長岡亮介のよもやま話58「円熟の境地」

 前回は、最近の風潮に合わせて話を短くまとめるという、そういう試練に挑戦してみました。短い話は聞く方も楽ですが、そしてまた当然話す方も楽ですが、やはり決定的な欠点として、中身が薄くなる、あるいは単純になるという点が指摘できると思います。

 実際、良い花咲爺さんと、そこに登場する欲深の悪い爺さんあるいは爺さん夫婦の話にしても、良い爺さんが良い行動によって思わぬ宝もの、あるいは思わぬ金銀、それを手に入れたならばそれを自分のものとしてこっそりとしまうのではなく、それを隣人と分け合うという、そういう徳、人徳があってもいいはずですよね。「自分で独り占めする、あるいは夫婦二人占めする」というのではなく、「村の人と分け合う」、そういう余裕があってもいい。隣の欲深の悪い爺さん夫婦は一面的に欲深というだけで、どうしてその人がそんなふうに一面的に欲深になってしまったか、どういう人生の経路でそういう人格が形成されてしまったのか、という問題に対しては何も立ち入っていませんね。

 元々生まれつき良い人と生まれつき欲深の人がいる。善人と悪人がいる。こういうことでは本当の意味での道徳教育にはならないと思うんです。もし、今、政府が進めようとしている道徳教育というのが、昔ばなしの花咲爺さんのようなものであるとすれば、それは極めて低学年のときにはそれでいいかもしれないけれども、ちょっとでもお兄さんになってきたならば、「他人のことを思いやるということが、人間はどうして可能なのか」「動物の場合にはどうなのか」あるいは「歴史的に私達はどういうふうに文化を形成してきたのか」ということにまで踏み込んで、初めて教科としての道徳というのができると思うんですね。

 そうでないとすると、非常に一面的な意見表明になってしまう。まるで衆議院や参議院の議論のようにすれ違った議論。おそらく政治家の場合には、答弁する一方の側、あるいは質問する側が、それが相手のことを全く考えずに「隠せるところは隠す。言いたくないことは言わない。」という嘘が隠されているからに違いないと、想像させますけれども本当のところはなかなかわからない。要するに論理が完全にかみ合わないように、答弁が作られている。あるいは質問も作られている。質問に対する答弁というのはあらかじめ質問書を提出して、どういうふうに答えたらいいかという、ありとあらゆる想定の中で、こういうふうに答えれば安全であるという対策が練られているわけですけれど、そういう対策が練られていてもボロボロの答弁になってしまうというのは、そこに巨大な嘘が隠されているからに違いないと、私達庶民は想像しますよね。

 つまり、やはり私達が厳密な思考を緻密に組み立てていくならば、そういう隠されている部分というのも明らかにするように、きちっとやっていかなければならない。そのためには当然話は長くならざるを得ないということが、私が本日申し上げたいことです。つまり、単純素朴な話には、単純素朴な断言につきまとう一種の扇動主義というんでしょうか、アジテーション、それを主たる目的として演説する、そういう大衆扇動的な要素がある。実際、私自身はインターネット広告なんかに畳み掛けるように出てくる様々なセリフを聞いていると、本当にこういう宣伝広告にそのままそれを鵜呑みにして乗ってしまう人がいる、というふうにその広告の発信者たちは考えているんだろうなと、思わざるを得ないくらいものすごく素朴な言葉遣い、それも科学的な言葉遣い、例えば、「ある薬の中には人間の健康に良い素材がなんと10,000mg含まれています」とか言う。10,000mg、ミリというのはどういう意味でしょうか? ミリっていうのは1000分の1ですね。1,000分の1gを1mgというわけですね。従って、10,000mgというのは、10gというふうに過ぎない。どうしてそういうふうにわざと混乱した、1,000分の1の10,000倍、すなわち10倍っていうことですが、そういう10倍と言えば済むことをわざと10,000倍×1000分の1というふうに言うことに、どのような意味があるのでしょうか? 数学的にはおよそあり得ないと思います。自然科学的にも通常のコンテクストではありえません。しかし、私達は日々日常生活の中で、そういう自然科学の言葉を使った虚偽、そういうものにずっと慣らされてしまっている。いつしかそれがおかしいと思わなくなってしまっている。そういうのが現代の文化状況ではないでしょうか?

 子供たちが騙されるならば仕方がない。それは子供たちがまだ無知であるからですね。子供たちが無知なのは子供たちが幼稚であるから、幼いのだから当然であるわけです。しかし、今の日本は大人まで含めて子供のように幼稚化している。子供のように純粋だって言うならば、なかなかかわいらしい話でもありますけども、大人になっても子供の頃と同じような知性しか身につけていないとすれば、やはりそれは教育の重大な責任だと私は思うんです。最近本当にいつまでたっても子供と一緒に遊ぶ親の姿があり、微笑ましいなと思うと同時に、いつまでたっても子供の感覚と変わっていない大人たちを見ると、本当に学校教育で一体何をしたのだろうというふうに、問題点を感じざるを得ません。「子供の頃の感覚とちょっと違った角度からものが見られるようになる。」ということが成長であると思うんですね。

 子供の頃は、純粋で何もわかってなくてもかわいいとか、面白いとか、楽しいとか、そういう言ってみれば第一印象というんでしょうか、思索の回路を通っていない。純粋な刺激だけで自分の心の内に浮かぶような心象風景というんでしょうか、それだけで生きていて、仕方がないわけですね。それは幼い。幼い子供の初々しさであると同時に、拙さ、あるいは普通は幼稚っていう言葉、幼くて拙い、そういうふうに言うわけですけれど。大人になったら子供の頃の初々しさ、そういう感性の未熟さ、それを乗り越えてやはり円熟した境地に接近していかなくてはならないのではないでしょうか? その円熟の境地に達するために、勉強とか学問とか友人との討論とかいろんな経験が用意されているんだと思います。

 というわけで、少し考えようとすると話は複雑になるということ。単純なことの中には単純なものしかないということ。そのことを忘れてはいけないと、私は考えています。

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