長岡亮介のよもやま話66「わかった気になるということ」

 今回は、私達が普段あまり気がついていない、自分が世間の流行に振り回される、あるいは振り回されているという現実に対して、あまりにも無自覚ではないかということについて、お話したいと思います。とりわけ心や体の問題に関しては、私達はその昔、病(やまい)とか病気というそういう素朴な言葉しか持ってこなかったんですけれども、その言葉を私達は非常に精密な医学的な言葉で、表現することができるようになってきて、それが庶民の間にも普及してきているんだけれども、実はその意味を本当にはわからずに使っているんではないかということについてです。

 このお話をするために少し歴史をさかのぼって、私が子供の頃流行っていた医学用語、あるいは精神医学用語と言ってもいいかもしれませんが、それを紹介しましょう。今では日常語にさえ登場しなくなった言葉だと思います。その代表が「ヒステリー」という言葉。それから「ノイローゼ」という言葉でした。ヒステリーというのは主に婦人に見られるというふうに言われておりましたが、ともかく精神的な興奮状態の中にあって、非常に乱暴な振る舞いを、本来はそんなことをするはずのない人がする、というような精神疾患と思わしき症状でありましたけれども、そのヒステリーという言葉、これを日商的に少し怒りっぽい人に対して、彼はヒステリーだからとか、そんなふうに使っていました。同じような言葉に、ノイローゼがありまして、いわば今日で言えば、精神強迫症とかいろいろなもっと細かい言葉があるのでしょうけれども、ある精神的な問題、あるいはその人の人生の出来事に関して、非常にくよくよと悩んで、解決しようもないのにひたすらその悩みの中に自ら落ち込んでいく。そして精神的に疲弊する。そういうような症状に対して、気楽にノイローゼっていう言葉を使っていました。現代的な生活に入ってきて、人々が田園的な古き良き時代の社会生活を失ってきたということの証とも言えるかもしれませんが、しばしばノイローゼ、彼はノイローゼだからとこういうふうな言い方をしていました。

 今、ヒステリーとかノイローゼという言葉を使う人はあまりいないのではないでしょうか。代わってもっと激しい言葉が使われていますね。例えば「トラウマ」という言葉ですね。彼はトラウマにとらわれている、というような言い方を平気でします。しかし、これも世界大戦という非常に人間にとって異常な現場に居合わせた兵士が、幸いにも命を取り留めて帰国したものの、明らかに心身の症状に異常な行動が見られるという症状に対して、「トラウマ」という新しい概念が取り入れられたわけでありますが、今の人たちを見ていると、なんとかがトラウマになってとか、自分のちょっとした失敗、それがトラウマになってと言って平気で喋っている。平気で喋るくらいだったら、トラウマっていう言葉は全く当てはまらないと、私は思うんです。

 同様にカタカナ言葉ではないですけど、「心の傷」という言葉も最近無批判的に、あるいは常識的な範囲で使われていると思います。「体の傷」というのは目で見てわかる大変わかりやすい概念でありますが、「心」というのはそもそもそんなに簡単に目に見えないし、目に見えないけれども人間にとって最も大切なものだということを、誰でも知っているわけですね。そして、実は「その心が何なのか」、「心と言われているものが何なのか」ということは、本当は誰もわかっていない。しかし、心の世界とか、心の生活とか、心の平静とかいろいろな言葉をくっつけてわかったような気で使っています。私達にとって心とは何か。英語にすればHeartというふうに言うか、あるいはMind、Spirit、Brain、いろんな言い方があると思いますが、Brainのように、いわば肉体的に目に見える組織として語るときには、話は簡単で、それは医療という分野の話になりますけれども、心の問題、これは精神と関わっているわけでありますから、精神医学の分野の先生方からすれば研究分野っていうことになるかもしれませんが、精神科のドクターといえども、「心とは何か。精神とは何か。」ということを、突き詰めて考えたことがある人はとても少ないと思います。有名な哲学者のヘーゲルに「精神現象学」という、少し難解な本がありますが、実は精神に私達がさかのぼって深く考えるということをしようとすると、途端にそのような難しいアプローチしかない。皆さんの中にはヘーゲルはともかく、フロイトの「精神分析学」という言葉の方が、もっとポピュラーかもしれません。

 しかし精神を分析的に語るということの難しさ、そしてそれの完全なる客観性の確立されていないということの学問的欠点は、誰の目にも明らかであるわけです。最近アメリカ映画では、特に刑事もので活躍するのは「プロファイラー」という職業で、犯人のプロファイル、日本語にすればプロフィールですね、それを科学的に分析するという役割で、映画の中でこそ、あるいはドラマの中でこそ大活躍をするわけですが、物理学における議論のような厳密性を持った議論とは誰も思っていません。娯楽映画としてみんな許しているということなんだと思います。精神あるいは心について、私達が迫ろうとする努力が様々な方向からなされていることは事実であり、心理学という分野もその一つであると思いますが、心理学者が人間の心について本当にわかっている、と思っている人は誰もいないでしょう。心理学者も含めてです。私達の心は本当に不思議な世界です。この不思議な世界を目に見えないからという理由で否定したり、目に見えないからという理由でそれを科学の対象から外したり、というのは明らかに暴論でありまして、私達は少しずつでいいから、そして自分たちのアプローチがまだまだ十分科学的というレベルには到達してないということを理解しながらも、一歩一歩「心の問題」に迫るということは、とても大切なことであると思います。

 けれども、それをあんまり簡単な問題のように語る。そういうふうにしてしまった途端に、私達は本当の意味では心に迫ることに失敗してしまうのではないか、そういうふうに私は思うんです。「心の傷」というわかりやすい表現をしてしまった途端に、心に障害を負った人々の深い病理、あるいは悩み、そういうものに本当に接近するということができなくなってしまう。私達はある意味で体の傷に対しても、あるいは体の病気に対しても、その人の傷や病気、あるいはがんというものでもいいですが、それに対してその辛さに寄り添うというか、その辛さが本当に大変なことだろうなというふうに思い、摩ることによって、手で摩る、これはいわゆる手当でありますけど、そういう手当をすることによって、少しでも楽になってもらうように努力するということは大切であり、現代の最先端の外科治療というのも、所詮はそのような手当の延長でしかないということを、私達はともすると忘れていて、私達が何でも傷を治せる、病気を治せる、そういうふうに驕り高ぶる傾向にあるのではないか、というのが私の懸念です。病気や症状に名前をつけてわかったようにしてしまう。私達がわかってないものに対して、わかった気になるということ。このことに、私達はもっともっと慎重に思慮深くいなければいけない、と私は考えています。皆さんはいかがでしょうか。

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