長岡亮介のよもやま話70「若者と政治」

 今日はこれまでと少し違って、皆さんにとって本当は緊急と言って良いと思う、そういうお話をしたいと思います。皆さんは、特に若い方は政治にあんまり関心がないと言われています。現状に満足しているとも言われています。私の時代、今から半世紀以上も前になりますが、その時代には若者が大変に政治的であり、政治的な問題について侃々諤々と議論をしていたことを懐かしく思い出します。今から考えてみると、実に幼稚で、そのような議論に先立ってもっともっと歴史を勉強しなければいけなかったということを痛感していますが、私は今の日本の状況を見ていると、まるで「興国日本といって、日本国民がこぞって自ら軍国主義に身を捧げていった」、それと同じように、与えられた情報を鵜呑みにして、一つの方向に向かって人々が一斉に走っていく。少し違うのは、一人一人が語る言葉が、昔よりも不明瞭で、昔は「欲しがりません、勝つまでは」とか「鬼畜米英」というような訳のわからん言葉に、国民が一丸となって踊っていたわけですけれど、それと比べると今の若い人の言葉はそれほど明確には一致していません。しかしながら、「なんとかみたいな」というような表現、それに象徴されるように周りの雰囲気に合わせて自分の言葉を自分の責任を持ってきちっと発するということは、相変わらず苦手で、他の人と同じような意見、他の人と同じような流行に乗ること。それを恥ずかしいと思わずにむしろ自ら率先してやっているところがあるような気がするのです。

 そして私から見ると、今の特に大学生以降の年齢の人たちが置かれている社会的な地位あるいは経済的な身分、それは私より以前、あるいは戦前の大学生が置かれていた特権的な身分とはまるでほど遠く、大げさに言えば貧民層のような生活を強いられている。大学に高い学費を払いながら、かしほとんど勉強する機会を奪われている。大学の授業は聞いて心が躍るようなものではなく、退屈極まりないもので、しかしそれを我慢して受けていれば4年後には卒業証書という資格が与えられ、就職ができる。就職したところで、もはや日本の資本主義は戦後の一時期にあったような勢いを完全に失っており、そこで新しいものを作る、あるいは新しいサービスを開拓するというようなことはほとんどできなくなっている。

 企業の人たちも喋る言葉がみんな一様になってきて、Win-Winとか綺麗な言葉を語るんですが、あるいは働き方改革というような言葉をしきりというのですけれど。働くっていうのは、あるいは物を真に創造するということは、そんな簡単なことなのでしょうか。9時から5時まで勤めれば、それでイノベーションが本当にできると、人々は思っているのでしょうか。人ができない努力をするからこそ、本当に驚くような事業のイノベーションが可能になる。あるいは個人で活動するスポーツ選手やエンジニア、職人であれば人にできない努力をしてこそ、人に作れないものを作り出すことができる。それは当たり前のことだと思うんですね。医者にしてもそうですね。人にできない努力をするからこそ、人が見分けのつかない病気を発見することができる。努力することなしに、人は新しいことをできるようになるはずがない。私はYouTubeの中に、ときに立派な情報発信があるということも知っていますが、社会の中で指導的な立場に立つと思われている人たちが、実際に恥ずかしいもなく間違った情報、あるいは学会のガイドラインといったマニュアルに従いながら全く創造性を欠いて、唯一の創造性は、その人のちょっと私としては信じがたいような自己宣伝、それを平気で行っている。YouTubeというところにたくさん発信して、フォロアーというファンがつくと、それだけでお金が入るといううまみを狙っているのでしょうが、本当に恥ずかしくないのかと思いますが。

