長岡亮介のよもやま話68「ルネッサンス」

 今日は、前回と同様バックグラウンドミュージックをかすかに聞こえるようにして、このメッセージをお送りしましょう。前回同様これも著作権の問題をクリアした音楽ソースです。このような素晴らしい、いわゆるクラシックミュージック、クラシカルミュージックっていうのは英語でふさわしいのですが、それを私達が本当に気楽にアクセスすることができるようになったということは、私達のこんにちの生活の本当に便利な点ですね。ところで実は音楽の世界ではこのように、クラシカルミュージックあるいは日本語でクラシックというものを語るときに、実はものすごく近代のもの、つまり私達の時代に近いものに過ぎないという話を前回したのですが、私達はそういう近い過去でさえ、えらい昔のものというふうに思ってしまいがちで、これはとてもまずいという話をしたんですが、では他の芸術はどうだったのかという問題提起をして終わりました。

 音楽と並んで、私達にとって最も身近な芸術、それは当然のことながら絵画とか彫刻あるいはもっと広く建築でありましょう。なんと驚くべきことなんですが、音楽の世界では例えばバッハっていうのは古典中の古典というふうに言われていますが、やはり18世紀の人に過ぎない。近代の数学でいえば、微積分がもうできていた時代の話なんですね。ヘンデルやベートーヴェンと言っても、やはり私達の時代に近い人なんです。それに対して美術の方は驚くべきことに、遥かに長い歴史を持っている。ラスコーの壁画のような力強い、本当に私達にとってえらい昔の、つまり文字を持たない時代、石器時代の文化においてさえ、高い水準の芸術感覚を持っていた美術が数多く見つかっている。さらには古代文明の代表とも言うべきメソポタミア地方の美術、それに関しても今残念な政治的な事件でいろいろと破壊されてしまった大建築、大神殿がたくさんありますけれども、ものすごく高い水準の建築技術や彩色文様の工芸品があったということが知られています。

 エジプト美術については日本人にはとりわけ馴染み深いのはツタンカーメン、これは、本当はエジプト王朝の末期でありますから、もっともっとさかのぼってピラミッド、大ピラミッドが建築された時代、あるいはそれ以前の王朝の芸術にさかのぼるのも重要ですが、あのような大建築をなしたということは、大変なことでありまして、石材が豊富に運ばれてきたということがあると思いますが、石だけでもって大げさに言えば、立方体にし、それを積み重ねる。もちろんそれだけではあんな巨大な建築物を作ることはできない。それをきちっと組み合わせるために、溝を掘って、それを組み合わせる。石組みの技術ですね。それを使ってエジプトでは、こんにちに残る大建築を作ったわけです。そして、その大建築の中に残されている非常にきらびやかな装飾品、その芸術的な水準に私達は心を打たれるわけでありますね。そのような高度な芸術文明を持っていたのはエジプト王であるわけです。それは私達にとって非常に身近な存在です。

 しかし、エジプト美術が最高点を達したかというと、実はギリシャ世界においては、それをさらに高めた芸術がなされていたわけでありまして、今でもアテネに残る神殿とか、あるいはもっと私達にとって迫力を持って伝わるのは、ギリシャの彫刻芸術でありますね。ものすごく素晴らしい。近代のミケランジェロしても「これに付け加えるものは何もない」と言わしめたほどの完璧な芸術的な美しさ、それに到達していた。驚くべきことです。そして私達はあまり区別しませんけれども、ローマも芸術的に高いレベルにまで到達していました。ローマというと、政治支配だけに精通していたようでありますが、学問はともかくとして、文芸と美術あるいは建築に関してローマが達していた高い水準というのを、私達は忘れることができません。そしてそのローマが滅びた後、あるいはローマ自身が自己解体を遂げることによって、キリスト教世界に乗り移った。このキリスト教世界が、初期の段階からやがてヨーロッパの地中海世界全体に普及していく。その過程を通じて美術様式を多様化し、私達には日本人には少しなじみが薄いですけど、今で言えばトルコでありますが、そのビザンティン、コンスタンティノポリス、今で言えばイスタンブールありますね。そこを中心として栄えたビザンチン文化とその芸術はそれ以前のいわば人間的な美しさを追求したものから高度の精神性を追求した、私達から見ればちょっと怖いようなそういう高い芸術の域に達していたわけでありますね。

