長岡亮介のよもやま話46「数学的な思索」

 今日は数学的な思索の原点がどういうところにあったのかということについて、お話をいたしましょう。どちらが先にあったかという問題はあまりにも古すぎるので本当に厳密に論ずることはできないのですが、「数と図形」が最初の数学的な対象であったということは、大方疑いのないところでしょう。非常に古い遺跡の中に残された動物の骨に、明らかに人工的な規則的に刻まれた傷の跡で、古代の人類が何らかの数を記録しようとしていたということが、強く推定される。おそらくは、私達が知ることのできる最も古い人類の数学的な施策の第一歩であったに違いないと思います。物の個数を数えるとか、あるいは日にちの経過を数えるのか、何らかの意味で「数える」という非常に抽象的な行為に、人類が出発したことの証明です。

 「数を数える」なんて子供でもできることだ、というふうにお考えの人が多いでしょうが、実はみかんであれ、リンゴであれ、動物であれ、あるいは収穫であれ、どんなものも同じ「数」というもので数えることができるということは、人間の抽象的な思考に向かっての第一歩であったと思います。考えてみると、2個のリンゴと2個のみかん、これは物質的には全く違うわけですね。あるいは2頭の野獣、全く比較すべくもない存在だと思います。しかし、「2」という点ではそれらに共通性がある。3個のリンゴ、3頭の野獣、これも全く違うものですが、3という数学的な捉え方をすれば同じ考え方が使える。ものすごく抽象的なことですね。人間の子供がかなり小さいうちから物を数えることを覚えるということは、ある意味で「人類が苦闘してきた歴史あるいは人類の思考が進化した歴史を、人間個人が同じように繰り返している。人類の過程を短い人生の時間に凝縮して体験しているということであるようなものである」という指摘がありますけれども、誠にその通りだと思います。

 「数」と並んで人類が最も早くから取り組んできた数学的な思索、それは「図形」ですね。元々はラスコーの壁画と有名な史跡にあるように、獲物でしょうか、動物の絵それを壁に描いていました。今では子供でもお絵かきというのは日常的な行為に過ぎないわけですが、実際に現実に見ている風景と絵とは全く違うわけです。大きさも違うし、一般には三次元的な拡がりも持っていないわけですから、それを紙あるいは壁に書くということは、図形の持っているある種の本質を抽出して、それを紙や壁に記録するという行為であると考えると、これもかなり高級な数学的思索と言えるのではないでしょうか。「数と図形」というのは、確かに人類にとって最初の数学的な思索の対象であったと私が申し上げたのは、このようなことを背景にしてであります。

 しかしながら、現在の小学校では「数と図形」というものしか勉強しませんけれども、古代より人類が達成した数学的な偉業というのはそれに止まりません。動物の皮を剥いで、自分の衣服を作っていたその時代から、やがて繊維を編んで布を作る。そしてその布を使って着物を作る。あるいは着物を着るための紐を作る。というような行為においては糸を縦横に組み合わせるとか、細い繊維を捻って丈夫な糸を作るとか、という行為が必要なわけですが、そこで必要となることはどういうことかと言うと、ある規則的な秩序の組み合わせ、例えば縦糸と横糸をどういうふうに組み合わせていくか。これは布の場合ですね。紐の場合でいえば、多くの繊維をどのように絡み合わせていくか、なかなか難しいわけです。ちょっと自分でやったことのある人はご存知だと思いますが、単に撚るというだけでは太くすることはできますけれども、安定した紐を作ることはできませんから、安定した紐を作るにはその紐を撚るという行為が重要であるわけですね。絡み合わせてほどけなくするという行為です。それにはある種の繰り返されるパターンが重要であるわけで、その同じパターンを繰り返す、あるいはパターンをいくつかおきいに変えながら繰り返す。いずれにしても、一つのパターンというものを継続して、それを一つのものとして繰り返し使うという思想が、そこで重要な役割を果たしているわけです。

 いろいろな個々の糸の撚り形、あるいは糸の絡め方、これを一つのパターンというふうにまとめて、それを全体として何回か繰り返すという考え方は、ある意味でこんにちの皆さんが勉強する「関数」という概念の起源といってもよいものでありまして、私達人類は「関数」に相当する概念を、既に思索の対象と古い古代の時代からしてきたということが言えるかと思います。もちろん、今までお話した「数」にしても、「図形」にしてもあるいは布や糸を作るという行為にしても、それは数学的に洗練された、完全に抽象化されたものではなかったと思います。数学的な概念のいわば原型と言って良いものだと思いますが、そのような原型にはかなり初期の段階で到達していたということですね。皆さんが勉強するのは、主として高等学校までの中で勉強するのは、そのような「数」「図形」「関数」といったもの、これが中心ですけれども、実は「数や図形、関数という様々な数学的概念の本当の背景に、より根源的なものはあるのではないか」という発想に、私達は19世紀の後半にようやく到達したわけです。実はこれを結論的に言ってしまうと、「集合」の思想というわけです。

