長岡亮介のよもやま話32「マジョリティーの「絶対」

 マイノリティ・マジョリティーについてのお話をこの数回してきておりますが、これと私達が毎日接している科学、自然科学、あるいは近代自然科学、場合によってはそれに密接に関係する近代的な技術に関して、私達がしばしば誤解していることがあるんではないかということについて、ちょっと違った角度からお話しいたします。この数年SARSと呼ばれる非常に逼迫した症状の起きる呼吸器障害、それをもたらす感染性の非常に強力なウイルス、それの変異株の出現によって、COVID-19っていうふうに国際的には言われてますが、コロナウイルス感染症2019年型、もう既にだいぶ年月を経ているわけですが、私達はそれを克服することとは程遠いところ、そしてむしろそれと同居する、そういう時代に入ったというふうに多くの人が見ている。そういう時代の中に生きています。

 そして、少なくない日本人あるいは多くの日本人は、これがやがて本当の意味でこの問題が解消されるだろうと、そういう日がやがて来るだろうというふうに、期待して考えているのではないかと思います。確かにいわゆるCOVID-19の大流行に関しては、あと10年とか20年とかすればそれが歴史的な事件の一つとして語られる、そういう時期がやってくるかもしれませんが、すぐにそういうふうになるとは思わない。何か「収束宣言」というものが早く出るんじゃないかというふうに期待してる人がいますが、そもそも空気感染症に関しては、そんなに簡単に収束宣言が出せるはずもない。そもそも反対に言えば、それが流行してるからといって、一部の国のように都市を全面的にロックダウンする、遮断するそういうようなやり方が、流行の爆発を防ぐ上で、あるいは病室の介護体制を逼迫させないうえで大切であるという判断。それが「病気に対する我々の現代的な知見に基づいて科学的に推論されている」というふうに考えている人が、圧倒的に多いのだと思います。

 私自身は残念ながら、科学サイエンスというものも大きく発展してきてはいますけれども、そして、医療を含む生命科学のように発展が本当に遅かった分野でさえ、21世紀に入って爆発的な発展を見せている、そういうふうに考えますけれども、依然として私達は「本当は暗い無知な闇の中にいる」という現実を知らなければいけないんではないかと思うんです。私達はそのときそのときの大発見に躍動して、これで歴史の歯車が一つ進む。そういうふうに肯定的に物事を考えます。肯定的に考える。積極的に物事に対して立ち向かう。これは人間として勇気ある立派な態度であると思いますけど、一方でそういう勇気というだけでは、私達の持っている「絶対的な無知」に対してあまりにも無知で、その結果無謀になってしまうということを私は恐れるんですね。

 私は、現代の科学の最前線について語る能力は持っておりませんので、少し昔話をさせていただきたいのですが。病気に関しては本当に私の生きているわずか四半世紀の間、本当にごく最近の間だけでもその治療法に関して、劇的に異なる方法が提案され、そしてそれが実施されるようになってきました。皆さんには信じられないかもしれませんが、私が子供の頃、やんちゃな子供が怪我をして血を流しながら家に帰ると、「赤チン」を塗ったもんです。「赤チン」というのは水銀を含む溶液でありまして、その水銀の皮膜で血管から出血する部分を覆い、空気と遮断する。それによって、好気性の菌、空気を好む菌を殺すということが期待されていたわけです。しかしながら、実は空気を嫌う菌、空気がない方がより活発に活動し繁殖する菌というのも存在するんだっていうことが見つかり、また水銀の皮膜を作るということは、有機水銀ほど体に悪いわけではないとしても、健康に良いとは言えないというようなこともあって、「赤チン」というのは、すっかり市場から消えました。

 同じように市場から消えたものに「ヨードチンキ」っていうのがあります。これはまたして、もう強烈なものでありまして、おじいさんおばあさん、私以上の年代の方であれば、みんな知ってるはずですが、ものすごく沁みる薬で「良薬口に苦し」と言いますが、口に苦いなんてものではない。ものすごくつらいわけです。しかし、その「ヨードチンキ」っていうのは殺菌性が強いので、とても重要だというふうに言われて、大怪我をしたときには「ヨードチンキ」ヨーチンというふうに略されてましたが、塗ったものでありました。その「ヨードチンキ」の殺菌力に関して、極めて否定的な見解がエビデンスに基づいて提出され、「ヨードチンキ」は市場から消えました。やがて登場したイソジンという、非常に強力な殺菌力のある消毒薬が出てきまして、これが爆発的に流行しました。イソジンはうがい薬にも薄めて入れるといいと言われて、家庭生活にも一部入ってきました。外科の手術でもその手術に先だって殺菌をするのにイソジンっていうのがたっぷりと使われていた。手術を縫合した後の傷のところも傷が痛むといけないということで、イソジンが塗られていたといいます。

 ところが、今では手術の後にイソジンを塗るという外科医は多分存在しないはずです。なぜならば、消毒薬というのが傷口の細胞を破壊してしまう。そのために傷の治りが遅くなるということが、やはりエビデンスに基づいて示されて、もう手術の後は消毒せず、清潔を保ったまま縫合する。そして自然の治癒力を高める。そのために乳酸飲料を手術に先立って、1週間以上にわたって服用する。そういうことが進められるようになってきてるわけですね。消毒のようなものすごく基本的な事柄に関しても、大きく変わってきました。ひょっとすると、今もっともっと新しいものが流行っていることでしょう。

