長岡亮介のよもやま話64「志操」

 最近電車のつり革広告をはじめとして、もっと広告規制の緩いインターネット上の広告を、嫌でも見なければならないという羽目に陥ることがあり、ちょっと考え込んでしまうことがしばしばありましたので、今日はその話をしたいと思います。広告というのは、商品に関する知識、それを広く広げて、それによって良い製品を買ってもらおうというセールスプロモーションであることが多いわけですけれども、そのときにも言っていいことといけないことがある。明らかに虚偽、あるいはそれを聞いている人、読んでいる人が錯覚に陥って間違って購入するというような広告は良くない、というふうに広告に関する規制は一般に全ての国で規制されているわけですが、最近の我が国では、従来広告が禁止されていたような領域に関しても、規制緩和という綺麗な言葉で緩和されていますね。典型的なのは、学校とか、病院に関する広告です。本来子供たちの学習を支援する、そういう学校はサービスの向上、それをうたい文句にして広告するというのは、はしたないことであると。同様に病院についても、いかなる名医と言われるドクターであっても、その自分の腕を、さも本物であるかのように、たとえそれが本物である場合であっても、広告宣伝することははしたないことである。というふうにされてきました。しかしこの十年ほど、駅や電信柱の広告は、学校と開業医、中には大きな病院もありますけれども、そういうものの広告に占有されています。

 今やインターネット上の広告は、安い回線から高品質の回線まで、回線業者さんたちの広告にあふれています。私が、これはどういうもんかなっていうふうに思ったのは、医療に関する広告で、確かに今のように病気に関する情報が、かなり難病に関してまで患者さんがその最先端の情報にアクセスすることができるようになってくると、普通の町の専門家と言われる人たちの知識っていうのはかなり患者に比べても怪しいものにならざるを得ない。日本のサイトはまだ十分な情報がありませんけれども、外国語を読むことができる人であれば、本当に最先端の知見を簡単に得ることができる。そういう状態になっているだけに、今度は逆に日本の開業医の人たちが焦るのでしょう。

 何とかの専門家ということを連呼して、広告しているわけですが、果たして医療において専門家というのはどういう人たちのことでしょうか。私に言わせると、COVID-19の非常に悲惨な影響が3年間にもわたって続いてきているわけでありますが、そのことを通じて、実はこの業界に日本にはほとんど専門家がいなかったということを、思い知らされた。最も原始的な生命以下のウイルスに関して、その賢さというか、突然変異のあり方というか、それが科学的に解明することに大きな壁にぶち当たってるというようなこと。そのことを知らずにきました。考えてみると、そういう基礎的な医学の研究は一般に基礎医学と日本で言われますが、ないがしろにされてきて、臨床医学というのが中心になってきました。そして、臨床医学においても大学のような研究機関においては、非常に狭い病気の範囲についての深い研究をするということが、研究の最先端であります。皆さんが医学の専門家でないとしたら、例えば最先端の医療というのがいかに難しいかということを、簡単な映画で体験することができます。私が感動した映画ですが、日本語では英語のタイトルでも、「ロレンツォのオイル」という映画でありまして、これは今のインターネット放送局などでもしばしば簡単に見ることができるものでありますが、
非常に厄介な遺伝性の病気で、これについて解明することには成功したわけです。X染色体と言われるものにのっている遺伝子の異常によって、その病気が発現する。しかし、その治療法はわからない。

 こういうふうにいわば原因はわかっても、そしてその原因からその病気が発現するまでのメカニズムがわかっても、治療法がわからないという難しい病気。これがたくさんあるわけですね。そして、そのようなものについての研究が、大学における臨床医学の研究の最先端ということになるでしょう。それに対して、現代の私達の抱えているほとんどの病気、これは何とか症候群というふうに総称されるものでありまして、同じような症状が共通に現れる。SARSという病気、これがコロナウイルス感染症COVID-19の元というか、諸外国ではそれが非常に第一波として深刻であったんですが、呼吸器に関する突発性の急激な激症、それが起こる。それがウイルスによって起こされているということはわかったんですが、要するにそのウイルスによって起こる症状が多種多様なので、syndrome、症候群っていうふうに日本語では訳すようですが、要するにその立ち現れ方、それしかわからないんですね。なぜそのように多様な立ち現れ方をするかいうことが解明されて、初めて病名がつくわけであります。従って、そのような最先端の臨床医療をやっている人でさえ、自分の専門分野はウイルスのこういう部分であるということをきちっと言うとすると、それはすごく狭い分野になる。それは基礎であっても臨床であってもそうであるわけです。それが、私は呼吸器の専門家だとか、私は免疫の専門家だとか、そういうふうに言い出した途端に怪しくなってしまうわけですね。今私達の先端科学は、容易には専門の領域に達することができないくらい、準備が大変長く必要である。そういうものになりつつあります。専門家になりづらい世の中。ある意味で専門家になることは簡単でもあるわけですね。非常に狭い分野のことを研究すれば、その分野のことは研究している人は誰もいませんから、直ちに専門家になる。でも専門家という言葉を振り回す人の中に、本当の専門家はいないということを、それは意味しているわけです。

