長岡亮介のよもやま話63「好き・嫌い」

 今日は「好き・嫌い」についてお話しましょう。まずは、最もわかりやすい食べ物の好き・嫌いからです。一般に日本人でもフキノトウという、雪国の人が喜んで食べる食べ物が好きな人は、少ないのではないかと思います。私のように長野育ちの人間には、フキノトウというのは、春の到来のシンボルとして、大人たちはとても喜んで食していました。子供だった私は、大人たちのようにそれを好んではいただきませんでしたけれど、年をとってから食べると本当に美味しいなと思います。比較的子供のときから食べることができた物としては、タラの芽の天ぷらってのがありまして、これも山菜の代表なんですけれども、何とも言えない春の香りがたまらなく魅力的なものです。そして、これは癖がフキノトウほど強くないせいか、子供でも好んで食べる人が多いのではないかと思います。一般に子供の頃大好物だったもので、大人になってみると何でこれが大好物だったのかとわからなくなるようなものもあれば、子供の頃から年をとっても一貫して好きなもの。反対に子供の頃は全く苦手だったけれども、大人になってから大好物になったもの。そういうものがありますね。

 食べ物に関して、何が一番美味しいということを主張することは意味がないように思います。それぞれの食べ物に、それぞれの美味しさがある。それぞれの人に、それぞれの好みがある。私自身はビジタリアンではないので、動物の肉も食べますけれども、鶏と豚と牛とそして羊くらいが、我が国では一般的なところでしょうか。私はその中でどれが一番調理しやすいか、どれが一番美味しいと思うかと言われれば、やはり豚肉かなと思います。こんなことを言うとイスラム教徒の人に叱られるかもしれません。牛肉は、おそらく日本はそれを食する伝統がなかったんだと思うんです。明治維新の前後に、外国の人々が赤いワインを飲みながら、血の滴るステーキを食べるのを見て、西欧列強に習うためには、牛肉を食べなければいけないと、おそらく当時の人々が考えたんじゃないでしょうか。私がこのように推定する理由は、日本で牛肉の最も基本的な調理法として普及していたのが、すき焼きという食べ方で、皆さんもよくご存知の通り、醤油と酒、場合によってはみりん、砂糖、それで基本的なだしを作り、それに加えてねぎであるとか、あるいは春菊であるとか、ときには豆腐、私自身が好きだったのはしらたきという蒟蒻もどき、そういうのを加えて一緒に煮るというわけですね。そういうすき焼き、考えてみると、要するに牛肉らしくなくする。牛肉の臭みを取る。そのために当時の人々が工夫した。必死に頑張って牛肉を食べて、西欧人のようになりたかった。その願いがこもっているような調理法だと思います。

 しかし、牛肉よりも豚肉の方が好きだという私も、いわゆるステーキはビーフステーキが一番好きです。かつて一度失敗したのは、ハンブルクでビーフステーキって書いてあって、それがすごく安かったのでこんな安くビーフステーキが食べられるのかと思って注文したら、それはいわゆる日本で言うところのハンバーグのことで、ハンブルグに来たのですからハンブルグふうのステーキであったんですけれど、ちょっとがっかりした思い出があります。そして、先ほどあげなかった鳥と羊ですけども、実は焼き鳥は、本当に美味しい焼き鳥は、私が最も好きな豚肉よりも美味しいと思いますし、また非常に美味しいマトンは、やはり私が日常的に食するポークよりも美味しいと思います。ただ、鶏肉やマトンは、残念ながら本当に良いものでないと美味しくないということがあるので、一般にどれが美味しいと決めることはしづらいと思います。同じことはポークやビーフについても言えるのかもしれません。私はそれほど全ての種類を食べているっていうわけではありません。

 しかし、ここで大切なテーマである好き・嫌いの問題についてですが、そういう私達日本人は、犬や猫の肉を食べるといったら、気持ち悪いと思うのではないでしょうか。私達が日常的に食べていないもの。それに対しては、やはりみんな強い違和感を持つと思います。若い人の中には、ウサギの肉を食べるということにも、抵抗を持つ人がいるかもしれません。他方、日本の人でも山国に暮らしている人が鹿の肉を食べる、あるいは熊の肉を食べるということが日常的にあって、あるいはイノシシの肉を食べるということも日常的にあって、それに違和感を持たないどころか大好物だという人もいると思います。しかし、食べたことのない人にはそれが気持ち悪いと思う。野生生物の肉を、私達がそれを殺していただくということは、現代の医学の知識からすれば病気に感染するリスクを伴うことでして、私達もそのようなものの料理には、調理人の誠実さを信頼することができる場合に限定した方が、健康には良いと思いますけれど。しかし、とにかく食べ物に関する好き・嫌いには、このように文化的な伝統も反映することを忘れてはならない、と思います。

 何が一番美味しいかということを巡ってさえ、このようにややこしい問題があり、答えは多様なのですから、私が申し上げたいのは、「何が人間にとって一番大切かという問題についても、私達はうんと慎重である必要がある。思慮深くある必要がある。」ということです。まして、社会にとって何が大切か、社会にとって大切な人間の個人的能力は何か。あるいは、頭の良さというもの、聡明であるということは、判断が正確であるということですから、とても信頼できるということに繋がる重要な性質だと思いますけど。何をもって聡明というか。実は非常に難しい問題ではないかと思うんですね。いわゆる偏差値信仰というのは、人間の他人に対する評価尺度というものを、客観化することができるという幻想を、正当化する目的で作られたもので、それがこのように普及するとは誰も思っていなかったと思うのですが。こんにちでは、それが当たり前のように普及してしまっています。株価でさえ指数インデックスが、やれナスダックだとか、ジャスダックとか、日経平均とかいろいろあるわけですね。株価でさえそうなのですから、円の単位で計れる、あるいはドルの単位で計れる株価でさえそうなんですから、人間の能力など偏差値で測ることができるはずがないのに、実に多くの人が偏差値信仰ともいうべき新興宗教の非常に熱心な信徒になっている現実は、おかしいと思いませんか。

 好き・嫌いと同じように、私達は自分の基準を唯一の基準と思い、他人がその基準と違っていると、信じられない、ありえない、そんなものは許せないと言ってしまいがちですが、その基準が、実は相対的なものに過ぎない、あるいは場合によっては個人的なものに過ぎないということを、常に心に留めておきたいと思います。

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