長岡亮介のよもやま話74「辻村寿三郎『新八犬伝』」

 私は滅多にテレビを見ないのですが、先日NHKの特別番組で、人形作家辻村寿三郎のご逝去を悼んで記念番組が放映され、それを見て大変に深く心を動かされるところがありましたので、それに関係してお話したいと思います。それは今から半世紀も前に放映された子ども番組「新八犬伝」。里見八犬伝の新しい現代版でありますね。そしてそれを全部、辻村寿三郎という大変個性的な操り人形を、操り人形と言っていいかどうかよくわかりませんが、その動く人形を使い、その人形を主人公としたドラマであったわけです。これが大変な人気番組で2年間も続いたということですが、なんとそれが大した映像でないというふうに制作者の側が思ったのでしょうか、2年間で400回以上も連続したドラマを、その貴重な映像フィルム、それがNHKアーカイブにも残っていない。たった二つしか残っていないという寂しい状況でしたけど、幸いなことに、二つ残っておりまして、第1回と最終回がその記念号ということになったのかもしれませんが、それを再放送してくれたわけです。今もNHKアーカイブには入るかもしれませんし、また現在ならNHKプラスという直近に放送した番組として、見ることができます。

 何がすごいかというと、その中に出てくるお人形そのものも素晴らしいのですけれど、その子ども番組であるはずの「新八犬伝」のレベルの高さなんですね。そこには子どもに対する妥協というか、笑顔ヘラヘラして子どもに付き添って子どもにわかりやすく解説する、そういうものが全くない。むしろ下手すると、今では大人でも書くことのできないような漢字がバンバン出てきて、それが会話の中で使われている。「子どもを子ども扱いせず、子どもを一人前として扱う」という態度が番組の中に明確に出ていて、「そうだ、昔はテレビがこうだから面白かったんだ」と、私自身は懐かしく思いました。私は決してテレビが嫌いな子どもではなく、むしろ遊びから帰った後はテレビに夕方からかじりつく、そういう子どもであったと思いますけれども、その当時の子ども番組は他愛ないとは言っても、決して子どもが子ども扱いされていなかった。テレビを通して多くのことを学習したと思います。

 いろいろと今にして思えば懐かしい子ども番組がありますけれども、いずれも今小説としてあるいは戯曲として読んでも立派に成立するものであり、しかしながら、テレビの特性をうまく生かして、それを楽しく仕上げていました。子どもに対して迎合的に大人たちが妥協するということが全くない。そのような子ども番組の姿勢がすっかり失われている現在、特に強く印象に残ったわけです。最近は幼い者、弱い者、発達が未熟な者、そういう人たちに対して、その未熟さとか幼稚さそれを自覚させるというのではなく、むしろそういうものを隠して、包み隠して、まるで子ども扱い、一人前に扱わない。それが子どもに対する優しさであるかのように、大人たちが振舞っているような気がして、これでは子どもは成長しないよと私は思うんです。皆さんはいかがですか。「子どもを子ども扱いする」ということは、大いに心の内に秘めておかなければなりませんが、表面的には少なくとも「子どもを大人扱いする」ということがとても大切で、そのことを通じて子どもが成長していくのではないかと、私は半世紀前の私達の文化を大変懐かしく触れて、改めてこの半世紀間の私達の文化の堕落、凋落、それを感じた次第です。

 結局のところ迎合主義というのは、どんな場面でも、要するに自分の利益のために、消費者を、その心に取りいってその消費者から利益を奪い取るという、非常にせせこましい利益第一主義に基づいているんだと思います。自分の利益を大きくしさえすれば良いという世の中。その中にあって、半世紀前の「新八犬伝」は、大変私には鮮烈なメッセージ、特にこれから何をしていかなければいけないかということに関して、新しいメッセージをくれました。皆さんにもぜひご自身でご覧になって、「現代と半世紀前、50年前の日本と比較することは、とても面白い挑戦である」と私は考えます。

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