長岡亮介のよもやま話72「知恵を身につけるために」

「4月は残酷な月」とは、有名な英国の詩人T ・S・エリオットの最も有名な詩(『荒地』)の冒頭ですが、春になっていろいろなものの生命活動が活発化していくということを、残酷と表現した詩人の感性には驚かされますが、最近は春になると花粉症でひどく苦しむという人の声がよく聞こえるようになりました。かくいう私もくしゃみが、特に朝起きた直後にひどいことがあり、それが花粉症の一種であるという説もあるのですが、よくわかりません。何か人々の言う言葉で、自分の病気というようなものを、それをお医者さんに判定されて、その判定された概念をそのまま繰り返す。これは庶民の悲しいところだと思うんですね。

 アレルギーという言葉。これも中身はわかってないんですけども、非常にポピュラーな言葉になってしまい、私達はそれについて何ものかを知っているかのように、錯覚してしまいがちです。しかし本当は、自分の免疫反応が自分の利益に反して働く。そういう反応があるということ自身は極めて不思議なことであって、私達はそれについてほとんど何も知らないという状況ではないでしょうか。大変残念なことに、「科学が進歩する。あるいは技術が進歩する」、それによって私達はつい、「自分たちの力が大きくなった。自分たちが今までできなかったことができるようになった。知らなかったことがわかるようになった」というふうに一面的に肯定的に考えてしまう傾向が、すごくあると思うんです。それは下手をすると「昔の人は馬鹿だったね。」こういう話になりがちです。そして実際昔の人は大変愚かでありました。著名な文豪として名高い森鴎外も、ビタミンのことを全然知らずに、大量の脚気で、軍人が軍隊で死ぬよりも、戦死するよりも脚気で死ぬ、その数の方が多いというほどの大きな過ちを、犯してしまったわけであります。

 無知が犯す過ちっていうのは、人類はずっと繰り返したわけです。そして、それが後世になってわかってくると、昔の人の無知を単に笑い飛ばすっていうか、こんなことやっていたんだよというふうに言ってしまいがちではないでしょうか。例えば私が子供の頃前に話したことですが、怪我をすると消毒をする。そのときに赤チンを塗るとか、ヨーチンを塗るとか、ちょっと新しくなってくるとイソジンを塗るとか、消毒することが大事だっていうふうに言われていました。それが次第にエビデンスに基づく医学というのが一般的になってきて、そういう消毒薬が消毒にもなってないどころか、実は傷の治りを悪くするという面さえあるということがわかってくる。これはすごいことなんですけれど、今は病院で手術の前こそ多少消毒みたいなものはしますけれども、手術の後は本当に縫いっぱなしで終わるっていうのが、外科なんかで常識的であります。人間の体は生まれつき治る、そういう能力を持っている。非常に不思議なことなんですが、昔の人々は皮膚が裂けていると、その裂け目からばい菌が入る。だから早く閉じさせた方がいい。そういうふうに思っていたんでしょうね。しかしながら、今は医療に関する知識が豊富になり、実は皮膚がものすごく複雑な働きをしているっていうことがわかってきた。皮膚は実は穴だらけであるのですけども、実は物質っていうのは平べったく広がっているわけではなくて、実は穴だらけ。「私達の知っている世界っていうのは、実は真空に満ちている」ということは現代物理学では常識でありますが、実は医療の世界においてさえ、細胞というものが覆っている皮膚、これがみんなびっしりと覆っているっていうふうに思っているんですが、実はそこも隙間だらけでありまして、その隙間だらけであるにもかかわらず、私達の皮膚は外敵から体内を守るっていう機能を果たしている。すごく不思議なことなんですね。その不思議な機能が、ときに私達人間の、あるいは動物の生存を危うくするような逆の働きをする。これもわかってきている。すごくわかってきている不思議なことなんです。「傷口なんかは洗っとけばいいんですよ」と、いうふうに医者が言うようになりました。一昔前はとにかく一生懸命包帯をして、覆っていたもんです。今、包帯を使っているのは、ほとんどもう田舎の方だけだと思いますけれど。そういうことはいっぱいある。

