長岡亮介のよもやま話30「国際婦人デー」

 3月8日、これは国際的にはよく知られた、日本では国際婦人デーというふうに訳される、「女性の社会進出そして人権を断固として主張する」という戦いの象徴の日としてお祝いする、そういう日であります。今の日本では、特に若い女性たちは「自分たちが差別された階級である」そういう認識はほとんどないように、皆さんとても明るく振舞っています。私はそのような楽観的な女性たちの姿は眩しく見えますが、今でも日本においても非常に根深く続いている女性差別があると私自身は考えていて、それが最もよく表れているのが教育の世界であると感じています。学校の先生、教員の中に女性が少ないという意味ではない。そうではなくて、女性が勉強する、男性と競争し、男性以上に勉強、学習、研究において成果を収めるということに対して、幾分否定的な風潮がある。幾分どころか、ものすごく大きな大洪水とか大潮流とか言ってもいいほどの社会風潮が、まだ残っていると思うんです。

 女性は数学はできなくてもいいとか、女性はデジタルに弱いからというような意味のわからない発言が、ときに女性からも聞かれることは大変に残念なことです。女性と男性とは当然生殖器官という点で決定的に異なる面がありますけれども、知的な活動、いわば頭脳の問題ですね、に関して、そしてその頭脳の働きを支える心の問題、頭脳の表層を支える、もっと深層の心スピリットとかマインドと言われる、その世界において、女性が場合によっては男性以上に優れている、と私は感じることが少なくありません。本当に馬鹿げた事件で男性が逮捕される。賄賂とか収賄とか、そういう醜い事件。そのたびに登場するのはほとんど男性ですね。いかに男性がそういうものに対して知的能力が低いか、ということを物語っているようで悲しくなりますが、女性はそういうことがあまりない。ある意味で男性以上に優れているわけです。

 男性と女性とは同じ点もありますが、このように異なる点もある。そういう同一性と異質性、それを両方とも理解した上で、しかし「基本的人権という人間として侵さざるべきその権利に関して、全く平等である」というのが、近代民主主義の基本理念の一つであると思います。ところで、我が国では基本的人権という最も重要な基本的、あるいは基礎的概念に関して大きな誤解が蔓延しているように思います。それは日本国憲法の表現で、それを自分勝手に解釈している、法律的に理解していないっていうことが、その出発点にある原因かと思います。基本的人権というのは、「全ての人に対してその人の固有の権利、侵さざるべき権利というのがある」ということです。

 その侵さざるべき基本的な権利、人としての権利とは何かと言うと、いろいろな人はいろいろな限界、いろいろな趣味、いろいろな出自を背負って生まれてきて、やがて死んでいく。そういう運命を背負っているわけで、その運命の中で日々を送っているわけでありますが、その人々が送ってる日々において、不断に人間が行わなければならない「選択」という行為、毎回毎回いろんなことを選んでいかなければいけない。何を喋るか、何を沈黙するか、どのように行動するか、何を食べるか、私達は常にそのような選択を迫られているわけですね。その選択を迫られたときに、合理的な理由でこのときはこれが正しいということが、数学や物理学のように論理的にできる世界ではこれが正しい、これが間違ってるということが言えますけれど、実はエンジニアリングの世界、あるいは実学の世界に限らず、私達の日常生活において、私達が普段何気なく行っている選択というのは、論理的な根拠があるとは必ずしも言えない。ある意味でそういうものばかりだと言ってもいいわけです。

 例えば朝、家を出るときに右足から出るか、左足から出るか。人によっていろいろだと思いますけれど、私自身は決めておりませんし、決めてない人が多いと思います。そういうことに関して、もし権力が「必ず右足から出るべきである。」というようなことを、まるで軍隊の行進のように強制するとしたら、どうでしょうか? そんなことどうでもいいじゃないか、そういうふうに言いたくなりますね。言ってみれば、一人一人の人間が自分自身の人生においてこと細かく行っていく選択、もう無限に多い選択があると思いますが、選択をするときに、「これが正しい選択だ。これは間違った選択だ。」ということを、体系的な合理性に基づいて結論することが難しい。そういう事柄に関しては、一人一人の決定を尊重すべきである。これが基本的人権の本質的な意味だと思うんです。

