長岡亮介のよもやま話50「ローマの休日」

 最近のいわゆる西側諸国に属する国々の若い人の文化を見ていると、どこも多かれ少なかれ似たり寄ったりという傾向が見られるような気がします。ヨーロッパは必ずしもそうでないとも言えるのですけれど、アメリカや日本、あるいは韓国、そういうところの文化を見ていると特に若者の間で何かしらの流行というのがあって、それに敏感に感じるようなんですが、流行の根源をたどっていくと何なのかというと、結局流行を作り出す人々というのがいて、流行を作ることを商売としている。そして流行が「今年のこれが流行です」という形で流行を作り、その流行を先取りすることによって利益を確定するそういうビジネス、それにそのまま乗ってるようなそういう印象を持ちます。

 典型的には、スポーツの世界で非常に有名なスポーツ選手、それにいろんなスポーツ用品を提供する、あるいは自分の会社のロゴをつけた商品を身につけて、競技に出てもらう。そのことによってものすごい金額の契約金というのを払う。それはそれが広告になるからですね。そして、その広告になるというのはどういうことかっていうと、それがファッションを作る、流行を作るということです。そして、一旦流行ができると、その流行に多くの若者は、特に若者だと思うんですが、ひきつけられていく。年寄りの私から見ると、流行に乗せられていく。

 そういうふうな表現を使いたくなってしまいますが、私自身も自分の若い頃を考えると、やはりうまく流行に乗せられてたなと思うことがあります。その典型は、スポーツ用品ではありませんでした。当時、スタープレーヤーがやっていた、私はテニスが好きだったのでテニスをやっていましたが、スタープレーヤーの使っているラケット、それを使ったからといって自分がそのようにプレーできるとは到底思えませんでしたから、必ずしもそういうものに流されなかった。自分に分相応の道具を買うことで、不満を感じませんでしたけれど、私自身が流行に流されたというふうに思うのは、昔々見た「ローマの休日」という映画。オードリー・ヘップバーンというその映画で一躍世界の大スターになった、本当に清楚で美しい女性。それがグレゴリーぺックというなかなか素晴らしい男性と、ローマで一日の休日を過ごすという話なんですけれど。ローマというのを「ローマ帝国史」とか「全ての道はローマに通ず」とか、そういう世界史の言葉として理解し、あるいはイタリアが統一された後の言ってみればキャピタルとしてのローマというのを知ってましたけれども、「ローマの休日」という映画を見なかったら、イタリア特にローマに行ってみたいと思うことはなかったと思うんですね。

 まさにローマを訪問し、映画に出てきた様々な有名な場所を自分で訪問し、そしてオードリーヘップバーンがアイスクリームを食べた有名な階段のところで、あるいは広場といった方がいいかもしれませんが、そこで私もソフトクリームというかジェラートと言うんですが、それを食べる。全く愚かですよね。同じことをやったからといって、私がグレゴリーペックになったわけでも何でもありませんから。そしてイタリアローマでは、レンタバイクというのがある。レンタサイクルって言った方がいいかもしれません。要するにオートバイでイタリアでは Vespaベスパ)、日本ではスクーターですね。それを1日いくらっていうふうに貸してくれるサービスがあるんですけれども、そのVespa借りてまさにローマ中を走り回るという経験をいたしました。私は日本にいるときはあまりスクーターというのを好まず、普通のオートバイ、大型大排気量のエンジンのついてるバイクをかっ飛ばす、そういうタイプの人間だったのですが、ローマに行ったときには多分125CCから250CC程度の小型のVespa乗って、ローマを走り巡りました。グレゴリーぺックの気分になったということですね。有名な俳優、あるいは憧れのスターがやることと同じことをやると、自分もそれと同じように重ねて見ることができるというのは、若い愚か者の特権かもしれません。

 本当に冷静に考えてみれば、同じようなことをやっても実は全然違うものであるはずなのですが、そのはずであるという部分が見えない。いわば自分に対して盲目になっている。自分に対して盲目だっていうことは、最も恥ずかしいことであって、私達が自分に対して盲目っていうのは肉体の目で見ているんではなくて、自分自身を自分の心の中で見ているわけでありますが、その心の目が曇っているということですね。自分に対して評価が甘い。自己評価が甘いっていうことは、自分自身に自信を持っているということはちょっと違います。自分自身に自信を持つということは、それなりに厳しい努力を重ねて自分自身を磨いて、そして磨いてきて、自分が発達してきた、あるいは自分が上り詰めてきたというその工程に対して、過去の工程に対して自信を持つわけでありますが、そういう内なる自信ではなくて単なる幻想ですね。自分がグレゴリーぺックに近づいたわけでも何でもないのに、行動だけ真似してその気分になるというのは、愚か者の典型だと思います。私自身の若い頃の愚か者の経験。これを皆さんにいわば正直に告白することを通じて、皆さんの心の中にもそういう愚かな幼稚さというか、そういう要素がないかどうか、反省してもらえたら嬉しいと思っているわけです。

 というのは、私の子供の頃の時代と比べると、今や宣伝広告が本当に力を持っている。ヒトラー政権のときのゲッペルスではありませんが、もうどんな嘘でも何回でも繰り返して言えば、やがて人々が信ずるようになると、言わんばかりに宣伝をするということが、恥ずかしいことでなくなってきていますね。それだけに、そういう広告にさらされている若い人はその広告に惑わされないように、きちっと自分自身を見つめるように自覚的に努力してほしいと願うわけです。こんな広告第一の世の中にしてしまった私達大人が悪いと言われれば、まさにその通りと言わなければなりません。こういう広告自由主義というか、言ってみればメディアを使った霊感商法のようなもの。こういうものが支配的な力を持つようになってきているということに対して、私達はもっともっと慎重にならなければならない。特に若い人にはそういう傾向に対して警戒心を持ってほしいと願うのですけれど、やはりなかなかそれに逆らうことができない。

 そして特に弱い立場にいる人、あまり読書をしない人、あまり学問の世界に接近するという経験に恵まれない人、周囲に優れた友人を持っていない人、そういう人がそういう広告宣伝業界のターゲットになる。標的になってしまっている。そうでなくても若い人は、私自身の若い頃がそうであったように、広告宣伝に弱いわけですから、そういう若い人を守るために大人たちが果たすべき責任というのは、極めて重大で、私がこのお話をするのも多少なりとも老人として、若い人にその危険性を警告するという責任は果たしたいと思うんですね。そして私自身は、主には数理科学の勉強の機会、それを多くの人に、与えるというと傲慢ですが、そういう機会を持っていただくのを増やす、あるいは容易にする。そのために自分の余生をかけていこうと思っておりますが、そういういわば真面目な取り組みの他に、このような簡単なメッセージを通じて、皆さんに私が考えていることをお伝えすることもきっと無駄ではない、と信じてこのメッセージを送る次第です。

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