長岡亮介のよもやま話54「生命とは何か」

  本日は、昨日「“土地・空気・水”という私達人間にとって生存に欠くことのできない基本条件が、必ずしも現代先進国を中心として、当たり前のようになっている“個人の固有財産として私有化する”という制度がなじまないものである」という話を、いたしました。このときに私は“人間”ということを強調したですけれども、それはわかりやすさのためであって、本来地球上に存在する生命体と言っていいんでしょうか、動物そして、おびただしい数の昆虫、さらにはいわゆる生き物全体の中にアメーバのような存在、あるいはバクテリアのような存在まで含めると、さらにさらに膨大になるわけですね。最近DNAあるいはRNA、一般にゲノムと言われるものの解析技術が、大変に進歩を遂げたおかげで、人間以外の存在に対しても私達はかなり精密にアプローチするということができるようになりました。そのことを通じて、私達がつい地球上の生命体の中心と考えてしまう。動物の中の霊長類、人間は実は地球上の生命体のほんの一部分でしかなく、動物・植物からさらには細菌と言われるものまで含めて考えると、本当に多種多様である。そして、「普段私達が存在を意識していないような微細の世界の中に、多くの生命体が存在し、時にそれが人間の生存を助け、あるいは動物の生存を助けて、さらには植物の生存さえ助けながら共生している」という自然の不思議に、私達は目を見開かれて驚いているわけであります。

 が、2019年から日本では2020年の3月、あるいは2月の末から騒がれるようになったCOVID -19、2019年型コロナウイルス感染症と呼ばれてきたもの。そして国際機関ではこれがSARSコロナウイルス CoV -2というふうに分類されるウイルスのもたらす感染症であるということがわかり、人々のウイルスに関する知識もずいぶん増えたと思います。日本ではウイルスっていう言い方が一般的でありまして、これはラテン語の発音にかなり近いものですから、ずいぶん日本では教養ある人が増えているというふうに思いますけれども、英語なんかではvirus(ヴァイラス)というふうに呼ばれているものです。ドイツ語でもvirus(ヴィールス)でありましょう。ウイルスというラテン語が使われている国は世界では少数だと思いますが、ウイルスの存在というのは、電子顕微鏡によって初めて私達が明確に捉えることができた極微の世界でありまして、ウイルスの中には、実は細菌よりも巨大なものすごく大きなウイルスが存在するということさえわかっておりますが、一般には電子顕微鏡レベルのものでしか観察することができない。そういう微細なものであります。

 普通の生物として欠くことのできない「細胞膜」という基本的な生命体の基礎構造を持ち、そこで「自己再生のためのエネルギーを生産するという生命の再生産装置を備えていないウイルスは、もはや生命体とは言えない」というのが、昔の生物学の常識でありました。しかしながら、そもそも生物学の進歩は実は電子顕微鏡の発明、あるいはゲノム解析その周辺の技術の発展によって、そのような古い生物学の定義に大きな変革をもたらすことが必要ではないか、ということを問題提起している状況です。そして驚くべきことに、そういうしばしば病原体として扱われるウイルスが、人間の体の中で、あるいはありとあらゆる生物の中で存在し、そしてそれが生物として最も重要な進化、自分自身が変わっていくということですね、その進化Evolutionと言って、普通はより良いものに変わってくっていうふうに普通の人は考えがちでありますけれども、進化の中には癌細胞のように、突然変異の中にはというべきですね、いわゆるがんCancerのように、生命体の存在それを脅かすような、いわば生命に対して反動的な役割を果たす。そういう病原性のウイルスもう少なくないわけですが、実はそうじゃないウイルスもたくさんある。たくさんあるところが膨大な数のウイルスが、私達が解析することができないほどの数のウイルスが活躍していて、そしてその働きを私達は全てを解明するというにはまだ道遠しという段階ではありますけれども、どうやら生命体のいわゆる進化においてとても重要な役割を果たしてきたということが、指摘されるまでに至っています。

 この分野の発展はあまりにも発展著しいので、19世紀全般が物理学をはじめとする数理科学の進歩が際立った時代であった。量子力学から宇宙論まで極微の世界からマクロの世界、巨大な世界までなんとか説明しようとする、新しい理論の絢爛豪華な発展の時代であったとすれば、20世紀後半は「ウイルスをはじめとする微細な生命体と言っていいかどうかわかりませんが、そういうものがいかに賢く、いかに重要な働きをいわゆる命体の中でしているか」ということを、明らかにする「生命科学」と呼ばれるものの大発展の時代であったと言っていいと思います。そして、それが20世紀に予測されていた以上に、21世紀に入って大きな進歩を遂げたわけです。光学顕微鏡で見てわかる世界、その背景に電子顕微鏡でしか接近することのできない難しい世界が、まさに化学の物質を扱うような高度な顕微鏡技術と「量子化学」と呼ばれる最先端の化学、その貢献抜きには語れないような難しい世界であるということがわかってきて、その分野の研究者は一様に「ウイルスはものすごく賢い。いわば人智が到達することができる、そういうレベルを超えた賢さを持っている」とよく言いますが、それは19世紀に活発となる「進化論」が動物中心、あるいは人間中心に生命の進化というものを、非常に都合よく、合理的にあるいは合理主義的に解釈してきたということの軽薄さを、物語っているんだと思います。

