長岡亮介のよもやま話45「ハラスメント」

 前回差別についてお話ししました。差別に関連して、特に我が国では注意しなければいけない言葉に、ハラスメントという英語をそのまま日本で使っているものがあります。セクシャルハラスメントは性的な嫌がらせというふうに訳すのが一番しっくりきているような気がしますけれども、ハラスメントという言葉自身は、もう少し広い概念であると思います。日本ではそれがパワーハラスメントであるとか、時にはアカデミックハラスメントであるとか、そのハラスメントという言葉にいろいろな形容的な言葉をつけて、何でもハラスメントって言えばそれはいけないことであるというふうに、みんながその言葉自身を、あるいはその言葉で表現されるような行為と解釈されかねない行為を自粛する。むしろ萎縮するというふうに言った方がいいかもしれないとさえ思うことが、しばしばあるような気がします。

 しかし、パワーハラスメントという言葉は、私も実はあんまり知らなかったんですが、インターネットで調べてみると、主に東南アジアとか日本とか韓国とかの事例しかないようで、少なくとも欧米では、会社の上職つまり上役が部下に対して、その指揮系統故にハラスメントを働くというようなことはあまりないようですね。我が国では企業などにおいて、上下関係がいわば主人と奴隷のようなそういう上下関係であることも伝統的にはあるようで、パワーハラスメントというのは深刻な社会的病理として、指摘されることが多いのではないか、と私は考えています。

 およそ企業としての意思決定システムというのが存在しうるためには、当然のことながらボトムアップ、下から上へと意見を吸い上げるということと、トップダウン、上の決定に下が従うということ、その両方が必要であることは自明でありまして、全てがいわゆる普通選挙のように1人1票というような形で、民主主義的に意思決定をすることが良いことでないということは、政治を例にひけば明らかでありまして、営利企業の場合であれば、その企業の創立に資金を出した株主、あるいはその企業を支えている従業員そしてその家族、多くの人々のために最大の利益となるということを追求していくということが、組織としてのいわば宿命的な目的であるわけですね。宿命的な目的、最終目的と言ってもいいですが、それに対して合理的である、ちょっと難しい言葉を使うと「合目的的」と言いますが、そうであることが重要であって、そのためにはボトムアップとトップダウンの両方のチャネルがうまく機能することが重要であるわけですが、最終的には先ほどの究極的な目的のために合理的な判断がなされなければならない。「ボトムアップだと民主的で、トップダウンだとパワーハラスメントである。」というような言い方はあり得ないということは、企業人ならば誰でもわかることだと思います。

 トップダウンの代表的なものは軍隊でありまして、軍隊においては上官の命令は絶対に服従する。これは世界中の軍隊において一貫して流れている思想であると思います。指揮官が兵隊に対して命令を下すということですね。他方で軍隊のような組織が人間社会において最も理想的なものではない。ライバルと競争する力をきちっと付けるその目的のためにも、軍隊的な規律、これがその集団の力を最もよく発揮する方法であるとは限らないわけですね。そういう軍隊的な規律を重んじる風潮を、私は全体主義という言葉を使うとわかりやすいような気がします。世界にはいまだに全体主義的な国家が存在するという、大変に残念な事実がありますが、ひと度全体主義的な体制が樹立されると、それを覆すことには大変な困難があるということを、私達自身の戦前の文化、それを振り返ってみれば明らかであろうと思います。現代の若い人たちであれば、あのような勝目のない戦争をなんで最後の最後まで日本人は戦い続けたのか、信じられないという思いだと思います。しかし、軍国主義が全体主義的に力を持った時代には、国民がむしろ自発的にその全体主義に自らを重ねてしまったわけでありまして、現代でも全体主義国家の中には多かれ少なかれそういう傾向があると思うんです。実は私に言わせると、パワーハラスメントというのはまさにこういうことに対して使うべきであって、東南アジアの国におけるハラスメントの特徴の一つとして外国で揶揄されるように言われるパワーハラスメントという言葉、これを日本人が好んで使ってる現状は少し情けないように思うんですね。

 パワーという言葉は、権力とも、力とも、あるいはエネルギーのような潜在的な能力というふうにいろんなふうな翻訳があると思いますが、いわゆる権力とか権威とか、これをむしろこれだけを根拠にして、他人に対して抑圧的に振る舞うということは最も恥ずべきことであるのに、そのことを忘れて権力者、あるいは権威ある人間として振る舞う。そういう傾向が私達の文化の中にあるとすれば、それをなくす方向で1人1人が積極的に努力していきたいですね。それは、そういうことを言うとパワハラであるとか、そういう表現を使うとパワーハラスメントとして受け取られかねませんよ、というふうにして表面上だけ取り繕うというのは、最もいけないことではないか。むしろ表現なんかどうでもいい、むしろその表現された内容、実態、それをこそ問題とすべきであると私は思います。皆さんはどうお考えになりますか。

 表現ももちろん重要ですが、より大切なのは表現されたものである。表現自身ではなくて、表現されたもの、その表現の意味するところのもの、その表現の本質、それを見極めるということが大切であって、少なくとも表層的にその表現を避ければ何とかなるという考え方は、極めて軽薄で、むしろそれこそが抑圧されたる人に対して抑圧者の悪辣な企み、それに実際には帰依してしまう。それを賛嘆してしまう。そういうことに繋がるのではないか。私達はむしろそのような表層的な問題にとらわれず、「物事の本質を見極める。」そういう姿勢が大切ではないかと思います。

 確かに私のようにあまり言葉遣いに頓着しない人間は、周囲の人からもう少し表現の仕方を工夫したらどうか、とアドバイスを受けることがしばしばあり、私も確かにそうかもしれないなと思うことも少なからずありますけれども、言い方の問題よりは、表面的な表現の問題よりは、やはり事柄の本質、それを見失わないという態度が、日常的に貫かれることこそが大切であって、表向きだけ問題ないかのように振る舞う、あるいは問題とされないように振る舞うというのは、結局のところ無責任な逃亡に他ならないと思います。

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