長岡亮介のよもやま話28「杞憂」

 本日はあまりこの欄では取り上げてこなかった、時事性の高い問題を取り上げてみたいと思います。時事性が高い問題は、私も強く関心を持っておりますが、一方で風化が早い、そういう側面もありますので取り上げることを避けてきたわけです。しかしながら、この一ヶ月間の報道を見ていてもやはり深く考えざるを得ない重要な問題であると思い、皆さんにも考えていただくために、あえて時事性のある問題を取り上げてみたいと思う次第です。ご理解ください。

 それはトルコの東部というかシリアの北部というかトルコとシリアの国境沿いの地帯、それもものすごく大きな範囲、関東全域を飲み込むような範囲において、巨大な地震が起きたということです。そしてその巨大な地震によって、「建物の倒壊」という最もあってはならない被害によって、国民が本当に苦しんでいる。本当に巨大な数の人が亡くなり、今も生死が不明の方も少なくない、そういう厳しい状況に置かれている中にあって、両国の様々な政治的に経緯(いきさつ)から、国際的な機関が人道援助に乗り出してもそれがなかなか被災した人々に届かない、あるいは被災地の復興に繋がらないという問題であります。

 このことはいろいろな意味で示唆的な重要な問題を含んでいると思うんです。まず一つは、我が国と深い歴史的な関係のあるトルコという地域において起きた大事件でありながら、ほとんどの人々があまり大きな関心を払ってるようには見えないことです。私達はもう少し自分の身の回りの問題として、世界の動きに敏感であるべきだと私は常々思うのですが、日本が例えば国連という国際機関を通じて世界平和に貢献しよう、日本の存在感を大きくしよう、日本のプレゼンスを世界に示そう、とこういうような民族主義的な声はすごく多いのですが、国連なんていうのは所詮は第2次世界大戦の戦勝国が常任理事国という特権的な地位を占め、日本はようやく膨大な努力とお金を使い、非常任理事国の仲間に入れてもらっているという状況に過ぎない。

 いわば国際的に見て日本は弱小の極東の島国の一つ、中国の言い方をすれば第2次世界大戦の敗戦国という現実があるわけですね。その現実に私達はもう少し目覚めて、では私達は国際的にどういう貢献ができるのかということを考えていかなければいけないと私は思うのですけれど。そしてそのことは私達の毎日の日常生活に関係することであると思うのですけれども。私はテレビで、トルコ南部というかトルコ東部シリア北部その巨大地震のニュースの後に全くおめでたいというか、呑気というか、そういう国内ニュースの報道が続き、それについさっき深刻な世界の事態を報道したアナウンサーが、今度は笑顔で日本の国内の事柄、楽しい事柄を嬉しそうに伝える。その姿を見ると、やるせない気持ちになってしまいます。まず私達の国際的なプレゼンス、日本の世界に対する貢献、それをもっと大きなものにするためには、「私達がもっともっと国際的な情報に対して敏感である」そういう国民であるということがとても大切ではないかと思います。

 私は昔、韓国や台湾に行ったことがあるのですけれど、そのときに一番びっくりしたのは、韓国や台湾の若者たちが政治に対して非常に敏感であることでした。シンガポールに行ってびっくりしたのは、シンガポールではタクシー乗ったときに、タクシーの運転手がそのときのドル円レート、為替レートのことにまで敏感で、最近のドルの動きはとかっていう話が言ってみれば運転さんとお客との日常的な会話として登場するという、世界情勢に対するシンガポールの人々の経済の敏感さでした。

 元の韓国、台湾の若者の話に戻ると、そのときに私が向こうの学生と話していてすごく驚いたのは、彼らは「日本の若者がうらやましい」と言ったことです。それは日本の若者は政治のことに無関心である、と聞いている。政治のことにあるいは経済のことに無関心でいられる日本は、なんて平和な素晴らしい国だろう。若者がそういうことから離れて遊びにうつつを抜かす、そのくらい国が平和であることはうらやましいと言ったことでした。私はそれを聞いて、決して「日本は平和なとてもいい国ですよ、だからそうなんですね」というふうに返事をすることはできませんでした。

 それは日本の国民が、一人一人が世界情勢に強い関心を持たないで、そのときの日本の国内の大きく報道される、言ってみれば俳優のスキャンダルとかそういうようなものに対してしか関心がないということに対して、日本が平和だからではなくて、日本の報道があまりにも貧困である、日本の教育があまりにも貧困である、そういう情報の貧困さによることの結果ではないか、とそういうふうに感じたからなんですね。一言で言えば教育の貧困と言ってもいいかもしれません。

