長岡亮介のよもやま話60「言葉を、正確に精密に論理的に使う」

 今回は少し通俗的な話題を取り上げたいと思います。それは「最近の日本語は乱れている」という話です。確かに、コンビニエンスストアなどで買い物を終えたときに、千円に満たない金額であるときに、千円札を出すと「千円でよろしいですか。」あるいは「千円で大丈夫ですか。」とか、「レジ袋をつけてよろしいですか。」と聞かれることがあり、そういうときについお客である私も含めてですが、「大丈夫です」と返事をすることがあるように思います。しかし、「大丈夫」という言葉をこのように使うのは、本当はおかしいと思うんですね。「大丈夫」というのは大いに丈夫であるということで、健康頑健であるということですから、「それで結構です」とか、「それに賛成です」とかっていうのを、大丈夫というのは、普通はおかしい。しかし、それが慣習化すると、みんながおかしいと思わなくなる。私自身も特におかしいと思いながらも、つい使ってしまうというところもあって、言葉というのは時とともに風化していくというか、用法が変化していく、そういう特性を持っているのだと思います。

 実際、ラテン語を使っているのは、今ではローマンカトリックだけでしょう。私自身は昔アテネというギリシャの町に行ったときに、そこではギリシャ語で全てが書かれていて、ガソリンスタンドの店員さんの名前を聞いたら、その人が“アリストテレース”という名前だと聞いて、本当にびっくりしたことがあります。ギリシャでは古代の言葉がまだ残っている。といっても、実は古典語としてのギリシャ語と現代ギリシャ語とはだいぶ違っているわけでありますけれど、しかしギリシャの知識人であれば古代のギリシャ語も分かるということを聞いて、それはすごいことだなと思いました。なんといっても、古代ギリシャって言ったら、その一番繁栄した末期と言われるアテネの全盛時代でさえ、紀元前300年という時代でありますから、日本の歴史と比較するならば、信じられないですね。私達日本では、万葉集の言葉でさえ現代人には解説なしには読むことができない。そういえば万葉集に関連して、「万葉秀歌」という万葉集の中で優れた歌を集めた非常に簡単な短い書籍が岩波新書から出ていて、確か斎藤茂吉編だったと思いますが、それは万葉集の素晴らしさに触れる、非常に現代人にとってはありがたい機会だと思いますね。ぜひ万葉集という古代の人々の情緒に共感する人もいれば、共感できない人もいると思いますが、所々私達が共感できなくなっている自分を発見して反省したりもしますから、それに接することはいろいろな意味で大きな意味があると思います。

 これは脱線ですが、万葉集のようにごく私達の時代に近いものでさえ大変。もっと近くなって、例えば源氏物語とか枕草子はもっと近いわけですけど、それでさえ難しい。さらにずっと近くなって新井白石と言ってもこれも難しい。さらにうーんと近くなって森鴎外とか樋口一葉とかなるとやっぱりすごく現代人には難しいですよね。難しいというだけではなく、「候文」というのは、そういう文体がありますけれども、それが文語としてあるいは手紙の文章として標準的な文体であった時代があり、私が尊敬する歌人でも候文のものが残っているんですけれど、私達現代人から見ると候文というのは何か妙に気取っていて、ちょっと嫌味な感じさえ受けます。しかし、おそらく当時の人がそうでなかったんでしょう。私自身は、文明開化の時代、いわゆる鹿鳴館文化というものを毛嫌いするほど軽蔑しておりまして、明治の西欧列強の文化文明に憧れたコンプレックスの塊のような成り上がりの人々が、そのような文化に浮かれていたということ。私はやはり日本人として恥ずかしいと思うんです。そしてその恥ずかしさから、私達がどのようにそれを反省し、克服するかという課題があるはずなのに、本当の意味ではあまり恥ずかしいと思っていない。本当の意味では反省しなくてはいけないとも思っていないのではないか、と思うこともあります。