 ビザンチン時代に入ってようやく私達は、絵画を通した芸術というものに触れることができるわけですが、残念なことに私達がよく知っている、いわゆる西側ヨーロッパ諸国において、中世という長い時代があり、私達は中世は暗黒の時代であったっていうふうにしばしば教えられているのですけれども、これはひどい誤りであって、有名な科学史家の言葉に、「中世は暗黒ではない。暗黒なのは我々の中世についての知識である。」という言葉があります通り、中世は非常に高い水準の文化が開いたわけです。その中世において、特にやっぱり美術の世界においては、目を見張るものがありまして、当事写真技術がありませんでしたから、美しい本を作るための様々な装飾技術あるいは本を飾る技術、写本という手で写した本、それを作る技術に関しては素晴らしいものをもたらしたわけであります。

 しかしながら、面白いことに中世の美術はいろいろな様式をたどって、やがてロマネスク様式であるとか、ゴシック様式であるとか、すごい芸術が花開くわけですが、主に彫刻とか建築が中心なんですね。絵画が芸術の中心にやってくというのは、やはり近代に入ってからでありまして、ようやく近代に入り、いわゆるルネサンスの時代に芸術は美術や彫刻を中心として、すごく華やいだ発展を遂げるわけです。ですから日本ではルネサンスっていうとイタリアの芸術のルネサンス、それだけを考えがちであるという誤解、誤った考え方、それが普及してますが、その誤った考え方が、単なる過ちであると言えないくらいイタリアにおいて、華やかな芸術上のルネッサンスが来るわけです。ルネッサンスRenaissanceというのはフランス語ですが、ルーネテルre-naitreもう1回生まれるという言葉からきているわけね。それは中世を過ぎたヨーロッパの人々が、自分たちが実は古代のギリシャやローマの高い文化の継承者であるというふうに考え、その正統的な後継者としてギリシャ文化を中心として高い水準の文化を復旧する。言ってみれば古代の文明の再生であったわけです。

 その再生運動は、実は学問が中心でありまして、古代ギリシャの哲学であるとか、自然科学であるとか、数学であるとか、それがヨーロッパにおいて深く研究された。これが重要なルネッサンスなんですが、芸術においては、やや遅れて14世紀くらいに初期イタリアルネッサンスっていうのが起きるわけですね。本当にイタリアルネッサンスの起こる前に、実は自然科学上のルネッサンスがあったっていうことが本当は大切なんですが、芸術においてもルネッサンスが14世紀の終わりから15世紀にかけて起こってくる。このルネッサンスにおいて非常に重要なのは、有名な名前で言えば、フィリッポ・ブルネレスキっていう人で、彼は15世紀の中頃までは活躍した人でありますが、こんにちもフィレンツェに残るサンタ・マリア・デル・フィオーレっていう教会の天蓋っていうか、丸天井ではないんですね、あれは何て言っていいか複雑な形を持った天蓋。その設計をしたということで大変に有名でありますけれども、彼がやった貢献というのが非常に大きい。それは何故かというと、このブルネレスキによって初めて近代的な建築、あるいは近代的な絵画のための基礎の理論が作られたということです。

 とりわけ大事なのは、ブルネレスキから継承された弟子として影響を受けたアルベルティ、そういう人たち、あるいはアルベルティからさらに影響を受けたドナテルロ。そういう人々によっていわゆる「透視図法」というのが確立されることでありますね。当時は建築やあるいは彫刻が中心だったんですけれども、実は絵画の世界に、この「透視図法」が普及してくる。その中で最も有名な人、何人かいますけれども、そういう透視図法が確立されたことによって近代絵画の世界っていうのが開けるわけです。それまでの絵画っていうのは、宗教絵画でありまして、透視図法っていうのは全く無視されていた。様々な聖書の出来事が、一つの絵の中に、言ってみれば遠近法と無関係に書かれていたわけです。このような中世の芸術と全く違う新しい近代絵画というのが生まれる。その近代絵画を生んだ基本に、「透視図法」という数学的な手法、これは「一点透視」っていう数学で言えばそういう言葉で語られるものでありますが、そういう芸術的な方法が数学を通じてルネッサンスの絵画の中に取り入れられてくる。しかし何と言ってもやっといわゆるルネッサンスの時代であるわけですね。そのルネッサンスの時代の最初の有名なのはマサッチオという人のフレスコ画であるとか、あるいは「受胎告知」という有名な、絵画で有名なフランジェリコでありますが、透視図法による遠近法、それによって空間的な奥行きの表現、それに成功するわけですね。同時に光の研究というのもこの時代に進んだ。