 そんなわけでありますので、もっと難しい病気に対する治療に関しては、本当に笑ってしまうくらい馬鹿馬鹿しい事柄が、今まで使われてきたわけでありますね。かつて米のご飯というのが最高のご馳走であったときに、米に含まれている栄養価の高さに注目したある医者が、兵隊の食料を米にすべきであるというふうに主張して、戦死者よりも多い死傷者数を引き起こしたという大事件がありました。なんとそれが文豪森鴎外、彼が医者として活動したときの話であります。もうその時期の医学というのは、東京帝国大学医学部にしてからがその状況でありますから、例えば結核の問題についてでも、ほとんどわかってなかった。なんとびっくりすることに、古賀液とかっていう日本語なんですが、そんなものが注射で結核に効くというふうに思われて、使われていた時代もあります。そしてそれは決してそんなに昔のことではなかった。古賀液のために亡くなった人もいっぱいいたわけであります。

 人類は多くの失敗から教訓を学んで、少なくとも医療においては人間がやることであるから、それはミスは避けられないけれども、「避けられるミスを最小限にしなければならない」という思想がアメリカで特に大きく叫ばれ、日本にも導入され、今ではそのエビデンスに基づく医療「EBM」というのは、医学の当たり前の常識になっておりますが、エビデンスに基づかず、権威の言うことを聞いていればそれで済むという考え方は、実は専門家の医師たちの間だけではなく、実は庶民の間にもあるわけでありますね。言ってみれば、マジョリティーの意見に従っていれば、自分は孤独でないという安心感といっていいでしょうか?

 例えばアレルギーっていうものが流行語になった時代がありました。何でもかんでもアレルギー、そういうふうに言っていいくらい多くのアレルギー反応が見つかったわけでありますね。私の子供の頃は本当にアレルギーっていう言葉が、ドイツ語ですね、英語だったallergyいうところでありますが、そのアレルギーっていう言葉が我々の日常生活に頻繁に登場するくらい、その反応はごくありふれたものであり、一番最初にお話したコロナに関しては、実は私達の持っているアレルギー反応、それが過剰に暴走することによって、私達の生命の危険すらもたらすっていう、そういう指摘もあるくらい、実はアレルギーというのは、人間を本来、他者と区別して、一人一人の個人を他者と区別して個人を守るための機能ですが、その機能がしばしば誤動作して、人間に悪さしてしまうということがある。そのアレルギーを避けるために、一昔前はアレルギー反応を持つ人は、そのチェックをしてそのアレルギーを引き起こす物質からできるだけ遠ざかっているべきであると、考えられてきました。今でも花粉症対策で、眼鏡やマスクをするっていう人は、いっぱいいらっしゃると思います。それは、伝統的なアレルギーに対する治療法のプロトタイプと言ってもいいでしょう。

 ところが、アレルギーの中には食物アレルギーという厄介に病気があって、小麦を食べるといけないとか、ピーナッツを食べるといけないとか、非常に不思議な症状があるわけです。そして、それが場合によっては、致命的な症状をすれば引き起こすということもあって、そのアレルギーを持つ子供に対する治療というのは、そういう食物からいかに遠ざけるかということ、それを中心に行われてきました。しかしながら、最近ではもう既に一部の番組で報道されているように、「アレルギーというのはそういう物質にある程度早い段階で少しずつ触れさせていく方が良いのだ」という考え方が出てきた。例えばピーナッツにしても小麦にしても、「少量ずつ赤ちゃんの頃から慣れさせていく」ふうにするのがいいんだという考え方ですね。これは単なる考え方だけではなく、その考え方に基づいて大量の疫学調査をして、有効性が証明されてきているわけです。

 言ってみれば「人間にとって、害毒になりかねない物質と触れ合うことが大切である」ということの最初の発見には、これまた有名な話ですが、アメリカで集団的に昔からの19世紀的な生活を保守的に保存しているというか、そのしきたりを守っているアーミッシュっていうドイツ系の敬虔なキリスト教徒の集団がいて、アーミッシュというのは家畜と一緒に住んでいるんですね。したがって家畜の持っている様々な細菌に対して赤ちゃんの頃から触れている。そのことが、アーミッシュの人々がある種の非常に深刻な病気から守られていることの原因ではないか、ということが早くから注目されてきて、今やそれが医学の常識となりつつある。

 ともすると「医学的に正しいのはこれだ」というような結論は、その時代の結論に過ぎないんですね。私達は、限界を持った結論を、その限界を知らずに「普遍的に正しい」「もう絶対何が何でもこれが正しい」、こういう言い方をしてしまいがちです。絶対これがいいとか、絶対に反対であるとか。「絶対」という言葉を、私達はあまり気楽に使うべきではない。私達の持っている知識は常に有限であって、非常に限られたものであって、決して神様のような知識を持ってるわけではない。でも、私達の現在持っている知見を総合すると、これが現在のところ最善であると考えられる。しかし、もしかしたら最善でないかもしれない。そういう留保をつけるというゆとりが、心のゆとりというよりは、頭脳のゆとり、精神のゆとり、心のゆとり、なんと言っていいかわかりませんが、最終判断を保留する勇気を持つべきだと思うんですね。

 と同時に、決断をするときには、その決断に対して自分が責任を持つ。人に責任を押し付けないということ。自分が信頼できる人の意見を聞く。聞いているのは自分であってその意見を言っている人ではないんだということ。こういうふうに毎日毎日を生きていくことが大切なのではないでしょうか? 私は、最近この風潮がますます減って、何か科学の名においてその科学に従わない少数の意見の人を、それを絶対許さないというような風潮で生きていく人が増えているような気がして、そら恐ろしい気がいたします。いかがでしょうか?

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