長岡亮介のよもやま話71「傭兵」

 今日は少し話題を変えて、最近国際報道でしばしば語られるロシアのウクライナ侵攻に関係して、その戦闘に立って、良く言えば戦っている、悪く言えば悪逆非道の暴力を働いている、そして、ウクライナの平和に暮らしている人々の暮らしを破壊しているロシア軍の中でも「ワグネル」というふうに自称している「傭兵部隊」に関連して、ちょっと考えたことをお話したいと思っています。「傭兵」、雇われる兵隊ということでありますけれども、これは昔からある制度で、別に現代特別な意味を持っているわけではありません。要するに、自分の生活のため、生きていくため、その糧を得るために、自分の武力を売って、兵隊となるということですね。正反対なのはお国のためにとか、そういうふうにして志願して兵隊になるという人もいます。

 しかし、お国のためとは言っても、それだけで兵隊として役立つわけではなくて、食べていかなければなりませんし、装備ももらわなければなりませんし、結局のところ、志願兵といえども本当のところは兵隊として雇われている。「兵隊」、人を殺す、あるいは人に対して暴力を働くということを、仕事としている特殊な職業って言ってもいいでしょう。「職業軍人」という言葉がありますけれども、全ての軍人が職業軍人と言ってもいいわけです。しかし、もちろん日本のように徴兵制があったところでは、本当にいやいや自分の意思や希望に反して、軍隊に組織された人々も少なくないわけでありまして、そういう人たちは自ら進んで軍人になった人とはちょっと違うでしょう。日本の「職業軍人」という言葉の中に何かしらある種の尊敬心があるのは、そういう職業軍人が、いやいや軍人になった人、2等兵と上等兵とかそういういわば兵卒ですね、に対して本当に横柄に振る舞う、権力を振る舞う。そういう姿を見て、「軍人さんとして専門的な人たちはやはり偉い」というふうに庶民が誤解した、という伝統文化に基づくのではないか、と想像しています。

 やはり、戦争というのは非人間的なことであるし、戦争を遂行するために、それを専門とする軍人というのはある意味では「傭兵」とあまり変わらないわけであります。「傭兵」というのが、古代からあった。古代オリエントの世界とか、古代ローマの世界、昔からずっと続いてきたわけであります。日本でもそうですね。なんか今は「侍」っていう言葉がすごく潔い武士のイメージで暴走していますけれども、「侍」っていうのも、要するに職業軍人、要するに食っていくために、自分が生きていくために、主君のために戦うということを誓って、その代わりに田畑から取れる食料をもらう。そういうような制度、それが文字通り封建制度、土地によって権力基盤とその権力に対する従属関係、それを確立するということですね。

 そういう「侍」という階級が日本の中で大きく登場するのは、平安期以降でありますけれども、その「侍」という、言ってみれば「傭兵」が、やがて自分たちの力でもって権力を握る。鎌倉幕府がその最初であったかどうか私はあまり歴史詳しくないのでわかりませんが、一種のクーデターでありますね。公家・貴族の政治に対して、傭兵部隊が、自分たちが権力を握って政治を牛耳る。一応公家からは「征夷大将軍」というような、「征夷大将軍」というのもひどい言葉ですね。蝦夷を征服する将軍、そういう名前をもらって、政治の実権を握り、世の中を取り仕切るわけです。その「侍」というのは、まさにさぶらふ、奉仕するという「奉仕」、それと多分語源は同じなんではないでしょうか。侍、さぶらふ人。要するに奉仕するというのは、自分の武力を「主君のために奉仕する」ということですね。もしかすると、語源的には違っているのかもしれません。しかし、社会的な構造としての意味は変わらないと思います。武士という階級が権力を奪取し、クーデターに成功してから、様々な武士が全国各地に台頭し、それぞれの縄張りに置いて自分たちの力をより大きなものにしようとする戦国の世の中もあるわけですね。そしてその戦国の世の中を統一して、全国を完全に一つにする。これ一種の覇権主義でありますけど、それに最初に成功するのは織田信長と言われていて、織田信長はその野心半ばにして倒れる。そしていろいろなことがありますが、豊臣がそういう大統一の権力の旨みを独占する。そしてその豊臣も徳川の巧みな策にかかって、秀吉亡き後は短命政権で終わり、その後徳川の時代が来るわけです。