 ウイルスで感染した人に対して、抗生剤を処方するというようなことが、平気で行われている。これは、日本は世界一抗生剤を使う国だと言われていますけど、ウイルスに対しても特別に効く、非常に特殊な抗生剤っていうのがある。普通は抗生剤っていうのは、いわゆる細菌に対して効くだけで、ウイルスに対しては全く無意味。これはもう常識中の常識になっていると思いますが、ウイルスに対しても効く、その特別な薬が開発されている。その特別な薬の、私が聞いた話では、8割から9割は日本で消費されているということで、世界の医療ではそういう高価な薬を購入することができないということもありますが、実はせっかく開発された、言ってみれば本当に最終兵器、向こうの最終兵器に対して戦うこちらの自衛の最終手段、それはできるだけ取っておいて、最後の最後に使うようにしておかないと、あらゆる細菌のようなものに対して全て耐性を備えた、そういう新しい細菌、それが出てきたときに戦う手段が何もないという状況、特にいわゆる抗生剤に関しては、その開発に莫大な経費と時間つまりコストがかかり、そしてその新しく開発した抗生剤が有効に使える時間があまりないっていうこともあって、大手の製薬会社がもう抗生物質の開発、これがビジネスにならないということで手を引いている。私達はそういう決定的な武器を失いつつあるわけです。だから、抗生剤を使わない方がいいんだというようなことが叫ばれている。

 そして、アメリカの牛や豚肉を買うと、向こうでは牛や豚を病気にしないために餌にたっぷりと抗生物質を混ぜている、だからそのような肉を取ると、実は輸入した肉を食べることによって、抗生物質を体に取り込む。だから危険だ。こういうふうに言い切る人もいる。「輸入した食物は危険です。日本産のものが安心です」と、こういうふうに言う人がいるんですけれど、本当にそうなのかということ。どの程度の抗生剤が使われているのか。定性的定量的な知見、それがしっかりしているんだろうか。果たしてアメリカの家畜の中には、全ての抗生剤に対して耐性菌にかかったような、そういう家畜の例は本当にあるのだろうか。例えばそういうような広く視野を広げて、議論をすることが大切なのに、例えば抗生剤に関する知見、現代医療の知見も常識でありますが、あんまり使うべきでない。これはもう常識なんですね。その常識ができていると、その常識が最先端の知識であるかのように叫ぶ人がいる。抗生剤もときに非常に有効な手段であり、抗生剤を使わなければならないこともある。抗生剤のメカニズムそのものも、完全に解明されきっているわけではない、と私は思うんです。

 私がここで言いたいことは、要するに私達の科学や技術に関する知見が、世界が、広がるにつれ、私達の知識の世界が広がるにつれ、私達は力を得ているというよりは、私達が今までどれほど多くのことを知らなかったのかということについて、私達が謙虚に反省し、そして私達の知らない世界がもっと広く広がっているという、そういう恐ろしさに気づくことではないか、と思うのです。啓蒙主義の典型的な誤りは、「自分たちの得た知識、これを多くの人に分かち合うことが文明文化の進歩にとって不可欠である。これこそ民主主義の基本だ」という考え方に偏っていることですね。人々は知識に暗く、私達は明るいと思っている。これが啓蒙主義者の典型的な誤りだと思います。それは確かに、全く知らない暗い世界に生きている人から見れば、多少の明るさを知っている人々は、そのことによって、暗い世界の中にいる人に「明るい世界へ、こっちへおいでよ」という誘いをすることは良いことですが、その明るい世界というのも、全面的に明るいわけではなくて、実は私達はその明るい世界を知ったことによって、その先にもっと明るい世界が広がっている、ということを知ることが大切なのに、何か人が発見した発見に乗って、自分でその知見を得たかのように知識を啓蒙する。その活動が重要であるというふうに思い込んでいる傲慢。これが現代人に共通の傲慢ではないかと思うんです。

