長岡亮介のよもやま話51「コンピュータのもたらしたもの」

 今回は私の最近凝っている趣味についてお話いたしましょう。私は昔から結構多趣味な人間というか、一つの道を極めて突き進むということが苦手で、いろいろなものに気が移る。良く言えばいろいろなものに関心を抱く、好奇心旺盛な人間であります。今でこそPCや携帯電話が普及していますけれども、私はこのようなものが普及する以前からずいぶん人生で蓄積すべき金銭を、コンピュータにつぎ込んできたように思います。最も今持って懐かしいのは、UNIXが比較的小さな機械、いわばデスクトップの大きなそれで動くStanford University Networkの頭文字に由来するSUNという会社から出ていた、当時ワークステーションという言い方でありましたが、それが何とか自分でも手に入るという金額になったとき、と言っても当時私が支払うことのできるほとんど限界の高価格で今では本当に信じられない思いでありますが、そういうものにも手をつけてきました。今でも懐かしいのは、ハードディスクが1GBの大容量のものがたった3万円で、日本製のものですが日本では売ってなくて、アメリカからの逆輸入で買うことができるといったときに、1GBのハードディスク、今では本当に10円の価値もないと思いますが、そのでかいでかいもう巨大な弁当箱、弁当箱というよりはむしろお正月のおせち料理を飾る数段の折、それに相当するような大きさのハードディスクをわずか3万円で買ったというふうに、友達に自慢してたことが、本当に思い出すと恥ずかしくもまた懐かしい思い出であります。

 そのように私自身もいろいろなことに興味を抱いてきたわけでありますが、そのような一種の人生の無駄遣いというのは決して無駄にはならなかった。当時そのワークステーションを手に入れる前は、コンピュータのプログラミングというとAssemblyと言われている言語、アセンブリ言語で書かれたものをコンパイルするのアセンブラって言いましたけど、それでコンピュータのプログラムを書いていました。それも本当に実用的な意味で書いていたというよりは、人間がやると気が遠くなるような計算を機械にやらせることができるということそのものに、興味を覚えてやっていたわけで、私がアセンブリ言語を使っていたということ、これが私の人生にとってどれほどの大きな意味を持っていたか。それにかけた膨大な時間を考えると、果たしてそれがペイするのかどうか、甚だ不安になります。莫大な時間を本当に小さなプログラムを開発するということにかけておりました。

 やがてコンピュータが一般の人々に普及するようになる。最初はマイコンって言ってましたね。マイコンというのはマイクロプロセッサーのコンピュータということの意味でしたけれども、私のコンピュータという意味で、マイコンピュータというような裏のニュアンスの方がむしろ強くなって普及していったんだと思います。そのマイコンといういかがわしい言い方に変わって、パーソナルコンピュータ個人用のコンピュータと略してパソコンという言い方、これはきっと今でも生きているだと思います。コンピュータがパーソナルなお小遣いでなんとか買うことができ、そして自分1人で使うことができる。これは画期的でありました。私はパソコンにもおずいぶんお金を使いましたけど、当時のパーソナルコンピュータというのはメモリーもせいぜい10MB、10MBのメモリーといったら、私から見れば、このくらいメモリがあればどんな高級なプログラムでも簡単に通すことができる。そんなふうに思っていたものでありましたけれど、今から言えば、漫画のような世界ですね。

 しかし、当時のコンピュータは基本的にシングルユーザー・シングルタスク。1回に一つの仕事しかできない。そしてその一つの仕事を1人の人間がコンピュータに対して命令する。そういう世界であったわけです。それに対して、シングルユーザー・マルチタスク。複数の仕事を同時にこなす。しかし1人のユーザーからの命令を基本としている。そういうオペレーティングシステムとして、OS2というのがアメリカで開発され、多くのユーザーを獲得していました。私もOS2のマシンを1台買いました。しかし、先ほど最初に話したUNIXの世界っていうのは、マルチユーザー・マルチタスク、複数のユーザーがそれぞれの自分自身の端末、あるいはパーソナルコンピュータのディスプレイとキーボード、それを使って遠くにあるUNIXのワークステーションを使うことができる。そのときに複数の仕事を同時にこなすことができる。当時はX Window SystemというMITが開発した、MITの研究者・技術者あるいは学生・院生が中心になって開発したX Window Systemというのは非常に優れていて、そのウィンドウごとに一つのタスクが動く。ウィンドウを移れば違うタスクを見ることができる。これが「素晴らしいな。これがなかなかパソコンの世界では実現しないものが、UNIX世界ではやすやすと実現する」ということが羨ましくて、そういうシステムを購入したわけです。このUNIXで使われていた通信規格、TCP/IPっていうふうに普通俗称されるものが、これがインターネットの基本技術となって、それが当時はそんなものは一部の人が使うだけであるというふうに多くの人が考えていたわけでありますが、それから20年も経たないうちに全世界の人々によって受け入れられ、今では携帯電話でさえ基本的にマルチユーザー・マルチタスクが動く。そういうものになりました。

