長岡亮介のよもやま話36「科学と技術の違い2」

 昨日「科学と技術」という日本では互いによく似ていて、区別をする人さえ少ない、その世界の間にある大きな区別についてお話いたしました。最近では、理系文系という言葉でもって大きくは理系でくくられる科学と技術、その間に大きな断絶があるということに、若者が、特にいわゆる理系を選択する若者の間にすら、明確な区別がなされていないということに、私は少し悲しい日本の教育の現実を見る思いがしているわけです。

 昨日の話は一言で言えば、科学というのは、「なぜだろう。なぜかしら」という問いに対して、それはこうこうこういうふうな理由で説明することができる。「こういう仮説が成り立つとすれば、この結論が導かれる」というふうなやり方で、現実の現象そのものをとりあえず置いておいて、それを説明するための理論を構築する。その理論ができたら、その理論によって、どれほど現実の現象が精密に描写できているか。精密に描写できるかどうかの一つの指標は、将来を予測することができるかどうか、という予測可能性あるいは予測の精緻さにかかっていると思いますけれど、そういうものでもって図る。

 つまり、科学的な理論が現実の現象を予測する、あるいは予報するのに使える。そうであるならば、現実の現象を説明する原理になっているのではないか、そういうふうに期待するわけですね。しかしながら、科学はいつも「こうこうこういうことを仮定すれば、現実はこうなるであろう」というふうに説明することができるだろうというように、言ってみれば、一番最初にこうこうこうであるとすればという仮定が、絶対的に不可欠なわけです。こうこうこうであればというのがなぜ成り立つのかって言われると、困ってしまうことが多いわけですね。とりあえずその事は認めてほしい。このことを認めないと、議論が始まらないからとりあえず認めてほしい。こういうのを数学以外の世界では仮説っていうふうに言います。数学では仮説っていう言葉をさらにより先鋭化して公理 axiomって言葉を使いますけれども、議論の前提として、これは認めてほしいというものであります。

 歴史的にはこの公理という言葉についてもいろいろな議論がありましたが、現代であれば公理と言ってしまってよろしいでしょう。一切の科学には仮説ないし公理が仮定されているということです。この公理自身をまた説明するための理論というのもあるわけでありまして、私達は最終的な公理それが何であるかということについて答えを持ってるわけではない。しかし、何らかの科学を名乗る以上、「常にそこにある種の前提がなされ、その前提が成り立つとすれば、こういう結論が論理的に導かれる」というふうに、現実を説明するわけですね。この意味で科学はある意味で、現実の現象ではなくて、理想的な現象、それを私は「理念的な現象」っていうふうに前回説明したと思いますが、そういう一種の理想の世界から出発している。

 それに対して、実際の技術というのは現実から出発すると言ってもいいでしょう。大げさに言えば、まさに現実の現象が説明できなければ、技術として意味がないじゃないかと、エンジニアの人はきっと言うと思います。しかし、そのエンジニアリングの世界でさえ、本当に深い仕事は極めて理論的な背景をしっかりと持ったもので、すぐに役立つような技術というのは、本当の意味での技術ではない。それは言ってみれば、やっつけ仕事のようなものであると。深い深い技術というのは理論的な背景もしっかりしており、かつ、技術的な歴史も踏まえられているというものであると思います。そのような先端技術というものが、昨日の話を例に引けば、最後は神頼みをするより仕方がない、とにかくやってみなければわからないというギリギリの限界のところで勝負する。これが技術の技術たる所以だと思うんですね。だから技術は駄目だというふうに言うわけでは全くありません。技術者がそのギリギリの限界の理想、それを追求してるっていうことに私は深く敬意を表するものです。

 しかし多くの人は、この技術というものが、まるで科学の成果であるかのように100%それで証明されたものであると、そういうふうに信じ込んでいるのではないでしょうか? そこに大きな過ちがあるということを私は指摘したかったわけです。理論と違って、技術には必ず考えもしなかった落とし穴がある。考えもしなかった想定外の落とし穴、これがすぐに見つかるところにあるようだったらば、それは設計が平凡なだけですね。非凡なエンジニアの設計というのは、そんなことを見過ごすものではありません。しかし、どんな非凡なエンジニアが取り組んだとしても、技術には解明できない謎がある。その謎の部分を解明するのを待っていたら、技術が技術として生かされない。今日必要なものは今日中に作ってくれ、これが技術者が自分達に課せられている要求と思って受け止めているものだと思います。技術というのは人のために役にたつということなのですから、明日役に立つなら仕方ないのだと。今日役に立たなければダメなんだと言われて、それに応えようとするのが技術者魂というものでしょう。

 反対に科学というのは、今日役に立つこと、明日役に立つこと、それが大事なんじゃない。深い真理に到達するかどうか、それが大切なんだと。いかに深い真理を見抜くか、その真理を見抜くことによって、それが技術として人間社会に役に立つという日がいつかは来るだろうけど、それがいつ来るか、明日来るのか、明後日来るのか。一年後か十年後か百年後か、それはとりあえず考えない。そうではなくて、人類が知り得る真理、それに一歩でも二歩でも前進するっていうところ。それに科学の科学たる所以があるわけですね。

 科学において、それがいつ役に立つかということを求める人は、科学に向いていません。科学は役に立つことではなく、いわば人知の栄光、人の知恵の栄光をたたえるためにあるというようなものであって、それが結果として人類の文化や文明に大きく貢献してきた。特にこの数百年間そうであったっていうことを、私達は踏まえて考えていく必要がありますが、本来、「科学と技術とは別の世界にあるんだ」っていうこと、これを忘れてはいけないと思います。そして、科学のロジックでもって技術を切ってはいけないし、技術のロジックでもって科学を割り切ってはいけない。どちらもまずいということ。それをちょっと補い損なったと思いましたので、今日の分として補っておきます。

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