも、このお菓子は美味しいとか、この料理が美味しいとか、ちょっと年配の方であれば、この酒はいいとか、思いますよね。それがとても大切です。一番いけないのはルーティン化された枠にはまって、「酒は辛口。辛口なら美味しい。」こういうのの間違い。辛口の定義もわからないまま、そういうキャッチフレーズに乗ってしまう。これがまずいということです。私達の日常生活からして、できるだけ知的な国民となるように一緒に努力してまいりましょう。私ももうあと数年かもしれませんが、そういう国民の一人として頑張っていきたいと思っています。

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