長岡亮介のよもやま話53「土地・空気・水・国境」

 よく考えないで私達があまりにも当たり前と思っている事柄の中に、とんでもない暗黙の前提があることに気づくということは、数学以外の世界でも存在します。数学ではそういうものばかりと言っていいくらい、そういうことがよくあるのですけれど、一般の日常生活の中にさえあるということです。だからこそ私達は、「緻密に考えるということ。あるいは批判的に考えるということ。」それが常に求められているというわけですが、今日取り上げようと思うのは、皆さんに一番身近な土地の問題です。

 これを聞いている高校生以下の若い人には、土地といってもピンとこないかもしれませんが、自分の住んでいる土地ですね。その土地は明治維新以降、いわゆる私有、私が所有する、ということが認められていて、自分の分だと主張することができる。その自分の分だっていうことを主張するために、土地を測量し、境界を確定して、ここからこの部分が誰それさんの分であると、そういう財産として登記するということがなされるわけですね。そして、土地を担保にして借金をするというようなことがよくありますから、その土地に対して所有権だけではなく、抵当権というのも設定される。面倒くさい話になりますけれども、「土地が私有されるということ」、これを認めると必然的に必要になる制度の一つであると思います。そして土地の登記の原本に、土地の測量という最も基本的な事柄が関係してくるので、そこでは三角測量という最も基本的な数学の実用的応用、それが力を発揮するわけですね。

 そして現代の社会では、土地の私有制を認める国が一般的でありまして、土地がみんなのものであるというふうに考えることの方が、普通でなくなっていると思います。しかし、日本の歴史を見ても、実は土地の私有というのが認められたのは、明確に認められたのは明治以降でありまして、それ以前は私有ではないんですね。言ってみれば領主様の土地であって、その土地のどの辺りの部分を農民の誰それは耕す義務を負っていると、そしてその耕す義務を果たせば、そこから報酬を取ることができるということですが、土地を売買するという権利は認められていない。それどころか、農民はそこで農作業をするということを、宿命づけられた階級でありましたから、土地を移動するということができない。近代社会において、発言の自由と同様に移動の自由というのが認められているのは、現代ではちょっとピンと来ないかもしれませんが、かつて移動の自由のない人々、特に農民がいたわけです。実際農民がいなければ、どんな肥沃な農地といえどもただの荒地でしかないわけですから、そういう制度が昔あったということはわからないわけではありませんね。

 しかしながら、土地の私有ということをこのように少し広く考えて自明なものでないというふうに考えると、今私達が自明と思っていることの方が本当はおかしいと思えるようになります。例えば土地と同じように空気についてはどうでしょうか? 自分の使う空気あるいは呼吸に使うことのできる大気は、自分の土地に付属している空気であるということは、ありえませんよね。つまり風が吹くわけでありますから、空気は一定でないわけです。どの空気を吸っているかということは、私達は具体的にここからここまでっていうふうに境界線で明確に定義することができない。いわば空気に関しては登記簿がないわけです。空気はみんなのものですね。そしてそれは常識ではないでしょうか?

 もし、ある人が自分の利益のために、人の使う空気を汚染するということがあったならば、それは許されないですよね。みんなの空気であると。そういう意味で大気汚染の問題というのは、実は深く考えるとややこしい問題であって、必ずしもを土地のように、私有する、個人的に所有するということができるわけではない。だからといって「空気を利用して産業を興す」ということが完全に禁止されているわけでもない。今多くの国では行政府が大気の取り扱いに対して、「極端に大きな影響を残す、あるいは残しかねない」、そういうような使用については、行政的な制約を持ってそのような使い方をしてはならないという許認可制というのを取っていますね。

