長岡亮介のよもやま話43*数学を勉強する3「数学的な精神」

 前回は数学を学習すること、数学を学ぶこと、その意味あるいは意義の一つが「言葉に対して敏感になることである」という趣旨のお話をいたしました。抽象的な言語を使いこなすようになることができること。そして抽象的に表現されたものを具体的な例で考えることができるようになること。このようなことが自分の外の世界、自分と異なる文化、異文化と言いますが、その本質を理解する上で大変に有効なのではないかというお話でもありました。今回はこれに関して、弁明というか弁解というか、ちょっとかっこ悪い話ではありますが、皆さんの中から手厳しい批判が次のように出てくることを予想して、私なりの考えを述べさせていただきたいと思っているからです。

 その手厳しい批判とは、「では、数学をやってる人たち、数学者や数学教育に携わる人は、言葉をそのように精密に使い、異文化に対して常に謙虚な態度でいるかどうか。数学をわからない人間を非人間扱いし、あるいは切り捨てている。そういう傾向はないと断言できるか。数学をやっている人間は、数学こそ意味があるというような自己宣伝あるいは自己陶酔の世界にいて、他文化、あるいは異文化、広くは他者ですね、他者の理解に対して本当に心を常に開いていると言えるか。」というご批判であります。このご批判に対してもし誠実に答えるとすれば、「確かにおっしゃる通りである。数学をやっている人の中にも立派な人はたくさんいるんですけれども、とても数学を離れては立派とはいえないと言わざるを得ない人が存在することは事実であると思います。」

 そして皆さんが、皆さんの人生の中で出会ってきた、そういう数学をやりながらも、人の話を聞くことができない、あるいは人の気持ちを理解することができない、そういう人がいるということが事実であるとすれば、それはまさしくその通りでありましょう」と、私も率先して認めるものの1人です。私が今まで知っている立派な数学者は、人格的にもまた文化的な見識においても実際に尊敬すべき人たちでありましたけれども、数学者を名乗る、あるいは数学教育に携わっているという人の中に、「数学こそ素晴らしい」というふうに、言ってみれば、排他的に数学の価値を語る人が確かに存在していたと思います。そして現在も存在しているのだと、そういうふうに想像いたします。

 しかし、ここで皆さんにぜひ心得てほしいことは、そのような批判はある意味で、戦争しているキリスト教徒に対して、「キリスト教は汝の敵を愛せよと、そう教えてるんではないか。それを、敵を殺すというような戦闘行為に加わるのはいかなるものか。それはキリスト教と矛盾してるんではないか。」という批判と似た批判ではないかということです。実際にアメリカがベトナムで戦争をしたときに従軍の牧師、従軍神父と言われる軍隊に所属している兵士のために祈りをする、そういう宗教の専門家が軍に連れ添っていくというような話をいっぱい聞いています。どの宗教においても似たような状況があるかと思います。

 我が国では、イスラム教が非常に排他的な宗教だと思い込んでる人が少なくありませんが、イスラム教徒の中にもイスラム教徒的でない人が存在するのは、キリスト教徒の中にキリスト教的でない人が存在し、また仏教徒の中に仏教的でない人が存在するのと全く同様だと思います。同じように、数学者、あるいは数学教育に携わる人の中に、その人の生き方において数学的とは到底言えないという生き方を選んでしまっている人がいるという、人間的な限界を物語る現象は見出すことができるでしょう、と私は弁解したいのです。

 そのような現実があるとしても、数学の理想はそのような現実とは全く別に存在しているんだということをわかっていただきたい。現実のキリスト教徒が必ずしもキリスト教の教えに従ってないとしても、キリスト教の倫理というのはあるのと同じように、数学を自らのなりわいとしている人々あるいは数学を教えるということを生きる糧としている人々の中にも、必ずしも数学的な精神で生きてない人がいても決しておかしくはないということです。そういう存在も含めて数学を理解するということも、一種の数学的な精神のもとで初めて可能になることではないかと私は思います。

 数学的な精神、それを学んでない人は他者に対して寛容になることがなかなかできないのではないでしょうか?数学というのは、決して排他的な、自らの価値観を人に押し付けるのではなく、数学の魅力こそ語るべきだと思うのですが、なかなか現実はそのような理想的には進んでないということを、弁解させていただきたいと思います。そして、もし数学を、数学の魅力をと言うべきかもしれませんが、あるいは数学の価値を排他的にしか語らない。言い換えれば、数学以外のものを否定して、「数学こそが唯一大切なものである」というふうに、数学の魅力を排他的に語る人がいたとすれば、それはその人が数学を認めてもらわなければ生きていくことができない、というところまで追い詰められていることの結果に過ぎないと、理解してあげてほしいと思います。

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