 集合というと全員集合というような、集まりなさいというような動詞で使う言葉のように普通は思いますが、数学で「集合」というふうに言うときには、それを名詞として扱うわけですね。ものの集まりというものを、それを「物の集まり」ではなくて、一つのものとして新しく考える「集合」という考え方自身、これが独立した一つの数学的な思考の対象であるというふうに捉える。このように捉えると、「数」にしても「関数」にしても「図形」にしても、古代より私達が思考の対象としてきた数学的概念が、全て「集合」という概念でもって説明することができる、あるいはその「集合」という概念の中に全部包み込むことができるということの発見が、19世紀後半になされたわけです。

 まだあまり時間が経っていませんから、「集合」という概念を小学校や中学校や高等学校で勉強するときも、ほとんどその本質が教えられているようには思いませんが、概念を深く理解すると、その凄さがわかってくると思います。ここでは、その凄さについてお話することは避けますけど、数学の概念がこの身近なものからそれを抽象するという方法によって、次第次第に出来上がってきたものであるということ、それを理解していただけたらそれで十分です。そして、大切なのは、そのような数学的な思索は終わりがないということです。私は学校数学の範囲でわかる言葉で、数学の主要な概念を、「数と、図形、そして関数、最後に集合」という形で述べましたけど、皆さんの数学的な知識が増えるにつれて、数学的概念の豊かさ、豊穣さはさらに増していくわけです。

 残念ながらその事を勉強するには、大学以上の数学について少しでも触れることが不可欠とも言えますけれども、数学が数の計算やあるいは例えば図形についての面積の計算とか体積の計算、それで終わるものではないということ、そのことはぜひ理解したい、あるいは理解していただきたいと私は思っています。数学はとっても自由な世界です。その自由な世界の中に、様々な美しい構造や秩序、それを見出すこと。それを数学ではやるわけですね。

 例えば「数」についての最も基本的な秩序というのは、数の計算に関してでありますけれども、小学生でも誰でも知っていること、その中にとても面白い性質がある。その最も面白い性質の一つは、一番わかりやすいのは、A+BというのとB+A、A ・Bという文字で使うとちょっと難しいかもしれませんから、2+3と3+2でもいいです。それが等しいということ、これを数学では「交換法則」と言います。「2+3と3+2だったならば、両方とも計算すると5になるから等しい」というふうに言うわけですけれども、皆さんが中学で学ぶ文字式であれば、A +B 、B+Aという形で書かれる。これはA +B自身、B+A自身は計算できないわけです。こういうふうに書いて終わりなわけですね。にもかかわらずそれが等しいという性質がある。これを足し算、難しいことでは加法と言いますが、additionについての「交換法則」といいます。そして、この足し算に関する交換法則が、そのまま同じように掛け算に関しても成り立つ。難しい言葉では掛け算は乗法といいますが、乗法に関しても成り立つ。

 足し算と掛け算というのは全く別のものであったはずなのに、実は交換法則という点で見ると、全く同じ性質を持っているということです。実は交換法則だけではありません。理論的に最も重要なのは、あまり皆さんはご存知ないかもしれませんが、「結合法則」と呼ばれる性質がありまして、この結合法則に関して、足し算に関しても掛け算に関しても成り立つということ。これらを通じて、小学校の頃、最初の頃習った掛け算と足し算という全く別々の知識、それは実は抽象的に考えれば同じものである、こういう発想に、やがて至るわけです。小学生が勉強するときには、足し算と掛け算は全く別のものだと思われていて、「足し算に関しては簡単である。掛け算に関しては九九を覚えなければならない」というふうに全く区別されて学習されますね。

 しかし、数学的に考えてみると、実は両者は本質的には同じものであるという、そういうちょっと聞く不思議な、実はちょっと考えてみれば当たり前の深淵な世界が、そこに広がっているということがおわかりになるかと思います。しかも足し算と掛け算に関してはその両者の間に、「分配法則」という大変に不思議な性質が成り立っていて、この分配法則があるおかげで、私達は数の計算をいわゆる筆算という形で自由自在に行うことができる。こういう方法を私達の祖先は発見したわけですね。そして現代では、そのような技術的な知識が、実は理論的な深い理解と結びついているということが、わかってきているということです。

 ということは、子供の頃の算数で学んだ本当に基本的な事柄が、実は大学生のレベルになってもいくら聞いてもちょっとピンと理解することができないというくらい高級な事柄と、深く結びついているということです。数学というのは単純な世界のようでありながら、実はその世界はとどまるところを知らず、どんどん深まっていくということ。それを今日は最後に「数」を話題にしてお話しましたが、「図形」に関しても「関数」についても同様のことが言え、そして、それが「集合」の言葉で語ろうとするとさらに奥深い話があるということですね。汲めども尽きぬ数学の世界。これが数学の魅力であって、数学は小学生のように2+3が5と言えたらそれで終わりになるわけでは全くない。いわんや2・3が6というような計算を丸暗記したところで、そんなことには大して意味がないということです。

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