 「空気」がそうであるということは最も大げさな例であって、もう少しわかりやすい例で言えば「水」がそうですね、私達はどの水が自分のものであると主張できない。というのは、水は空から降ってきて、山に降り、地下水として滲みていき、そしてそれがやがて地表に流出して河川となって、川を下る。そして海に行く。水はものすごく大量に地球に存在するというふうに思っている人がいて、地球を水の惑星っていうふうに言う人がいますけれども。実は地球という、主に岩石からできている天体において、水が占めている割合は極めて少ないんですね。地表にはほんのわずかしか水がない。よく「海が地球の10分の7を占めている。陸地は10分の3だ」というようなことが小学生で教えられますが、それはいわば地球の表面上の話であって、大地が地下深くまでマントルとかそういう構造で支えられているのに対し、水というのはその地表の本当に表層にしかない。表層といっても水深2万mとかってそういうところありますけど、2万mってたった20キロですから。たったの20キロ、本当にわずかなものですね。最も地上の山もエベレストみたいな高い山でもたった8キロ程度でありますから、地球の表面というのはほとんど真っ平らな球、そのようなものだと言ってもいいくらいな訳です。それは宇宙から見た地球の映像を見ていただくと、なんとなくわかるんじゃないかと思うんですね。地球がでこぼこしているという感じは、普通は受けない。

 水はものすごく限られた量しか存在しないんですけど、地球が丸いおかげで、その地球が球体であるおかげで、その球体の全体をいわばまんべんなく上手に覆ってるわけですね。本当にわずかしかない水ですけれども、地球上でほとんどあらゆる部分に水がある。そういう現在の地球の状態が作られている。その本当に限られた水でありますから、その水を勝手に使うっていうことが許されるわけではないですよね。かつて日本では公害問題で、工場の流した工業排水、それに人間の体に非常に有害な物質が入っていて、それのために非常に深刻な健康被害をもたらした。この公害問題を通じて、私達が水を大切にしなければいけない。「水は人類の共有財産であるということに目覚めた」と言ってもいいでしょう。

 それ以外に実は地表に流れる水だけではなく、工業用水として地下水をくみ上げて利用するということもあります。地下水は、地下の油田とかあるいは天然ガス原としてだけではなく、水の資源として非常に重要であるわけです。私達は例えば地下水、温かい地下水の場合は温泉としてする利用していますね。しかしながら、工業用水として地下水をくみ上げすぎると、その地下水が地盤を支えている大きな土台であったということ。そのことが明確にわかったのは20世紀でありますが、それ以前はどんどんどんどんその地下水をくみ上げて、悲惨な地盤沈下という現象を起こしてしまったわけです。ですから地下水というのは誰の権利であるか。自分の土地にあるのだから、そこに穴を掘って地下水をくみ上げていいということにはならない。そういう地下水のくみ上げについても、行政府による制限、あるいは制約、許認可というのが求められる。これも今では国際的な常識となっています。

 今述べました「土地」「空気」「水」このうちで後に述べた二つ、つまり「空気」と「水」については、私有財産を簡単には主張できない。それがみんなのものであるということの方が、自然であるということ。これがわかってきているということです。にもかかわらず、土地に関しては、私達はまだそのような常識に目覚めていない。本来は大地というのは誰のものか。といったら、「みんなに共通のものであって、それを私有財産として主張するということの方が、本来はおかしい」という考え方が、昔の考え方がより自然であるということに私達はときには思いを巡らしてもいいんではないかと思います。もちろん現代の社会では、土地の私有制の上に、全ての経済活動なども成り立っているので、それを撤廃しようというふうに言ってるんではない。ただ、私が土地の私有というのがそれ自身自然な考え方ではない。人類の偉大な、と言っていいか、あるいは非常に貧弱な、と言っていいか、そういう発明であるということです。

 土地の私有ということの極端な延長が「国境」でありまして、国と国が接している、その間に線を引いてそれを国境線という。なぜその線があるのか。なぜその線を引くのか。合理的でないじゃないか。なぜ土地にそんな線が存在するのか。しかしながら、国境線の問題というのは外交の最重要問題として国家の侵しがたい権利である。「国境線の変更というのはあっては成らないことだ」というのが、国際法のいわば基本的な常識として了解されています。しかしよく考えてみると、国境とは何か。これは難しい問題でありまして、昔からしばしば国境線として引かれていたものは、自然境界でありました。山であるとか、大河であるとか、大きな川ですね、高い山、あるいは深くて広い川、そこを越境することができない。そういう自然境界があるところではそれを境界線として、異なる民族が異なる国家をそれぞれ作って、その境界線を越えては侵入しないということがありましたけれども。