 臨床医学について専門家というふうに言っているような人たちはかわいいもんでありまして、世の中にはもっとあくどい専門家がいますね。本当に情けないなと思うのは、相続税対策の専門家とかですね。あるいは結婚相談の専門家とかですね。要するに、人間の持っている情けない部分に訴えかけて、自分のビジネスを展開しようとする。これはもちろんどんな人間だって、美味しいものを食べたい、そのためにはお金持ちになりたい。いろんなところに旅行に行きたい、そのためにお金持ちになりたい。そういうふうに思うという社会常識に照らせば、そういうビジネスがあってもおかしくはないんですが、いやしくも普通の人よりも何倍も長い期間勉強に精を出してきた、その努力の結果が単なるお金儲けで終わってしまうとしたら、ずいぶん惨めなことではないでしょうか。

 私は人間の品格ということを、とても大切なものだと思っているんです。品格とか品性という言葉は使い古されているので、ここでは皆さんに、大事な日本語でありながらこれまであまり最近では使われていない言葉を紹介したいと思います。それは「志操」という言葉です。志操といっても、thoughtの意味での思想ではなくて、「志す」という漢字に、潔いと言うんでしょうか、手偏に品物を品を書いて、その下に木を書くっていうその志操という言葉ですね。志高く、そして潔い。もしかすると、訓読みは間違っているかもしれません。私の国語の能力は、小学校のときにあまり勉強しないわんぱく坊主であったということもあって、非常に貧弱です。それは残念に思っておりますが、そのことはさておき、志操という言葉について、皆さんにお伝えすることはできたと思います。「志操を高く持って生きる。」ということが、「人間として人間らしく、そして人間らしい誇りを持って生きるための基本条件」であるのに、最近はそれに反する生き方を平気でする人が増えているということは、ちょっと残念です。

 志操という言葉を理解する上で最もわかりやすい本は、新渡戸稲造という人が書いた「武士道」という本で、これは元々新渡戸が英語で書いた本を日本の東大総長であった人が翻訳したもので、それが簡単に手に入るようになってるんですが、実は英文の方も手に入ります。私自身は、新渡戸のような立派な英語を書く人の中に、たった一つでありますが文法的な間違いを発見して、どんな偉い人でも間違えることがあるんだという思いとともに、新渡戸が日本人の精神を、西欧人に対して卑屈になることなく堂々と語った「武士道」という本。武士道という精神が本当にあったかどうか極めて怪しい。江戸時代の武士たちはものすごく悲惨であったわけですから、そんな武士としての道、これが全ての武士に守られていたとは到底考えられない。しかしながら、自分たちの先祖の生き方、あるいはその先祖の生き方を引っ張ってきた生活理念、そういうものを少し美化して、嘘でない範囲で美化して、人にわかるように、外国の人にわかるように書いた新渡戸の功績はとても大きいと思います。

 新渡戸は武士道の専門家ではありませんでしたけれども、そもそも武士ではなかったはずでありますが、武士道の精神を、宮本武蔵のような剣豪よりもよほど鮮やかに書き出しているわけです。現代の社会に洪水のようにあふれる“専門家”という意見。専門家という言葉、その専門家が語る意見というわけですね。私は“専門家”と言いたい。外国人であれば、両手で人差し指と中指でダブルクォーツ『”』を両方で表現して表すところでありますが、そういう“専門家”が跋扈する世の中でありますから、そういう跋扈する“専門家”の意見に左右されない実直な生き方をしていただきたいと思っています。

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