長岡亮介のよもやま話41「数学を勉強すると違った世界が見えてくる」

 「数学を勉強すると何に役立つか」というよくある質問について、全く違った角度から答えてみたいと思うんです。全く違う角度からというのは、もし皆さんが自然科学に強い興味を持っているならば、数学がその世界では不可欠であるということをご存知でしょうし、また皆さんが経済学のようなものに興味あるならば、経済学を説明するために、あるいは理解するために数学が必須であるということは、もう言うを俟たないと思います。他方、そういうことは全く無関係に、例えば自分は日本の古典文学について関心を持っていると、平家物語の世界をもっともっと詳しく知りたいとか、あるいは日本の和歌について理解を深めたい、万葉集の世界の奥深さを極めたいと思っている。そういう人にとって、数学は全く不必要ではないかと、思われがちですね。

 私は、しかしそういう人に向かって、実は近代科学のために、あるいは近代の経済学のために、あるいは法律学の論理的な文章を解読するために、数学的な理解が必須であるということを強調したいのではなく、むしろ反対に、数学なんか全く関係ないと思われてる世界に進みたいと思ってる人に、「数学の理解があるかないかで違った世界が見えてくる」という可能性についてお話したいと思うんです。特に高等学校までで数学の勉強を一切終えてしまうであろう人、大学に行ってからさらに数学の勉強の機会に恵まれているという人ではなく、高等学校で数学とおさらばしてしまう、場合によっては中学校でさよならしてしまう。そのように運命づけられている、あるいは自分を運命づけている人に対して、申し上げたいことで、数学の言葉を理解するということは、実はそういう分野に進む人にとってもとても有効である、ということをお話したいわけです。

 例えば小学生でも、何とかより大・何とかより小という言葉と、何とか以上・何とか以下ということ、その違いを知ってますね。例えば身長が180cm以上の人というのと、身長が180cmより大の人というのは、数学的な意味が違う。もちろん実用的には、180cm以上と180cmより大の人を、実際に区別するということは、実用的には全く無意味ですね。身長を計測するための身長測定器の目盛りを見ても、それがたとえデジタルであろうとアナログであろうと、要するにすごくいい加減なわけです。というのは、世の中にはデジタルなものが精密だと思ってる人がいますが、デジタルなものほどいい加減なものはない。つまりデジタルなものは、有効数字があらかじめ決められていて、例えば身長で言えば、ミリメートルの単位まで答えを出すとか、あるいはそのミリメートルの一つ先の単位0.1ミリメートルの世界まで正確に測れる。そういうものであるから、基本的に数学的な、「より大」というのと「以上」というのを区別することにはほとんど意味がないですね。

 つまり、ぴったり180cmの身長の人というのは世の中に存在しないと言ってもいいわけで、実数と言われる数学の世界のようなものと、実用的な身長の世界、これは意味が違うわけです。皆さんの中には、長さというのは連続量であるから、「以上」と「より大」は違うというふうにおっしゃる人がいるかもしれませんが、実はよくよく厳密に考えてみれば、「それは区別することに意味がない」ということがわかる。例えばこういうことがわかるだけでも、ちょっとすごくないですか。

 そういうことを全く考えない人は、身長のような連続量の世界、長さのような連続量の世界では、「より大と、以上というのは意味が違う。」こういうふうに素朴に考えて終わりですね。そういう素朴に考えている人に対して、そのことの愚かしさというのを指摘することができない。小学生あるいは中学生に対して「より大というのと、以上というのを厳密に教えなければいけない」と張り切ってる数学の先生が時々いらっしゃいますけれど、あんまり張り切って教育する意味はない。それは、低学年の段階ではそのような必要性がないからです。その必要性がないということが、数学を勉強すると厳密に理解できる。他方、数学をより深く勉強すると、「より大というのと、以上というのを厳密に区別することに、重要な意味がある」ということがわかります。

 例えて言えばこういうことですね。例えば私は今、身長といったので180とかいう面倒くさい数字を言いましたけど、理論的な話をするわけですから、話をできるだけ単純化して、「1より大」というのと、「1以上」というふうに話を単純化しましょう。「1より大」という世界と「1以上」という世界とで何が違うかというと、「1が入ることを許すか許さないかである」というのが低学年的な理解ですね。「1より大」というときには、1は入らない。「1以上」というときには1も入る。とこういう理解です。しかし、そのときに、入るとか入らないとかという言葉を使うときに、初学者は言ってみれば無意識の中で数を直線でイメージして、直線の1以上の部分というのと、直線の1より大の部分、いわば数直線の話でありますね。それを無意識に前提としている、暗黙の前提としてしまっているわけですね。しかしながら、「数直線というのは一体どのような存在であるのか」ということを厳密に考えると、先ほどのような1を含むか含まないかというような、素朴集合論的な理解の底の浅さに気づくわけです。