 人類の歴史は戦争の歴史でもあって、そういう自然境界を越えて相手の陣地に攻め入るというような戦争、これが繰り返されてきました。昔は兵器が非常に素朴でありましたから、戦争といっても本当に人類みな殺しのような、そういう悲惨な戦争になったわけではありませんけれども、戦争に負けた民族、あるいは部族は、その後一般には奴隷あるいは下層労働階級として、戦争に勝った側に隷属をあるいは隷従を強いられる。そういう運命をたどってきたわけです。全く今から考えれば、不合理な話ということになりますが、残念ながら私達人類は、そのような非常に残酷なことを他の人間に対して行う、そういう動物なんですね。

 人の定義はいろいろあります。考える動物であるとか、道具を作る動物であるとか。しかし、領土のために戦争する、兵器を使って戦争する、そういう動物であると、こういう定義もできるんじゃないかと思うんです。動物同士も縄張りについての戦争というのは、動物同士の生存のための不可欠のもので縄張り争いっていうしばしはやりますけれども、しかしそのときには武器を使うってことはないですね。ですから人間のように、戦争がまた大きな悲惨なものにならない。もちろん動物の場合でも戦いに敗れたものたちは、その後生存を脅かされるような環境に追いやられるというようなことがあるんだと思いますけれども、人間ほど残酷ではないような気がします。しかしそれは私が動物についてあまりにも知識が足りないからかもしれません。しかし、人間がとにかく動物の中で頂点に君臨してるように見えますが、頂点に君臨するということはそれだけ残酷な動物であるということを意味しているのかもしれません。そして、国と国との国境線っていうのは結局のところ、やはり本当に悲惨な戦争を通じてしか書き換えられないということです。平和的に純粋に平和的に国境線問題を確定するということは、20世紀以降においても本当に局所的に一部分行われているだけですね。それが私達の歴史的な限界と言っても良いものではないかと思います。

 しかし、よく考えてみれば空気や水と同じように、これは自分の分であるというふうに主張することの方がおかしい。しかしながら、例えば原油、油田、自分の領海内にあるから、それは自分の国のものである。こういう主張は今でもまかり通っています。地下資源に関しても、自分の領土の中にあるのだから自分のものである。他国のものでは決してあり得ない。こういうふうに非常に素朴な土地に関する思考法が、地下資源にまで及んでいる。地上の大気圏以下の部分に関しては、いわば地球の上の地表の図形、それを地球の中心から反対方向に伸ばすその範囲まで上空に関してその国の防空識別圏であるとか、そういうような形で権利を主張するということがなされていますけれども、それもある意味で、国境線に関する主張、あるいは地下資源に関する主張と同様に、文明のある限られた段階でのみ通じる話であるように思います。地下資源に豊かな国が、急に巨大な権力を国家の中枢が握るような、先進国以上に豊かな国に成り上がるということが、当たり前のことのようになされている現代ではありますが、その本質に実は極めておかしな考え方があるということに、私達はときに思いを巡らすことが必要ではないでしょうか?

 そのような権利のある国と仲良くお付き合いすることが大切でしょうが、そのような豊かな国の富に私達のおこぼれを預かるというようなとき、それは少し卑しい私達であるというふうに反省することも、必要なのではないかと私は思っています。最も私もそういう政治的な問題に詳しいわけではありませんので、今日ここでお話したことはあくまでも素朴な私達の日常生活の常識と世界の常識との間にある、いわば隔絶した違い、そこに実は暗黙の前提として隠されているものが何かあるのではないか、というような思考法も大切であるということ。その一点だけ共有していただければ幸いです。

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