 ローマが専制君主制度を敷いていましたけど、その専制君主を選挙で選ぶ、専制民主制っていうふうに言うのがいいのかもしれませんが、そういう制度を通じてヨーロッパの地中海沿岸から北方まで少し及ぶ地域まで、ローマの支配権が及ぶとなると、結局そこでは戦争は起きませんから、ローマが完全に統治するので、Pax Romana、ローマの平和という時代が続きます。日本においても、まさにPax EdoっていうかPax Tokugawaというか、そういう時代が300年くらい続くわけですね。しかし、それが西欧列強との力関係の、西欧列強の帝国主義の一番華やかな時代でありましたから、その混乱の中で日本の中でまたクーデターが起こる。それが明治維新でありまして、それまで薩長、薩摩とか長州とか徳川からあまり重く扱われていなかったところが反乱を起こし、その反乱が全国に波及して、言ってみれば本当に最後の最後まで抵抗した会津藩のようなところを除いては、全国統一に成功してPax Sacchouというか、Pax Meijiっていうのが、続くわけです。

 しかしながら平和であったのは日本国内だけでありまして、日本国内でも明治政府の様々な改革に対し、農民一揆のようなものはいっぱい起きていたし、不安定な要因はいっぱいあったんですけど、国内における大きな戦争というのは、薩摩との戦争を境目としてほとんどなくなるわけですね。それに対して外国との間に摩擦が起き、日清日露という二つの大戦争がある。その二つの大戦争が誠に運命のいたずらというか、要するに野球で言えば敵失、敵の失敗っていう、それを主たる原因とし、そして日本に優れた戦略家がいたということもあって、その二つの大国に勝つ。そういうことをするわけです。そういう事件が起こるわけですね。そしてPax Meijiが終わって、それからは軍国主義に向かって、日本が突き進んでいくわけであります。そういう意味で、日本も傭兵制度という制度は江戸の前期くらいまでで終わって、江戸の中期後期においては傭兵制度としての侍が、戦争がないがゆえに職を失うという、非常に寂しい時期を過ごさざるを得なくなるわけです。この平和が続いたことによって、武士政権というのが意味を持たなくなるわけですね。

 私が何でこんな話をしたかというと、実は傭兵っていうのはけしからん。ワグネルってのはけしからんっていう日本人がとても多いと思いますが、実は傭兵という制度そのものは起源が古く、私達の歴史においてもそういうものがあったんだということ、それがまず第1点。そして第2に、実は現代においても、ワグネル以外に傭兵というのがあるということです。お金で雇われた軍隊っていうのがある。軍人自身は志願してなるのでありますけど、当然のことながら、それにはいろんな特典がついているわけでありまして、終生保証されるとか、アメリカなんかの場合でいくと何年か軍隊生活をすると大学入学の資格が得られるとか、いろんな特典が付けられています。でも要するに生活のため、あるいは特典のため、あるいは自分の人生のために、自分が兵隊となって奉仕する。本質的には傭兵と同じ構造を持っているんだと思うんです。つまり自分が戦いたくて戦うのではなくて、他者のために戦う。人からの命令を受けて戦う。という点では傭兵と全く同じであるということですね。ちなみワグネルというのはロシア語でそう言うのですがけしからん話でありまして、音楽家リヒャルト・ワーグナーのロシア語読みになりまして、リヒャルト・ワーグナーの作品の中には有名なワルキューレ序曲のように非常に不気味な戦争を連想させるものがもちろんありますけれど、そしてヒトラーの側近の中にもワーグナーが大好きだったっていう奴がいるという話もありますけれども、しかし、ワーグナーの作品が全てそういうファシスト的、悪魔的あるいは軍隊的なものをではなくて、もっと違う美しい旋律もいっぱいあるので、ワグネルというのはちょっとけしからんとは思っていますが、日本人の多くの人はみんな憎み軽蔑していることでしょう。でも、その憎み軽蔑する前に、実は傭兵という制度が世界の歴史の中にはずっと長くあった、そして私達の歴史の中にもあった、ということを忘れてはならないと思うということです。