 考えてみると、日本のテレビ局はずいぶんデジタル放送が増えたこともあり、チャンネル数は増えました。しかし、やっていることはといえば本当にどの局も似たり寄ったりでありまして、国際的に見て深刻な報道の後には、次は本当にマイナーなスポーツ、しかしマイナーなスポーツではなくてきっと国民的人気のあるスポーツなのでしょう、そういうものの報道が延々と続く。そういうような国ですね。テレビがテレビとしての体をなしてない。本当はテレビっていうのは所詮そんなものですから、娯楽番組はテレビであるとして、新聞を読んで人々が物を考えるということを重視しなければいけないのに、新聞を読む人が少なくなっている。テレビが新聞の代わりになっている。そもそも、大きな民放の局というのはみんな新聞社の子会社のようなもので、むしろ子会社よりも実際は威力が親会社よりも大きくなってるのかもしれませんけれど、報道が報道としての意味を持ってない、という状況が続いています。

 しかし、これは報道に関する問題だけではなくて、新聞を含む日本全体のジャーナリズムの低下傾向。そのジャーナリズムの低下傾向を生んでいるのは国民の教育レベルの低下という深刻な問題である、ということに私達は気づかなければならないということです。

 そして、トルコシリアの地震に関連してもう一つ私が思うのは、ここで人道支援のために日本でも頑張って活動している、英雄的な人々がいて、その人々の行動を支えようとして動いている日本の人々がいるということも私は知っていて、そのことはとても嬉しいことであるし、私もそういう人々と一緒にささやかながらできることをしたいと願っておりますけれども。そのときにシリアで起きた災害が建物の崩壊による轢死、圧死ですね、圧力による死亡であるとその数が莫大な数である。しかもそこに対する人道物資がなかなか届かない。そういう状況の中で、実はこれほどを災害が大きくなったのは、「建物の耐震強度が守られていなかったせいである」という報道がしきりとなされています。

 しかし、耐震強度が守られていなかったというのは何を意味してるんでしょうか? トルコは日本と同様に様々なプレートがぶつかり合う地震の多発地帯であるために、日本と同様に厳しい耐震基準が設けられている。しかし、せっかく決めた厳しい耐震基準をすり抜けて、建物の強度を自ら弱くするような建物を、実際に作って販売し、営業している。そういう不動産業者なり、建設業者なり、その建築を許可している行政政府の役人があり、そして自分の店舗を少しでも見栄えが良くするために1階の柱、大事な柱を取り除くそういう店主がおり、それより上の階に住む人たちがそれによって被害に遭ってる。というような報道があり、「これは人災である。自然災害であるというよりは天災であるというよりは人災である。人間的な災害である。」と、そういう側面を指摘している。人々がいます。

 この人々の活動は極めて重要でありまして、実は私は「全ての災害は人災である」と思っています。なぜならば、自然は人間に災害をもたらすために活動してるんではなくて、地球の活動の一環として、そのような人間にとって災害に見える、そういう現象をときどきを起こす地球に責任があるというわけではない。一昔前の人々であれば神々が怒って災害によって人々を困らせ、反省を迫っている。そういうふうに日本の人々が考えたかもしれません。西欧の人々でも神々とは言わなくても、一人の神様の怒りに触れて、こういう現象が起きてるんだ、とそういう考えたかもしれません。

 地震とか雷というのは決してそのような人格的な神様による災害ではなく、地球の自然現象だと思うんですね。地球の自然現象が、時々私達の想像を超えるような規模の大災害をもたらすということを、私達は歴史を通じて知っているわけですが、一方で私達は歴史を通じて、そのような巨大な災害が滅多に起こらないということも知っているわけです。そして、私達は人間の小賢しさ、それは人間の利口さといってもいいかもしれませんが、めったに起きないことはあまり考えなくて良いという経済学の原理、それを身につけているわけですね。めったに起きないこと、それについて心配するというのは馬鹿馬鹿しいことであると。中国の杞の国にそれを憂える人がいたと。杞憂という言葉が日本にありますけれども、起こり得ないことについて心配をしていることは馬鹿げたことであるという、昔からある有名な話であります。

 しかしながら、自然災害に関して、杞憂というのはあり得ないわけでありまして、全ての自然災害は地球的規模の災害というのは、私達の想像を絶する規模で起こりうるわけです。かつてユカタン半島付近に落ちた隕石、「その隕石の爆発によって地球の生命の大部分が失われ、その中に恐竜もいた」という説が、今では有力視されております。地球のあちこちに、私達が月で見るようなクレーターと同じ後を発見することができる、ということも私達は知っています。私達地球は隕石の衝突一個取ってみても、そういう大災害であったということを科学的に知っているわけです。