 「人間として尊重されなければならない」ということは、「一人一人が尊厳を持って生きることができる」ということですが、尊厳を持って生きるということと、みんなから尊重される、あるいは尊敬を受けるというのを、誤解してはいけないと私は思うんですね。ご飯を食べるときにお作法というのがありました。最初に箸を持ったら味噌汁に箸をつけ、濡らし、ちょっと汁をすすり、その後にご飯を一膳食べ、そしてその後に味噌汁をまた飲む。味噌汁に限らず吸い物と言った方がいいかもしれませんが。それが日本食を食べるときの基本的な作法である、というふうに教えられたものであります。しかしながら、それはお作法としてそれが合理的であるという理由がそれなりにあると思いますが、そういう合理性が一切ないもの、例えば食べ物に関する好き嫌いというのは、なかなか根深いものがありまして、大人になってみるとこんなに美味しいものというふうに感動するもの、それが子供の頃どうしても食べられなかったという思い出がある人は少なくないと思います。

 私自身の場合は、人参の甘さ、あるいはほうれん草の茎の根元の部分のちょっと赤紫色の部分の甘さ、これが大の苦手でありました。大人になってみると、本当にそれが美味しいんですね。野菜の甘みっていうのがこんなに美味しいものなのかというふうにわかりますけれども。その美味しさがわからない幼児に対して、これを食べなければならないというふうに強制するのは、私は「幼児の基本的人権を尊重していない。」そういう批判を浴びても仕方がないことであると思います。

 好き嫌いというものについて、科学的に解明されているわけではない。そして、嫌いなものも頑張って食べていればやがて好きになるという軍国主義的な教育で、これが功を奏すわけでもない。もしかすると、食べ物に対する一種のアレルギーみたいなもので、体がそれをよけようとしているのかもしれない。そういう可能性さえあるものに対して、これは栄養があるから食べなさいというふうに強制されたら、やはりどんな子供もつらいのではないでしょうか? もちろん、大人は子供たちにその美味しさを示すために、大人たちが率先してこれはうまいな、これはちょっと子供には勿体ないな、やれないなと思いながらみんなで競って食べる。そういうシーンを何回も演出したら、好奇心旺盛の子供たちは、ひょっとするとこれは子供には食べさせられないくらい貴重な食べ物であるから大人の目を盗んでも食べようと、そういうふうに思うかもしれません。私は幼児教育の専門家ではありませんから、それが正しいかどうかわかりません。でも大人たちがやってやれることは所詮その程度のことであって、人に強制することではないということです。

 国際婦人デーを迎え、私達が「女性男性という性差による差別、これを決して許してはならない」という思想のもとに団結してから、ほんの百年ほどしか経っていません。元々は社会主義者の運動でありました。今は社会主義というと、中国共産党あるいはベトナム共産党の独裁政権、そういうのをすぐ連想してしまい、毛嫌いする人が多いと思いますが、20世紀において各国全世界の国々が行っている、国としての政策には、実は社会主義者たちが希望してそれを実現すべきだというふうに運動してきた理念、それがほとんど全てと言っていいくらい、そこに実現されているわけです。男女平等の思想、あるいは男女平等の選挙権。こういうものも実は20世紀の初頭に、社会主義者の運動体におけるキャッチフレーズでありました。そして、さらに遡れば19世紀の中頃、今では全く見向きもされなくなりましたけども、マルクス・エンゲルスという偉大な若者によって始められた科学的社会主義といわれるもの、それに端を発したものであるということです。

 国際婦人デーに関しても国連、UNですね、のWebサイトに行けば、そのような歴史がきちっと書かれています。残念ながら日本の支部は、そのような女性解放運動というのが社会主義運動にルーツを持ってるということを、ひた隠しにするありさまでありまして、やはり歴史に学ばないものは過ちを繰り返すと言われていますが、私たちはこの「記念すべき日を祝う」ということは、この記念すべき日を実現することに対して戦った人々に感謝し、その戦いを継続することを未来に対して誓う、という意味だと思うんですね。私達は偉大な先人たちの切り開いてきた明るい世界を、本当に近視眼的な私利私欲のために見失うことは、絶対に避けなければならないと思います。

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