 このように大衆に普及したおかげで、ハードウェアもソフトウェアも本当に低価格でかつカッコつきではありますが、高性能になりました。私がカッコつきだというふうに言うのは確かにいろいろな機能がてんこ盛りという形で盛り込まれているけれども、本当に使いたい機能に絞ったソフトウェアの方がよほど使いやすいというのが、私自身のコンピュータ人生の経験で、あらゆる目的に対して使えるということは、どの目的に対しても実はソフトウェアの使用の方が充実しすぎていて、実は使いづらい。特に最近はグラフィカルユーザーインターフェースでいろいろな機能がいろいろなメニュー、さらにその下のサブメニュー、サブメニューのさらの下のサブサブメニュー、そういうところに隠されていて、だからこそ使いやすいっていう考え方が、このようなグラフィカルユーザーインターフェースを追う開発をしてきた人々の中心的なアイディアとしてあったんだと思いますが、私から見るとコンピュータにやらせたい仕事ってというのは決まっているのだから、それを自分なりに能率よくこなすということができるということの方が理想的で、ソフトウェアとして高性能化したものというのはソフトウェアのいわゆるバグと言われるもの、虫ですね、プログラミングのミスと言ってもいいわけですが設計ミス、そういうのを排除するのがより面倒になっている。

 今ではコンピュータも言ってみれば、部品化が激しくて、今のデジタル機器っていうのは、例えば液晶テレビを見ていただけば明らかですが、ブラウン管時代のテレビのモニターと違うんですね。ブラウン管の時代には真空管なり、いわゆるブラウン管なり、半導体なりそういうものがぎっしり詰まっていて、何がどういうふうになっているというのがわかりました。もっともっと昔の、チャンネルなんていう時代には切り替えチャンネルが何をしているかというのがよくわかったものです。さらに昔のラジオで言えば、いろんな周波数に合わせて選局する。そのためにVariableコンデンサ、可変コンデンサっていうんでしょうか? コンデンサの容量を変更するために、同心円状の扇型の円盤を回転させる。その重なり具合によってコンデンサの容量が変化する。それを利用することによって、周波数を同調させるという非常にわかりやすい装置がありましたが、今のテレビをちょっと裏を開けてみればわかるように、もうほとんどノートパソコンそっくりですね。何が何だかさっぱりわからない。かつてのノートパソコンはこの部分にCPUがつき、この部分にメモリがつき、この部分には・・・、そういうものが見えました。今は開閉することさえできない。そういう仕様になってるものも一般的ではないかと思います。

 私が最初にいろいろな趣味にお金を使ってきた。その中でコンピュータにかけてきたお金がある意味では一番もったいない。つまり、現代では意味のないものに対して、私は莫大な自分のお小遣いを投資してきたわけでありますが、実は「今となっては意味がないということをやっていたことに、とても大きな意味があった」と私は思うんです。今は全てのものがいわば閉じたパッケージの中に入っていて、プログラミングをやるときでさえ、実はこのコマンドを使うときにはこれを呼び出せば良い。そのコマンドが実際にどのように作られているかということは見えない。場合によってはコンピュータのようなものでさえ基板全体がもう一つのものであって、それを分解して一部分を取り替えるというようなことはできない。取り替えるには基盤ごと交換するということしかできない。そういうふうに全体がよく言えばモジュール化されている。各パーツ、パーツごとにモジュールとしてまとまっている。だから取り替えるときにはそのモジュールごと取っ替えれば良い。これが技術の近代化がたどってきた基本的な流れ、歴史の流れだと思うんです。しかしながら、一方そのようにモジュール化、あるいはパーツ化、部品化というものが進むと部品の中身が見えなくなる。部品の中身が見えなくなることを通じて、その中で何が行われてるのかということがほとんどわからなくなっている。