 この分野の発展を見ると、科学というのは科学的な知見を合理的に積み重ねるというだけではなく、私達の合理主義的なアプローチが持っていることの限界、あるいは私達の世界を囲んでいる非合理の、私達の理解を超越するようなそういう不合理な世界が支えている。私達が合理主義のロジックを克服しない限り、最初の接近さえできないというような難しさを抱えていて、自然科学の基本的な方法や基本的な哲学に対して、変更を要求しているということさえ言えそうな気がして、17世紀以来の私達の科学の輝ける進歩と言われていたものは少し色あせてきて、その17世紀以来の近代科学的な方法のいわば限界に差し掛かっている、ということさえ言える状況ではないかと思います。

 今、自然科学はあらゆる分野で、先端的な科学がそれまでの常識を完全に覆すような新発見に満ちています。そして、その新発見をどのように従来の自然科学と調和させていくのか。私達の英知に問われた重要な課題でありますから、このような躍動的な最先端の流行、それに若い人もぜひ挑戦するという大きな夢を抱いてほしいと、願っています。完全に今までの歴史を塗り替えるような大発見が、全ての人に対してそのチャンスがあるということですね。人間が行うことはもちろん科学的な活動に限るわけではありませんので、様々な分野でその様々な分野の中に、それぞれの個人の思わぬ発展可能性、驚くべき能力の発展可能性があるわけですから、自然科学研究というのを狭く解釈することは全く無意味であり、また先端的な科学というのは結局のところ、専門的な蛸壺、あるいは蛸壺化された小さな専門分野、それに関する知見を深めるということと深く結びついているから、そういう意味で、人間として生き、そしてやがて人間として死んでいくという不条理の人生を、全員自然科学研究に捧げるべきであるなどと、私は主張するつもりはありませんが、これからは本当に自然科学が面白い。300年とか400年に一度のものすごいチャンスが、やってきてるんだっていうことを忘れないでいただきたい。

 そして、そのような自然科学の先端的な分野で活躍するために、小学校以来の勉強が非常に重要な前提条件となる。とりわけ専門的な自然科学の研究者と言わなくても理解者でもいいと思いますが、それを自分で実現するために高等学校の勉強、後期中等教育といいますが、それが基本中の基本でありまして、我が国は残念ながら高等教育においては自分の専門以外の分野を極める、そういうための時間を2年間ほどの余裕を持ってたっぷり行うというのは、非常に限られた数の大学でしかありません。普通の高等教育機関は、もはや入ったときから専門家教育あるいは職業教育というものになっているのが悲しい現実ではありますし、それはやむを得ないことなのかもしれません。ただ、しかしもし皆さんに、皆さんの中にものすごく偉大な知的な可能性が眠ってるとしたら、その可能性を眠らせたまま皆さんの人生を終えてしまうことは、あまりにも悲しい。人生100年とかいろんなこと言う人がいますけれども。本当に知的に活動することができるのはせいぜい60代あるいは特に優れた人は70代までということになるでしょう。私などはもう60を超えてからは本当に難しい勉強は何回やっても身に付かなくなっています。ですから、皆さんの若いうちに、その将来の発展可能性を伸ばすように頑張ってほしいと願います。

 今日最初に話した生命とは何か。こんな簡単な問題でさえ、実は科学の最先端の話題と深く結びついていて、わずか100年くらい前の人がようやく回答らしいものを見いだしたときから比べると、もう比較にならないくらい大きな知見が、私達の手のもとにあると同時に、私達が殆どが無知の暗闇の中にいるということもわかっている現代という時代であります。私達の知識を風船に例えるのは、とても適格だと思うんですね。知識が増えれば増えるほど、風船は膨らみます。その風船が膨らむことによって、膨らんだ風船の表面積が増えていきますね。その表面積が私達の知識と無知の境界線でありまして、科学は進歩すれば進歩するほど、私達が何も知らないという無知な領域がその先に広がっているということに、気づくことができるということです。このような素晴らしい人間ならではの能力に、皆さんが本当に子供のうち、私から見れば高校生なんていうのは本当に子供のうちだと思いますけれども、その子供のうちからきちっとした教育を身につけて、最先端に立てるような基礎をきちっと築いてもらいたいと思うんです。そのことがとても容易な時代になっている。皆さんがもし不幸にして、あまり優れた先生、優れた級友に恵まれなかったとしても、実はインターネットという世界を通じて、私達自身の知を広げるチャンス、これは今まで信じられなかったほど多くなっているということです。この大きくなった知識を獲得する可能性、それを自ら自分の能力を過小評価して閉じないで欲しい。ずっとその能力を発見するという可能性に、皆さんが開かれた存在でいてほしいと願っています。

 今日は特に若い人への激励というふうに聞こえると思いますが、実は年をとってからでも新しい知識をどんどん身につけることができる。今私達を囲んでる世界の知識の知識空間とでも呼ぶべき、その世界の広さは莫大でありますから、とてもではないけど、高等教育まで含めても学校教育でカバーすることができるわけではない。自分自身の努力で生涯にわたって死ぬまで勉強するということが、できるようになった時代でありますし、その時代であるからこそ、そのようなチャンスを生かしてもらいたい。そういうふうに願います。そして、死の床につく最後の瞬間まで、自分自身が学んで、自分自身を変化させていく。そういう人間としての喜びに多くの人が震えるほど感動する。そういう世界であってほしいと願っています。段々年寄りの繰り言みたいになってきましたので、ここで今回は閉じましょう。

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