 つまり、数学を筆頭とする数理的な自然科学の発達が、芸術にも大変に影響を及ぼし、美術の世界においては、あるいは建築の世界において、彫刻の世界において、近代的な手法が開花する。それもなんといわゆるルネッサンスの時代であるということですね。それが最も頂点を極めるのは15世紀と言っていいでしょう。15世紀から16世紀というふうに言った方がいいかもしれませんね。とりわけその中で有名なのは、私がやはりこの時代精神を最も感じるボッティチェリでありますね、「ヴィーナスの誕生」っていう。フィレンツェのある美術館にいい所蔵されていますけれども。非常にこの時代を物語る重要な作品です。

 この時代には、メディチ家という有名な豪商、お金持ちの商人ですね。その商人の支配するフィレンツェからイタリア全土に新しい芸術手法が広がっていくわけでありますけれども、それだけではなくて人体を解剖することによって、人体表現について本当に科学的な所見、それを反映した絵画が登場してくるわけです。解剖学というと、皆さんの中には気持ち悪いっていうふうに思うかもしれませんが、ルネッサンスの人々が人間を科学的に理解しようとした、そういうものすごい情熱に突き動かされた行為であったわけです。解剖というとレオナルド・ダ・ヴィンチが有名でありますが、彼が活躍したのも15世紀の終わりから16世紀にかけてでありました。レオナルド・ダ・ヴィンチはミケランジェロと並んで天才の名前を欲しいままにした人でありますが、残念ながら63歳くらいで亡くなっている。ミケランジェロは、レオナルド・ダ・ヴィンチよりもかなり30歳くらい若いんですけども、もう90歳まで生きたおかげで、ミケランジェロの作品していうのはレオナルド・ダ・ヴィンチより後の世代に大きく注目されるわけであります。ミケランジェロの場合は彫刻が多いわけですが、現在も残るサンピエトロ寺院に残る彫刻、それにミケランジェロの偉大な作品があります。ローマやフィレンツェにもミケランジェロの素晴らしい作品が残っていますね。

 そしてなんといっても絵画の世界では、ラファエロがいるわけで、ラファエロっておそらくレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並んで三大巨人のように言われていますけれども、やはり1520年に亡くなる。でもそれはなんと彼が37歳のときですから、こんなに若くして亡くなりながら、あれだけの素晴らしい作品を残した。サン・ピエトロ寺院にあるスィスティーナ礼拝堂には、ラファエロの間、ラファエロの部屋というのがあるくらい、ラファエロは多くの作品を残したわけですが、実は彼が1人でやったというよりは、彼は大きな工房を抱えていて、弟子たちがたくさんいた。その弟子たちの手を通じて、ラファエロの高度な芸術、これが伝わっていったわけです。

 しかし、このときに忘れてならないのは、彼らのそのような作品を可能にならしめた科学的な技術、それを忘れてはならないということです。つまりミケランジェロとかは基本的にフレスコ画、つまり漆喰に絵の具を塗る、そして漆喰が固まると同時に絵の具も固定する。そういう仕方で描いていたわけですね。それに対してレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「モナリザ」なんかも含めて油絵であるわけです。油絵という技法が発明された。これがすごいことでありまして、いろいろな顔料を溶いて、それを油を使って絵の具として使う。このような油絵の手法というのは、実はイタリアルネッサンスのイタリア期ルネッサンス期のイタリアで発明されたというよりは、実はイタリアの遥かに北方、今で言えばオランダとかフランドル地方って言った方がいいのでしょうけれども、そういうところで毛織物産業でえらく設けた市民たちのスポンサーシップによって花開いた芸術文化、その中で開発された絵の具の発明というのが大きいわけでありますね。「ヘントの祭壇画」という歴史上有名な絵画がありますが、その絵画を書いたファン・エイク兄弟、兄と弟、その二人によって油絵、油彩という技法が確立されたっていうことが非常に大きいわけです。

 レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、こういった巨匠が出たことによって、これが15世紀から16世紀にかけてのことでありますけども、このようなものすごい巨人が出たことによって、実はその後、芸術はむしろ残念ながら萎縮するわけですね。というのは、あまりにも素晴らしい先輩たちが出たならば、その後の後輩は自分たちはそれを超える何かをしなければならない。ですから例えば有名なカラヴァッジオなんていうのがラファエルの弟子として有名な人でありますが、彼らの芸術は「マニエリスム」というふうに言われている。様式主義というか、要するにルネッサンス期の芸術活動を超える新しい芸術。それに挑戦しようとしたということであります。こういう時代を経て、実はこれはもはや近代絵画というよりももう本当に古典的な絵画の世界でありますが、もう古典期にほとんどその芸術美術として本当に確立されてしまった。イタリアだけではなく、北方の地方フランドル地方においても非常に高い水準の芸術美術活動、これが展開されるようになったということですね。

美術は音楽よりも遥かに長い歴史を持っているということが私の話の第1点。そしてもう一つは、そのような長い歴史を持つ美術に革命的な転換をもたらしたものに、透視図法というか、遠近法と言った方が身近かもしれませんが、そういった数学的な技法の導入、そして油絵という一種の近代的な化学の前身に相当する錬金術の科学的なバージョン、それが非常に大きな功績を残したということでありますね。

17世紀から18世紀19世紀にかけて発達する芸術活動は、バロック様式とかロココ様式、そういうふうに呼ばれますが、その時代からはもう本当に展開が目覚ましいわけです。美術においては、次々と新しいものに挑戦がなされて、19世紀に入ってからは私達もなじみ深いバルビゾーン派と呼ばれるような芸術家集団が出てくる。そしてその芸術家集団の影響の中で、印象派というのも出てくるわけですね。日本人は最も馴染み深いマネとかモネという人でありますが、その時代に来るともう19世紀でありますから、本当に私達の時代に近いわけです。でも音楽の世界ではこの時代をクラシックっていうのに、美術の世界ではクラシックって言いませんね。美術の世界ではなぜそう言わないのか。私はその理由を想像するだけの学識しかありませんが、おそらくそういうものを古典という分には全くふさわしくない。言い換えれば遥かに昔の古典が残っているからです。そして、いわゆる絵画の世界において、絵画の世界の開拓が彫刻や建築に遅れるのは、やはり古代ギリシャ・ローマの絵画、それが残っていない。ほとんど失われてしまっていたということが大きいんだと思うんですね。それに対して建築物や、あるいは彫刻が残っていたということがある。そしてしかも絵画といっても、画家にとって描くことが容易な油彩という方法が、実は近代になってからしか開発できなかったという問題があったんだと思います。そういう近代絵画あるいはルネッサンス絵画、そういうふうに私達は言いますが、音楽と比べて遥かに昔にそれがなされているということに、私達はそれを心に留める必要があり、それを引き起こしたのが実は数学と近代的な科学の精神であったということです。

 絵画の歴史をその社会的なバックグラウンドと共に見ることを通じて、私達は近代社会を形成する上で、数学や近代科学がいかに重要な役割を果たしていたかということ。決して表面に出る表舞台に出る華やかな活躍ではなかったかもしれないけど、それを支える大変重要なバックボーンを提供していたんだということを忘れてはいけないと思うんですね。近代絵画の歴史に関しては、それこそ皆さんの方が詳しい方もいらっしゃるでしょうし、多くの本が出ていますから勉強するのも面白いと思います。絵画史を考えるときに、時々その私が今日お話した近代科学の技術、あるいは近代数学の精神、それが重要な役割を果たしていた。ルネッサンスというのは、実は単なる「人間中心主義の芸術の爆発である」というのではなくて、「古代ギリシャ的な科学的な精神、数学的な精神の復興であった」ということを忘れてはならないということです。

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