 そういうふうに若い人々が追いやられるほど、実は今の若い人たちの置かれてる環境は貧しいと思うんです。その貧しさから出してほしい。豊かな青春時代、あるいは成熟した壮年時代、それを迎えてほしい。豊かな人生を生きてほしいと願うのですが、今は生きた人生、本当に自分自身の大切な一回こっきりの人生を生きているってという実感があるでしょうか。みんなわずかなお金のために、そしてわずかな快適さのために、自分の人生を売り、売ってですね。その代わりにそのわずかな快適さを手に入れる。しかしそのわずかな快適さのために、自分の人生を犠牲にしている。そういうふうに思うことはないでしょうか。

 政治的無関心という言葉は、私の時代から言われていました。そして、大衆社会が進行するにつれて、人々は政治に対して無関心になっていくということを喝破していた社会学者、あるいは政治学者たちの分析の鋭さに、今更ながらに敬服しています。しかし、皆さんがもし現状に満足して今の政治にNON、そうではないと否定、そうではないという声あげれば社会は変革しうるのです。くだらない、いてもいなくても変わらないような、ことなかれ主義の政治家なんかを全員クビにすることができるのです。民主主義社会では国民が権力の基礎であるはず。国家の基本なんですね。ということは、今の若い人たちが置かれてる状況に対して、もしちょっとおかしいぞ、こんなはずじゃなかった、あるいは諸外国ではそうではないという情報を手に入れたら、皆さんは自分たちが実は極めて「豊かな」と反対な全く「貧しい」環境に置かれている。テレビさえくだらない。インターネットニュースにいたってはもっとくだらない。「広告だらけの世界に、広告に踊らされて消費者として扱われているに過ぎない」という現実に、きっと目覚めると思うのです。

 今フランスやイギリスなどでは、公務員などを中心に大きなストライキがありますけれども、ことの問題の是非はともかくとして、労働者が国に対して断固として戦うという姿勢は、イギリスではピューリタン革命とか名誉革命、フランスでは有名な大革命を経験して、本当の意味で共和国、「国民が政治の基盤である」というのを確立した国において、このような大規模な政治的な騒動が起こっているということ。これは当然といえば当然ですが。他方、社会保険の財政の不健全化を、断固として食い止めようとする、そういう政治家の責任感にも私は敬意を表します。というか日本人としてはそれを評さざるを得ない。日本では与党はもちろん野党の一部でさえ財政の垂れ流しを容認するというか、それを推進して自分の手柄とする、そんな馬鹿げた政治が今も続いています。そして、そのことの破綻は明らかに近い将来に見えているはずなのですが、それを見ようとしない。そういう今の日本の政治家に対して、皆さんはそれは自分たちの未来に対してとんでもないことであるというふうに、怒りを上げて良いと私は思うんです。そして、そのような怒りは、言ってみればきちっとした生き方をするという自分に対する誠実さ、それに基づくはずですから、若者がそれに怒るということは、若者の権利であると当時に、若者自身が人間として成長していくための非常に大切な経験になるはずであると。そして、若い人たちは、今は社会の中で単なる消費者としてゴミ屑のように扱われているけれども、本当は次の社会を担うリーダーであるのだということを、時々思い出してきっぱりとした生き方、毅然とした生き方、それに対して時々思い出し、日々の過ごし方を反省するというようなことがあってもいいのではないか、と私は考えています。

 今日の話はいささかいわゆるアジテーション、扇動のようになりましたけれども、もしこれが全体主義国家であるならば、私は直ちに牢獄に閉じ込められ、処刑されて、発言を封殺されるということになるかもしれません。しかし、幸い日本ではそこまで情報統制を厳しくするほど、権力の立ち現われは厳しくありません。しかし、フワッとした情報管理の中で、公共放送までが報道機関として牙を抜かれたような報道しかできない。そういう状況の中で、皆さんがしっかりと生きるために、海外の報道をきちっと聞き、世界の人々と連帯して、皆さん自身の未来を切り開く。そのためには政治的な関心も含めて、社会に対して皆さん自身が参加していくという意識を持つことは大切ではないかと思います。いささかアジテーションめいていますけれども、しかし、これはアジテーションというよりは、私の皆さんへの激励であると、そういうふうに受け取っていただけたら幸いです。

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