 私自身も携帯電話やタッチパッドを使っておりますが、非常に高性能であるということがよくあり、本当に驚かされます。こんな小さい物中にこれだけのたくさんのセンサーを埋め込んでるというだけでもすごいなと思うのですが。今の若い人たちは例えば健康アプリとか、体重アプリとか、血圧アプリとか、あるいは温度計アプリであるとか、あるいは私達老人は聞き取ることのできない高い周波数の音を発して何歳程度の聴覚能力であるというのを調べるアプリとか、いろいろとありますね。しかし、それが「基本において、どのようなことを行ってその結果を出しているのか」ということについては見えなくなってしまってるんではないでしょうか?

 大げさに言えば有名な猿のあいちゃんっていう話があります。サルではなくて何か別の種類だという話も聞いたことがありますが、非常に知能が高い。知能というのはかっこ付き知能ですね。つまり文字が読める。数が読める。そしてその数が何を表しているかということについてもかなりよく認識しているようで、認識って言葉が正しいかどうかよくわかりませんが、ともかくコンピュータゲームのようなものをして正解を出すと、ピーナッツなどのご褒美がもらえる。猿のあいちゃんはそのピーナツが欲しいので、ものすごくそのゲームに慣れてさささってやるんですね。人間は大人であってもあんなに早くはできないんじゃないかとと思いますけれども、画面上でしかるべきところをタッチして正しい順番でタッチする。そしてピーナツを得るということができるんですが、私は電車の中で時々携帯電話を夢中に操作している人間を見て、ほとんど猿のあいちゃんと同じだなと感じることがあるんですね。それはその人たちを馬鹿にしてるんではありません。誤解しないでくださいね。

 つまり私達は人間であるから、本当は自分が何をやってるのかっていうことがわかる。そういう非常に高等な動物であるのに、技術のあまりの進歩のためにその技術の背景で何が行われているかということについて、何も知らないまま技術を使ってしまっている。技術者が開発した技術成果、そういうものを享受することができる。よく言えばそういうことですが、悪く言えば何にもわからないままやってしまってる。何もわからないで使っているということは、そのバックグラウンドでどのようなことがなされているか、ということに多くの人が気づいていないままそういう先端機器を使っているということです。コンピュータウイルスなどをはじめとして、コンピュータは今や大変高性能、マルチユーザー・マルチタスクでありまして、携帯電話でさえそうですから、携帯電話の所有者がやろうと思っていることでないことを、コンピュータにあるいは携帯電話にやらせることが容易にできるようになっているわけです。

 そして、多くのコンピュータあるいはインターネットのプラットフォーマーと言われる会社は、多くの人々にサービスを無料で、あるいは極めて低価格で提供することを通じて、巨大な利益を生むという、いわばバックグラウンドで動かす。そして、情報を集める。集めた情報をもとにして、広告宣伝を含む21世紀型のビジネスを展開する。というふうに文明文化が移行してきているという現実に、少し目を覚まさないといけないのではないかと思います。わたし達は子供の頃、親たちから「ただほど高いものはない」とか、「安物買いの銭失い」という言葉を、繰り返し繰り返し教えられました。今、コンピュータ関係のものは、ハードウェアもものすごく安いし、ソフトウェアもセキュリティソフト以外はほとんど無料と言ってもいいような状況になってるんではないかと思います。有料のものが全て優れているというつもりは全くありませんけれど、また実際に私が使っているLinuxっていうオペレーティングシステム、あるいはそのLinux上で実現している様々なソフトウェアの大部分、それは無料で配布されています。しばしば、それはオープンフリーソフトウェアというふうに言われています。ものすごく優れたソフトウェアがフリーで使うことができる。そういうありがたい環境にありますから、無料のものが全部悪いというつもりは全くありません。しかし、無料のものには実はそのような例外的なフリーオープンソフトウェアを除いては、「極めて邪悪な意図が裏で働いている」ということを人々がわからなければならないのですが、それがわからないくらいプログラムも複雑化し、その中身であるソースコードといいますが、それが公開されていない。そういう状況が現代の状況です。私達現代人は文明の大変に大きな恩恵にあずかりながら、実は文明のもたらすリスクがますます肥大化していくということに対して少し警戒心を持たなさ過ぎている。持たなさ過ぎているというのは妙な日本語ですね。警戒心、警戒を解き過ぎているのではないか。これが私の今日の問題提起です。

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