 というのは、実は昭和の時代に作られた映画で、とても素晴らしい芸術文化の薫りの高い、そういう映画、大衆娯楽というよりはもう少し文化的な気品を漂わせた映画であっても、その中で使われている言葉使いというのは、上品というよりは上品を気取っている、そういう軽薄さを感じてしまうんですね。その映画の主演女優の中には、私がもう敬愛してやまないというか尊敬してやまないというか、そういう大女優もいらっしゃるのですけど、しかし言葉遣いの中に何か上品さを気取るいやらしさがあるように感じます。それもそんな鹿鳴館という昔々の話ではなく、ごく最近、昭和になってからの話であるであるわけです。

 このように言葉はすごく変遷が激しく、日本語は特に変遷の激しい言語だと思いますけれども、最近の若い人たちの使う日本語は、単に乱暴だとか、あるいは品がない、上品でない、あるいは下品だということを超えて、何かあまりにも単純粗暴になっているという印象を感じることがあります。それは、例えば友人同士の話だと思いますけれど、「それ本当にそんなことがあるんですか」というふうに言うべきときに、「マジ」、この2文字で終わらせる。確かにそれに似た表現は、私が大学で教え始めた時代も女子学生から「それうそー」とかというふうに言われて、「うそのことあるもんか。これは私が真面目に言ってるんだ」というふうに返事したことがありますが、「うそー」というような表現が、主に女子大生の言語として流行った時代もあります。現代の「マジ」っていうのはそれに近いのかもしれません。「うそー」のときは感嘆符で終わってたと思いますが、最近の「マジ」っていうのは、もし句読点を使うんだとすれば、疑問符をつけるべきなんでしょうね。おそらく、英語で言えば、Are you serious? つまり、それは本当に真面目な話ですか、という意味なんだと思いますけれども、おそらくそういうふうに言い換えられない用法の方が遥かに多い。「マジ美味しい」とかですね。そういう言い方を聞くと、私は、言語表現が新しくなってある豊かさ、言語世界の豊かさを表現してるというよりは、言語表現の世界が貧困化してるんではないかと、ちょっと心配になります。

 私の学生時代も確かに流行り言葉がありまして、私の時代には何かというと、「破廉恥な奴だ」という言い方、あるいは叫び声的に「破廉恥!」と相手をなじる。そういう文化がありました。これは破廉恥漢という立派な日本語でありまして、明治以降ごく一般化したものだと思いますけども、もちろん一般庶民の間というよりは大学生などちょっとした知識人階級の候補者の間ではあったではあったと思いますけれど。破廉恥っていう言葉が本来の意味の破廉恥を外れて、カタカナで「ハレンチ」と書いて、それを流行らせた漫画家もいます。おそらく現代では、このカタカナの「ハレンチ」というのも、もう廃れて使われていないのではないかと思います。

 現代の「マジ美味しい」などという表現も早く廃れてほしいと願いますが、言語の流行というのを、政治や権力で統制するということは、一昔前のフランスならともかく今の日本では考えられないことですね。しかし、私は「言葉を、正確に、精密に、論理的に使うことが大切だ」ということを強調したいのは、特に政治についての議論においてです。権力を持った政治家が、曖昧なフワッとした日本語表現で全て逃げる、というようなことがあってはならないし、あるいは発言の責任追及を受けないようにそつのない答弁を心がける役人のような、無内容な表現を心がける、ということがあってはならない、と思うんです。むしろ逆に、できるだけ自分自身の個性を生かし、そしてそれでいて他人に対して説得力のある、そういう言葉を少なくとも権力を持った政治家は発信すべきであるし、そういう政治家を選ぶ立派な国民を育てるためにも、学校教育に責任を持つ教員の責任も重いと思うんです。先生たちがきちっとした日本が喋れない、あるいは正しい書き順で漢字を黒板に書くことができないというようでは、若い世代を指導するということも難しくなるでしょう。指導的な人は、言葉の面で常に模範的でなければいけないと思います。

 しかし、私は元々訥弁、いわゆるどもりの少年でありましたので、人生の様々な経験からこのように、人前で喋るということがごく自然に行えるような、まさに破廉恥な人間の一人になりましたけれど、私の喋る言葉は決して模範的であるとは思っていません。ただ、できるだけ正しく喋りたい。できるだけ緻密に喋りたい。そう願っているというだけです。そんな私の話が、皆さんの少しでも共感を呼び起こしてくれるなら、光栄至極というべきですね。

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