 私の尊敬する先生で、アトピー性皮膚炎というのを患っている方がいらっしゃいました。本当にかっこいい先生なんですけども、アトピー性皮膚炎を患ってからは本当に顔がボロボロになるくらいまで腫れてしまう。その真っ赤になった顔をさらにまたボリボリと掻く。「先生あんまり触らない方がいいんじゃないですか」って私が言ったりすると、「いやあ、これボリボリするのは気持ちがいいんだよ」って言いながら、アトピー性皮膚炎と同居するという道を選んでいらっしゃいましたけれども、その方は特にそばアレルギーで、そばを食べると非常にひどい目に遭う。そのことはわかっているんだけれども、そばが大好きで、大切な友人とそばを食べる。その後にどれほどアトピー性皮膚炎が襲ってきても、それはもう代償として自分が支払うべきものだ、というふうに覚悟を決めていらっしゃった方です。でも考えてみるとアトピー性皮膚炎というものについても本当にわかっていませんでした。今まで多くのことが語られて、アメリカなんかでは本当に独創的な治療法として、アトピー性皮膚炎を患った幼児をイソジンのお風呂につけるとか、そういうような療法とかまで行われたって話も聞きます。今はそんなことはきっとないと思うんです。

 でも、本当に面白いことは、私が子供の頃はそういう病気はほとんどなかった。しかし今では極めてポピュラーな病気になっている。いわゆるアレルギー反応、花粉症なんかに関しても、今はテレビのお茶の間ニュースの筆頭の話題になっていますね。でも、実はそんなものは、昔は病気でさえなかった。アメリカではピーナッツアレルギーっていうのがよく話題になっているんですが、日本ではピーナッツアレルギーは話題にあんまりなりませんね。不思議なことで、ある意味で生活習慣が様々な病気に関係している。生活習慣というだけではなく、文化、伝統、そしてその文化・伝統を支えるもっと根源的な生物学的な原理である遺伝、そういうものが、もしかしたら関係している。そして、そのような様々な形質を備えた人間が、非常に高速に移動することで世界が小さくなり、多くの人々が接近して暮らすようになってきている。そういう生活様式の変化などもいろいろな要素が複雑に絡み合って、到底私達の科学あるいは私達の技術では及ばない複雑さを示しているのではないか、と私は思うんです。力学的な問題であっても、ちょっと複雑な力学的な模型を作ると、そこで動きが全く予知できないような、chaos混沌というふうに数学者が呼ぶところの現象が起こるっていうことが、知られています。簡単な本当に簡単な方程式で表現される世界にさえchaos、日本語で言えばカオス、があるわけでありますから、まして、生命体の世界にはどんなに不思議が待っていても不思議でない。どんなに医療技術あるいは生命科学、これが発達しても、最終的に私達がそれを知り尽くすことはないということを、私達はもっともっと謙虚になって、そのような新しい知見がどのようにして得られたのか。そのような知見を得た人が、どのようなアイディアでもって、そのような知見を得るに至ったのか。その偉大な足跡、それを少し勉強して、結果だけ覚えて、それを人に向かって啓蒙するというような傲慢に陥らないように、ぜひしたいものだと思います。

 私達は、知恵を得たいと思っています。しかしそのために知識を得なければなりません。知識を得ただけでは、人が得た知識を自分で受動的に学んだだけであって、自分で知識の世界を開拓することができるわけではありません。自分で知識の世界を新たに開拓する能力、それを私は「知恵」と呼ぶんだと思いますが、その知恵を身につけるために私達は勉強するわけですね。知識を身につけるわけです。その知識を身につけることによって、私達は知識を身につけることが真に難しいことであり、そしてそれが真に喜ばしいことである。生きていることの真の喜びであるということ。それに気付くようになりたいと願っています。

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