 そして、実はそれは過去の話だけではなく、現代もそうだということですね。皆さんは、ロシアのプーチン政権に反対して抵抗運動を組織している人たちが、次々と警察官に弾圧され、逮捕され、あるいは留置場に送られる、というようなシーンを見ていると思うんですね。そのような警察官の暴力、それは警察官が個人的な好き嫌いでやっていることではなくて、まさに彼らが「自分の仕事として、戦争反対派を弾圧する」という任務を自分に課しているわけですね。つまり、警察官というのは、まさに現代の傭兵であるわけで、普通は傭兵という言葉を使わずに、「権力の番犬」というような言い方をしますが、権力が都合がいいように動くわけです。犬ってのは、まさに飼い主が誰であるかがわかっていて、飼い主の命令に対して非常に忠実な動物であるといいますけれども、警察っていうのはまさに権力の犬であるわけですね。もちろん、一人一人の警察官がみんな悪人だって言っているわけでは全くありません。私は警察官の友人もいますから、気のいい警察官がいることもたくさん知っています。しかし、要するに職業としては警察官も傭兵と同じだということです。暴力を振るうことによって、自分の生活を支えている。そういう悲しい職業ですね。

 そこで問題になるのは、その警察官たちに命令を下している権力というのは、自分の好き勝手に命令を下しているのか。例えば、香港政府やあるいはロシアにおいて中央政府の意志を無視して、末端の警察官が、自由を求める人々、あるいは国の政策に反対する人々をこん棒で殴ったりしているのか、というとそうではないですね。当然のことながら、権力はそれを正当化するための法律っていうのを作っていて、法律の違反する人間に対して、罰している。Punishmentっていうふうに言いますが、法律の名においてやっているわけです。法律がなかったならば、その権力者の横暴でそれがなされているんだとすれば、それは北朝鮮のような国であればそういうことがあるかもしれませんけれど、普通の意味で近代国家においては、法律によらない権力の執行っていうのはあり得ないはずです。それが裏に隠れた、あたかもあったのではないかと思わせる事件が、我が国では最近ありました。恥ずかしいことですね。

 法律に従っていなければならない。これは最小限、守らなきゃいけないことですが、最近政治家の口から「法の支配」という言葉がしきりにと発せられる。それを聞いて、私は少し寂しくなりました。それは法律というのは所詮人間が作り出すものであって、人間が作り出すものである以上、極めて不完全であり、そして、ときに不合理なものである。その可能性に考慮しなければならないということを、すっかり忘れているということです。もちろん「法の支配」という言葉を政治家が言うときには、おそらくは国際法の支配ということだと思います。国際法というのは国連と同じような理想主義に燃えて、地球上の国全体が、国際的に守らなければいけない法律として、定めようとしているものでありますけれども、残念ながら国内法と違ってあまり有効でありません。ロシアがウクライナでしていることは国際法違反ですが、国際法違反でありながら堂々とそれが行われている。それはなぜか。それは国際法を全ての国に守らせるための「権力の暴力装置」という、いわば軍隊とか警察、それを持っていないからです。国内法と違って国際法の世界では、全ての国々の政治家が良識ある判断をするという、いわば観念的な理想主義、それに基づいているわけですね。まさに国際連合UNと同じです。UNの場合はご存知の通り常任理事国という第二次大戦の戦勝国、アメリカ、大英帝国の後のUnited Kingdom、フランス、ロシア、中国、これが常任理事国という権限を持っていて、それゆえに安全保障理事会という最も重要な委員会もほとんど機能しない。日本はそこの非常任理事国になった、あるいはなるために大きな努力をしたということで、得意になっていますけど、非常任理事国の持っている力なんて本当にわずかなものです。「私達は国連にあまり多くのものを期待することができない」ということが常識であるべきなのに、日本人はどういうわけか国連に対して無条件の信頼を置いています。それは国際連合のようなもので、世界平和が達成される。それが世界平和を達成するための唯一の道であるっていうふうに、国民みんなが期待しているからであると思いますが。その期待を私も持っていますけれども、その期待が儚いということも一方で忘れてはならないと思います。