 これは面白いことに、英語の方が正確に理解することができる。「1より大」は、「greater than 1」というふうに言うわけですね。比較級ですね、形容詞の比較級、「greater than 1」「1より大」。「1以上」「greater than or equal to 1」というふうにいうわけです。1より大きいか、または1に等しい。そのorという言葉、接続詞でもって、「1以上というのは、1より大きいか、または1に等しいことである」という条件を正確に表現できるわけですね。

 このときに、私達は「数直線を考える必要は全くない」ということに注意してください。「1より大」というのと、「1に等しい」というのは何を意味しているとしても、「1より大、または1に等しい」という表現は使うことができる。「または」という論理的な接続詞が理解できている人ならば、その言葉を使うことができるわけです。

 従って英語圏の人のように、「1より大」「1以上」という概念を理解したとすると、今度は数直線的に理解してることの方がメリットが大きいという面があるということにも気づきます。どういうことかっていうと、例えば「1より大きい」、そういう数の中で最も小さな数は何かという問題を出したときに、「1より大」の数、その世界を考えたら、その中で一番小さい数は何か。答えは存在しないとなるはずですね。なぜならば、「1より大きい」そういう数の世界で一番小さな数として「n」という数があったとすると、「nが1より大」ならば、「nよりも小さい1より大きい」数が存在するということが証明できる。例えば「(n+1)÷2」ってやつですね、2分の分子がn+1、そういう数を考えると、それはnよりも小さく、かつ1よりも大きい。おわかりになりますか。つまり、「1より大」という数の世界では最小の数は存在しないわけですね。それに対して「1以上」という数の世界では最小の数として1が存在する。こういうことがわかる。このようなことは、数直線の幾何学的なイメージで考えると、区間の端点が入っているか入っていないかということで理解することができる。区間の端点が入ってなくても区間としては一人前、それを開いた区間、開区間という。こういうのは高等学校で勉強するわけですね。それに対して「1以上」っていう、端点が入っている間、これは閉区間というふうに言うわけです。

 ところで、閉区間・開区間という言葉を学ぶと、どんなことがわかるでしょうか?私達は「昔々の人々が世界は有限である。宇宙は有限である」と考えていたという話を、いろんなもので聞きます。「無限宇宙」というのが当たり前のものとして考えられるようになったのは、ごく近代の話でありまして、古代ギリシャでは最も頭の良い哲学者でさえ、宇宙が無限であるということを主張した人はごく少数でありました。「閉じた有限の宇宙」という世界に生きていたわけです。

 そのような「閉じた有限の宇宙」というのを現代人が考えると、そんな馬鹿げてるんじゃないかと。そんな有限の世界であるならば有限のところのヘリまで行って、そのヘリのところでもっと先まで行けばおかしい、矛盾が生じるじゃないか、そう思ってしまいがちです。しかし、もし先ほどの開区間のように、端点がない世界、ターミナルがない、そういう世界であれば一番端のヘリっていうのはないわけですから、たとえ有限であっても、数学ではそれを有界っていうふうにより厳密な言葉で表すんですが、「有界であったとしても境界、必ずここで終わるという限界があるとは限らない」ということを理解することができる。その有界なんていう高級な数学用語を知らなくても、高校生でさえ実は「1より大」という数の世界では最小のものは存在しない。反対に言えば、例えば「10より小」という数の世界では最大のものはないということ、同じように言えるわけですね。こういうことを知っていると、昔の人々の持っていた世界像に対して、「それは科学的に考えてみてありえないだろう。」「全く非科学的なナンセンスである。」と、そういうふうにそういう昔の人々の思索、それを馬鹿にして終わりにしてしまう。そういう愚かしさから少し自由になることができるわけですね。

 私達は、数学という厳密な言葉遣いを知ることによって、自分の文化と違ういろいろな文化圏の人々の様々な創作活動、それの意味・偉大さに共感を持って接することができるということです。反対に数学を知らないと、いわば近代科学の開かれた世界、それを自明のものとして、その世界を知らない人間のことを小馬鹿にする。そういう傲慢な人間になってしまいかねない、と私は思うんです。数学を通して、私達は数学以外の文化に対しても寛大になることができる。その文化に対してより広い心で接することができるようになる。そういう数学の学習の大きな意味について、お話したいと思いました。

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