 そのような大事件でなくても地震というのは、例えばマグニチュード9クラスというのは、東日本大震災の地震規模であって、本当にめったに起きない大地震でありますけれども、めったに起きない大地震って言っても、地球全体では一年に一度くらいは起きる程度に、平凡なごく自然な現象に過ぎないですね。しかし地球全体において一年に一回ということは、例えば日本の福島沖あるいは日本の関東地方というふうに場所を限って言えば、地球全体において千分の一も当然いかないわけでありますね。一万分の一もいかない。ですから、千年に一度のことが地球全体の一万分の一のところで起きるそういう確率というのを考えれば、それは非常に小さな確率ということになる。まさに杞憂、そういうことについて心配するのは杞憂ではないかというふうには思ってしまいがちなんですが、私達は自然災害について考えるときに、杞憂というような経済学的な原理に従って考えるのはよくない。やはり自然災害はいくらでも大規模なものは起きうるという、自然科学的な冷静さというのを常に持たなければいけない、と思うんです。

 つまり、自然科学的な冷静さっていうのは、いかに大きな災害も起きうるということですね。人間が想像できる災害というのは、自然科学的なレベルで極めて小さなレベル、私達の短い人生の歴史の中で、私達の生きている非常に狭い生活空間の中で、そういうことが起こる確率が極めて小さいというに過ぎないわけで、自然は遥かに巨大であり、地球でさえも巨大であるわけです。その巨大さがどれほどのものであるかということについては、科学を理解してないと理解することができないわけですね。

 しかしながら、科学的な精神でもって私達の日常生活を設計することは、必ずしも合理的でない。私達は私達の生きている間に私達の払うべきコスト、それは有限でありますから、私達の社会に対して貢献できる労働、それも限られてるわけですね、その限られた資源を使って何かをするわけですから、当然限られた資源を有効に使う。これは人類の知恵と言っていいでしょう。私が経済学っていうふうに言ったのは、別に狭い意味での経済学ではなくて、人間が生きていく上で小賢しく振る舞うということは、人類の生きる知恵であったと思うんです。工学技術の世界、エンジニアリングの世界というのはそういう人間の知恵の結晶でありまして、人間が知恵を使うことによって、より快適に私達の生活を実現する。そういう知恵ですね。

 ですから、耐震基準といっても、例えば千年に一度のような巨大な地震が来ても建物が全崩壊することはないという程度の強さ、これは技術的に実験的に計算することができます。エンジニアリングの人たちは慎重ですから、そういうふうに実験で得たデータに基づいて建物の耐震基準をつくるときには、その10倍の規模の振動が来ても建物が崩壊しないというような「かける10」っていうのを最後にして、耐震基準を作るわけですね。ですから耐震基準を守った建物っていうのは通常の地震ではびくともしない。それは間違っていないと思います。しかし、通常の地震ではというところが大事なわけでありまして、工学的に考えるべき地震というのは、工学者は人々の役に立つことを考えてるわけで、絶対正しい真理を追求してるわけではありませんから、今の私達の技術、私達のリソース、それを使って最大の安全性を見込むことができる。それが耐震基準なわけですね。ですから、耐震基準というのはいつも経済性というのがその裏につきまとっている、ということに私達は敏感でなければならない。

 私達が自然の持っている力に対していかに無力であるか。その無力である人間が、耐震基準というようなものを作る際に何をしているか。というような最低限度の技術的な知識というのは、国民的な教養として持っていなければいけないのではないでしょうか? もしそれが国民的な教養になっていないとすれば、近代的な建築の建物、それに無条件に信用して高層建築に暮らすことの快適さの方に人々は自然に走ってしまう、と思うんですね。私達がそのような快適さに走らない、あるいは快適さを優先して、安全性を犠牲にしてるっていうことに気づかない、ということは私に言わせれば、教育の怠慢あるいは教育の不徹底でありまして、それをきちっと行うことは、いわば社会的な義務、国家的な義務だと思うんですね。

 日本では技術的な話と科学的な話が混同されているという話題を前に取り上げましたが、技術の問題に関しては、私達は決して絶対というのはあり得ないこと、しかしながら技術を考えるときには経済性を考えるということは不可欠でありましょうから、常に私達は与えられた限界の中で最大の安全性を見込むように、不断に努力していかなければならないということ。技術には最終は決してないということ。そのことを肝に銘ずるべきだと思うんです。まして巷間聞かれるようなその技術的な基準を無視して、快適さを優先する人々がいた。そしてそれを許した人々がいたというようなことは、人間の浅はかさの象徴として、私達は将来に向かって語り継がなければならない偉大なレッスンだと思いますけれども、重い教育ですね。気の重い教育でありますけれども、やっていかなければいけないことの一つであると思います。

 最近の大ニュースに関連して、しかし時事性の高い話題ではなく、私達にとって時事性を超えて大切な問題として考えなければいけない問題を提起させていただきました。

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