 結局のところ権力が力を持つのは、その権力が法律に基づいて武力を行使することができるということにおいてであり、国際連合が力を持たないのは、国際連合がそれぞれの国の軍隊に相当するような大きな暴力装置を有していないからです。国連軍というのが名目的には存在しますけれども、全く通常の国の軍隊とは比較することができないくらい小規模でかつ戦闘能力の乏しいものであります。そして警察もありません。国連は人類の基本的な理念、人としての生き方、そういうものに信頼を置いて、日本国憲法の前文のような精神に基づいて設立され、運営されているものでありまして、したがって国際紛争に関してはなかなか力を持ち得ないわけです。ですから、法の支配っていうことを言うときに、国際法が支配する世の中を作るためには、国際法に対してそれを違反したら罰する監獄であるとか、警察であるとか、そういうのを作らないと、守らせることができるはずがないわけですね。

 他方、国内法においては、まさに軍隊や警察がありますから、もう徹底して国内法というのはビシビシとくるわけです。それが「法の支配」という言葉でもって私達を支配することが本当に理想的でしょうか。これは極端な例というふうに言われるかもしれませんが、日本には道路交通法っていう法律があります。その法律に基づいて、やれ一時停止であるとか、やれ信号がどうのこうのであるとか、あるいはスピード制限があるとか、いろんなものが細かく決められています。しかし、道路は状況によって最適に使う使い道っていうのがあるわけでありまして、例えば救急車などがその目的のために信号やスピード制限を守らないということは、道路交通法よりも重要な問題があるからですね。実は救急車や警察車両に限らず、それぞれの人に重要な目的はあるわけでありまして、そういうことを一切無視して道路交通法っていうのが世の中を支配している。道路交通法くらいはまだしも、スピード制限を抑制するために「ネズミ捕り」という制度がありますね。人間が作るネズミ捕りでさえ、ネズミに対しては非常に卑怯な手段であり、もし昔の侍同士の戦いであるならば、卑怯なり!っていうふうに言うところでありますね。餌でおびき出して、そこで捕まえる。本当に卑怯な戦法です。そのネズミに対してさえ、到底人道的とは言えない悪逆非道な取り締まり。それを、人間である警察官が他の人間に対して行うっていうのはいかがなものでしょうか。多くの人がご存知の通り、ネズミ捕りというのは、警察官がやっているネズミ捕りは、みんながここではスピードを出したいと思うような場所で、スピード制限が厳しく課せられている、そういう道なんですね。ついスピードを出したくなる。そういう道ってあるんです。人通りが急にまばらになる道であるとか、急に太くなる道であるとか。そういうところで影に隠れて見張っている。これも法律に基づいているんですね。法が支配している。こういう「悪法」が支配する世の中というのは、決して理想的とは言えないのではないかと私は思います。「道路交通法違反くらいで目クジラ立てるなよ」っていうふうにおっしゃる人がいるかもしれません。しかし私は一事が万事、日本はそのような非常に権力の、非常にせこい権力行使がいたるところにあるので、とてもじゃないけど、「法の支配」とかって言えない。国会の議論を聞いていても、これが到底法の支配する世の中とは思えない、こういう話題はいくらでもあるわけですね。その中で実は道路交通法のような、本当に末端の庶民を取り締まる法律が、大手を振って歩いている。これはまずいのではないでしょうか。そして恥ずかしいことなのではないでしょうか。

 私の友人の中には警察官も多くいるという話はしましたが、まさに道路交通法の違反で、ネズミ捕りで手柄を立てていたという強者もいます。よく国民の間では、警察官は1日何人捕まえるっていうノルマがあってやっているんだというふうに、まことしやかに言われていますが、そんなことはないと私は友人から聞いています。警察官の中で検挙率の高い人は重んじられるという傾向は否定できないとしても、それによってボーナスが出るというようなことは露骨にはないということであります。それは警察官の名誉のために付け加えておきたいと思いますが、しかし、そういう制度が、「『警察官として自分たちがやらなければならない義務である』ということから解放されて、本当に嬉しい」といった知人の言葉もここで付け加えなければいけないと思うんですね。

 「傭兵」という制度には、非常に非人間的な側面がある。「傭兵」として生きていかざるを得ないという人がいるとしても、できれば「傭兵」という身分から自らを解放する方向に向けて努力してほしいし、その努力を私達も力強く見守りたいと思うのです。

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